第5章 見知らぬ大人たちの間を歩く子どもたちのように

   1


 港務長官シャーバンダル邸を出ると、入口の階段を降りたところでアディが待っていた。

 川沿いの邸から王宮までは少し距離があり、僕らは背の高いヤシ科の木々の巨大な影が並ぶ足元を、見知らぬ大人たちの間を歩く子どもたちのように、月明かりを頼りに歩くしかなかった。白い砂地の道はほぼ真っ直ぐに伸びていて、他に人の姿は見えなかった。

 アディは僕の前を歩いていた。腰に巻衣サルンを巻いただけのアディの肩は月の光に青光りして見え、腰に差した短剣クリスの柄の飾りが歩調に合わせて時々きらりときらめいた。

「港務長官殿はあんたに何を話したんだい?」と、その背中でアディが言った。

「要は、僕に港市に来いという話だった。十日後には港市に行くことになりそうだ」

「それだけか」

 もしかすると、アディは床下か窓の外かどこかで僕と港務長官の会話を聞いていたのではないか。港務長官は人に話を聞かれることをずいぶん気にしていた。

「あとは、これは君に言っていいものかどうか分からないんだけど、先代の国王夫妻が亡くなった原因について……」

「ご病気だよ」とアディは振り返らずに言った。「港務長官殿が何を言ったか知らないが、姫様がお心を痛めるような話を俺は信じないし、口にもしない。あんたも口にしないでくれ」

「分かった」

「言っとくが、俺は別に宰相ブンダハラ派でも港務長官派でもないからな」

「やっぱり、港務長官と宰相が対立しているんだな」

 アディは足を止め、嫌な顔をして振り返った。

「俺はそんなことに興味がないって言ってるんだよ」

「分かってる。君にとって大切なのはムラティ王女を守ることだけだ。そうだろう?」

旦那様トゥアンと姫様のお二人を、だよ」

「だから、僕は君のことを信用できる人間だと思ってる」

 アディはまた僕に背中を向けて歩き始めた。

「俺は嘘や汚いことが嫌いなだけだよ」

「僕はこの島では全くの異邦人だ。家族もいないし、友達の一人もいない。家も、畑も、ヤシの木の一本も持ってない」

「ああ」

「だからこの国のまつりごとにも、権力争いにも何の関係もない。僕が望むのは、妹の待つ日本ジュプンに帰ることだけだ。あの子の顔を見たい、声を聞きたい、安心させてやりたい、それだけなんだ」

 アディは答えなかったが、話を聞いている気配はあった。

「君の助けが欲しいんだ、アディ。特に何もしてくれなくてもいい。ただ僕が妹のところに帰れるために、何か知っていることや分かったことを教えてくれるだけでいい。もちろん、君や国王や王女が困るようなことなら黙っててくれればいいから」

 いつしか僕らはヤシの木立を抜けて、傍系の王族たちの家が並ぶ通りを歩いていた。アディは何も言わずに足早に歩き続け、裸足で歩き慣れていない僕は軽く息を切らせながら追いかけなければならなかった。

 王宮前の広場に出ると、石畳が月の光で濡れたように光っていた。アディは大きな岩に座ると、「まあ座れよ」と僕を促した。

 僕が座ると、アディは王宮の三角屋根のてっぺんの彫刻を見つめたままで言った。

「あんたの家族は妹しかいないのか?」

「妻も子供もいない。父親も母親も七年前に死んだ。七つ下の妹の茉莉まりとずっと二人でやってきたんだ」

二親ふたおやを一度に亡くしたのか」

「まず母親が病気で。それから半年で父親が自動車モービル事故クチュラカアンで」

「何のクチュラカアンいだって?」

「自……つまり、乗り物だよ。僕は二十歳で、妹は十三歳だった」

 そして僕は、両親が亡くなってからの七年間の生活のことをアディに話した。この国に来てからそんな話を人にするのは初めてだった。いや、日本でもほとんど話したことなんて無かった。もちろん古い友人は大体のことを知っていたが、新しい友人や、好意を抱いた女性にそんな話を聞かせることはできないと思っていたからだ。

