第6章 窓枠に掴まってぶら下がっていたのは

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 昼前にもう一度目を覚まし、厨房へ行って料理番に何か食材をもらおうかと考えていたとき、窓のすだれががさがさと揺れた。

 鳥でも来たのかと思ったら、二つの小さな手が窓枠につかまっているのが見えて驚いた。高床の建物だから、ここはほとんど二階ぐらいの高さがある。子供のいたずらにしても危険だ。あわてて駆け寄り簾を取り払って見ると、窓枠に掴まってぶら下がっていたのは、見間違えようもないあの少女剣士、ラトゥ・ムダ・プトリ・グデ・ムラティ王女だった。

「危ない。何してるんです」

 手を差し伸べようとした僕に、王女はぶんぶんと首を振った。

「どいて。後ろに下がって、もっと」

 王女は、えいっとばかりに勢いをつけて懸垂の要領で体を持ち上げ、右足の指で窓枠をしっかりと掴み、勢いをつけると、脚のバネを利かせてひらりと跳躍し、床に着地した。

「どうしてこんな危ないことをするんです」僕の声は自分でも驚くほど怒気を含んでいた。「もし怪我でもしたら、どれだけ多くの人があなたのこと心配すると思ってるんですか」

「だいじょうぶよ。いつものことだから」

 王女は色あせた絣織イカット巻衣サルンすそを直して、背もたれのない木彫りの丸椅子に座った。そして乱れた髪をいったん解いて、飾っていたジャスミンの花の束を膝に置き、一から結び直し始めた。

「扉から入ってくればいいじゃないですか。ここはあなたの家なんだから」

「正式に訪問しようと思ったら、しきたりアダットがいろいろ面倒なの。わたしは王族だし女だし子供だし、あなたは異国人で独身の男だから、ぜったいに宰相ブンダハラの許しが出ないと思う。ちょっと宮殿の外に出るだけでも、なかなか許してくれないんだから」

「いつも広場で遊んでるじゃありませんか」

「そうよ。だから窓から出入りするんじゃないの」

「あまり意味の無いしきたりみたいですね」

「いいの。それが宰相の忠義なの」と王女は真顔で言った。「ミナミ、あなたは客人なんだから、わたしの国のしきたりに口出ししないで」

 同じ部屋でこうして間近に向き合っていると、彼女は普通の十代の少女に見える。この島の住民にしては色白の肌も、常に日に当たっている腕や肩はきれいに日焼けして夏休みの子供のようだ。しかし、ここがどういう場所で、自分と相手がどういう立場かを忘れてはいけない。顔は何度も見てるけど、まとまった言葉を交わすのは初めてだ。注意深くなければならない。

 結び直した髪に花を飾り終えると、王女はこちらに真っ直ぐに顔を向け、じっと僕の目を見た。物怖じせずに相手を直視するまなざしは、明らかに普通の子とは違っていた。

「アディからあなたのこといろいろ聞いてるわ。妹さんのことも」

 王族といっても十三、四歳くらいの子供じゃないか。そう思うのだけど、真正面からムラティ王女の視線を受けると、情けないことに僕は急にどぎまぎして言葉がうまく出なくなってしまった。

「はあ……」

「だからその話を聞きに来たわけじゃないの。あなたがどんな人か見に来ただけ」

「そうですか」

「アディがね、あなたの力になってくれって言うの。彼がわたしになにかお願いすることなんてすごく珍しいのよ」

「アディはいつも、あなたのために役に立ちたいと考えているようです」

「そう?」ぱっと笑顔になると、さっきまでの力強い視線が嘘だったみたいに、今度は少女らしいあどけない表情になった。「そのアディが友達のために、不敬を覚悟で王族のわたしに頼み事をしてきたのよ。だからきいてあげたいと思ったの」

「ありがとうございます」

 僕は自分が立ったままで王女と話していることに気づき、床の敷物に座った。それがこの国の作法にかなっているのかどうかは分からないけど、「不敬」なんて言葉を聞くと気にしてしまう。

「お父さまとお母さまにも相談してみたわ。はっきり聞こえたわけじゃないけど、間違ってないって言ってくれてたと思う」

「聞くところによると、前国王夫妻はすでに……」

「ええ。そうよ。おかくれになったわ。だから、はっきりと話ができるわけじゃないの、この王都コタラジャでは」と、王女は不思議なことを言う。「ミナミ、あなたもご両親を亡くされたんですって?」