 途中、アディの知らない言葉や概念をつい使ってしまって話が滞ることは何度かあった。たとえば、「せめて妹が高校SMAを出るまでと思って……」「待ってくれ、エスエムアーって何だ?」「つまり……学校スコラだよ」「……スコラって何だよ」といった具合に。しかし彼は真剣に話を聞き、大体のところは理解してくれたようだった。

「つまり、あんたは何があっても国に帰らなきゃならないんだな。あんたのためじゃなく、妹のために」

「その通りだ。僕にとって本当に大切なのはあの子だけだ。君やこの島の人々にはなるべく迷惑をかけずに早くここを去って、彼女のところに帰りたいと思ってる」

 アディはずっと王宮を見上げていた。まるでそこから自分の行動ための指針を得ようとしているかのように。月は中天にかかり、王宮の深い軒は、神話的な彫刻に埋め尽くされた壁面に黒々とした影を落としていた。

「話は分かった」

 アディは立ち上がって僕の顔を見た。彼の顔は影になって表情が見えなかった。

「ただ俺は、旦那様と姫様がお命じになったことは絶対に実行しなければならないし、お二人が禁じられたことは絶対にするわけにはいかないんだ。それは分かるよな」

「分かってる」

「俺もかわいそうに思うよ、その、あんたの妹のことは」

「ありがとう」

「名前は何て言った」

「茉莉」

「マリ。美人か?」

「名前の通りだよ」嘘でもないのにだますような気がして一瞬ためらったけれど、僕は言った。「ジャスミンムラティ。茉莉という文字は、僕らの国の言葉でジャスミンという意味なんだ」



   2



 茉莉の夢を見た。


 気がついたとき、僕はベッドの上に横になっていた。部屋は暗かったが、ヘッドボードに埋め込まれたデジタル時計の光でぼんやりと様子が分かった。出張のときの定宿にしているシンガポールのホテルの部屋のようだった。

 時計の数字は"7:76"を示していた。今に"7:77"になるだろうと思ってしばらく見つめていたが、変わらなかった。

 サイドボードの上にあるスイッチを探り当てて明かりをつける。電圧が低いのか、ぼんやりと暗いオレンジ色の光に、白い壁に取り付けられたテレビと抽象画の額、書物机の上の鏡、黒いミニバーが浮かび上がった。

 本当にここはシンガポールなのか。窓の外の景色を確かめようとベッドを降りて部屋を一周してみたが、右も左も白い壁で、窓は無かった。クローゼットとバスルームの間の通路の奥にあるのも、ドアではなかった。ドアがあるべき場所にドアは無く、大きな全身鏡がはめ込まれているだけだった。鏡に写った僕はバスローブを着ていて、顔には表情が無かった。

 振り返ってヘッドボードの時計を見ると、表示された数字はまだ"7:76”のままだった。

 書物机の上のリモコンを取り、テレビの電源スイッチを押してみる。ぷつんと音がして画面が少し明るくなったが、それだけだった。ベッドに腰掛けて目を凝らし耳を澄ませてみても、何も見えず、何も聞こえない。

 何も入ってこない、何も出ていかない部屋。この部屋には、外というものがないらしい。ここがシンガポールかどうかなんてことに、どうやら意味は無いようだった。

 ベッドに腰掛けて目を閉じる。何も聞こえない。空調の音すら。自分の呼吸の音ばかりがやたらに大きく聞こえる。

 でもしばらくそうしているうちに、目でもなく、耳でもなく、鼻から入ってくる情報の存在に気がついた。お香をくような匂いが、どこからか漂ってきていたのだ。

 匂いのもとを嗅覚だけでたどるというのは、口で言うほど簡単ではない。気流にはむらがあり、匂いは強まったり弱まったり、ややもすれば全く消えてしまったり、身動き一つ、呼吸一つでめちゃくちゃにかき乱されてしまったりする。しかしこのあやふやな部屋の中で、この匂いだけは確かなもののように感じられた。

 デジタル時計はまだ"7:76"を示している。

 僕は時間をかけて、匂いが流れ出て来る源を探し出した。それはクローゼットだった。

 合板の戸を開くと、匂いはさらにはっきりとする。東洋的な、あるいは日本的な、白檀のような香木の香りだった。

 クローゼットの奥の壁の、木目調の化粧板には、ちょうど僕の目の高さに、短冊大の黄ばんだ縦長の布がられていた。

 そして板の向こうから、何かが聞こえる気がした。

 はっきりさせるためにテレビを消し、ハンガーをかき分けて壁板に耳を当ててみると、かすかに人の声のようなものが聞こえる。抑揚のついた声が、高くなったり低くなったりしながら続く。

 板に貼られた黄ばんだ布には、うっすらと模様のようなものが見えた。縦長の、白っぽい人物像のようなものがあり、その頭部と思われるあたりから、放射状の線が出ている。何かの絵を裏側から見ているらしかった。

 今度はその布に耳を当ててみる。すると声はさっきよりも明瞭に聞こえた。人の声、それも女性。何を言っているかまでは分からないけど、抑揚のパターンや母音の響きは日本語のもののように思えた。

「おいあん、いいえあええ、いええ、おえあえ、え」

 そんなふうに聞こえる音の連なりの中に、耳が慣れるにつれて「…ても…」とか「…るから…」といった日本語の断片が聴き取れるようになった。

 少女に近いような、若い女の声。「まさか」と思うのと同時に、その声が「おにいちゃん」と言うのを聞いた。と、僕は思った。

「茉莉!」僕は夢中でその壁をどんどんと叩いた。「茉莉! ここだ! ここにいるよ! 茉莉! お兄ちゃんはここだ! 茉莉ちゃん!」

 しかし茉莉は答えなかった。声は聞こえなくなった。僕は爪を立てて、壁にしっかりと貼られた布をばりばりと引きがした。それで僕は、その布が何だったかを知った。わが家の仏壇にまつられている、小さな掛け軸の阿弥陀如来立像だった。

 その瞬間、僕は体を引き裂くような理不尽で激しい恐怖に襲われ、自分の叫び声で目を覚ましたのだった。


 目覚めた僕はクンバンムラティ島の王宮の別棟にあてがわれた自分の部屋にいて、竹のベッドに全身汗みずくで横たわっていた。現実に――この国が本当に現実だとすればの話だが――戻ったはずなのに、まだお香の匂いがうっすらと漂っていた。

 日の出前の、まだ薄暗い時間だった。匂いは微風に運ばれて窓から入ってきているようだったから、竹のすだれを少し上げて外を見てみると、王宮の裏庭に数人の影があった。

 庭の中央にある大きな榕樹ブリンギンの古木の下に、王宮の女官らしい女性が二人立ち、ひとりが水瓶を、ひとりが花を盛った籠を捧げるように持っていた。そしてその二人の間で、小柄な白っぽい影が木の根元に向かってひざまずき、何か儀式を執り行っているようだった。白い香煙はそこから立ち昇っていた。

 あの香の匂いのせいであんな夢を見たのだ。

 緯度の低い土地では太陽は垂直に昇ってくる。空にはたちまちのうちに赤い光が広がり、鳥たちが一斉に奇妙な声を上げ、樹冠や屋根にほのかな光が差し始める。

 小柄な人物が立ち上がり、二人の女官が深く礼をした。女官たちの体によって半ば隠された後ろ姿だけでも、その人物がムラティ王女であることが分かった。下ろした髪が意外に長く、細長く真っ直ぐな身体が白く見えた。

 僕は簾を下ろし、ベッドに戻って、シーツ代わりの布をかぶった。

 ただの儀式だ、と思いつつ、何か見てはいけないものを見た気がしていた。まだ白檀の匂いがする。王女の髪は濡れているように光っていた。あの白い身体は、もしかすると何も身につけていなかったのかもしれない、という考えが浮かび、冒涜ぼうとく的に思えてすぐに打ち消した。僕は香の匂いとあの夢のせいで、意識に変調を起こしているに違いなかった。僕は再び眠りに沈み、今度は夢も見なかった。

 王女が部屋を訪ねてきたのは昼前のことだった。

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