「はい。七年前に」

「お気の毒に」まるで僕が七日前に両親を亡くしたと聞いたみたいに、王女はいたわりのまなざしで僕を見た。「ミナミは、お父さまとお母さまに会いたい?」

「どうでしょう。もう分からなくなってしまいました。今は妹のことだけが気がかりです」

 王女はしばらく何か考えていたけど、小さくうなずいてぴょんと椅子から降り、膝歩きで僕に近づいてきた。そして目の前にぺたんと座ると、声をひそめて言った。

「ねえ、わたしと、アディとあなたとで、内陸ダラム神殿チャンディに行ってみない?」

「何ですか、それは」


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 この国には主に、西から東へ順に港市バンダル王都コタラジャ内陸ダラムという三つの地方があるという話は前から聞いていたが、三番目のダラムについては今まであまり具体的に聞いたことがなかった。

 王女の話によると、ダラ厶は確かに王国の一部ではあるが、深い森に覆われた土地で、集落ごとの族長に率いられた不思議な人たちが住み、王都の民や王族が知らないような様々ないにしえの知恵を伝えているのだという。

 そしてそこには、遠い昔に島から去ってしまった古き神々デワが築いた石造りの神殿チャンディがいくつもあるとのことだった。おそらくヒンドゥー教時代の寺院の遺跡だろう。その一つに「花園チャンディ神殿タマンサリ」という場所があり、そこに行けば、生者であれ死者であれ、自分にとって最も会いたい人々に会い、言葉も交わすことができるのだと王女は言う。

「森の中にある、大きな古い石造りの塔なの。誰もいなくて、中は昼でも真っ暗で。そこでお香をきながら、日の入りから瞑想を続けていたら、夜中になるとその人が現れるのよ」

 おそらく信仰や強い思い込みが見せる幻だろう。僕は明け方の夢のことを思い出した。あるいはお香の成分に何らかの作用があるとか、遺跡の中に火山ガスや一酸化炭素が溜まっているとかいった原因で、意識レベルが下がって幻覚を見るのかもしれない。

「きっとお父さまとお母さまにお会いできると思うの。あなたもよ。マリさんにも会えるわ」

「なるほど、僕は茉莉に会えるかもしれません。でも茉莉は僕に会えるんでしょうか」

「……変なこと言うのね」

「せっかくですが、今は国へ帰ることだけを考えたいんです。帰って本物の茉莉に会いたいんです。両親も、僕が一日も早く帰って彼女のそばにいてやれることを望むはずです。そのために、何日かあとには港市につことになっています」

「大丈夫。そんなに遠くないし、何日もかからないわ」

「今までに、そこにいらっしゃったことはあるんですか?」

「誰も連れて行ってくれないの。しきたりで、未婚の女性王族はダラムに足を踏み入れられないから……」

「アディは?」

「彼は川上の村の出身だから、ダラムのことも知ってるはずだけど、危ないからだめだって言うの。ミナミもわたしの剣の腕を見たでしょ? 逆賊にも獣にも負けたりしないのに」

「獣?」

「ええ。ハリマオっていう獣。知ってる? とても大きな猫なの」

 おおきなねこなの、じゃないでしょう姫様……と少々あきれつつ、僕はうなずいた。

「見たことはあります」

「ミナミと一緒なら、アディも行くって言ってくれる思うの。あなたは大人の男だし、アディの友達だし。三人なら安心でしょう?」

 要するに王女は自分がそこへ行って、父母の幻と会いたいのだ。しかし、僕が一緒だからといって、アディが彼女を逆賊や虎の危険にさらすはずがない。そんなことは僕でも分かる。それが分からない子じゃないはずなのに。

 王女の気持ちを思うとかわいそうだったけど、僕はもちろん、うんと言うわけにはいかなかった。

「ありがたいお言葉ですが、危険な場所ならなおさら僕は行けません。それに、大人だからこそ、子供のあなたを虎が現れるような場所へ連れて行くわけにもいきません」

「ミナミのことはわたしが守ってあげる。わたしは子どもだけど、来年は十五になるわ。成人の儀式の準備も始めてるのよ。大丈夫。行きましょうよ」王女は両手で僕の巻衣のすそをぎゅっと掴んで引っ張った。「ねえ、お願い。あなたからアディに頼んで」

 こうなるとただの駄々っ子と変わらない。僕は懐かしいものを感じずにはいられなかった。とはいえ幼い頃の茉莉みたいに、頭を撫でたり甘いものをあげたりしてごまかすわけにもいかない。僕は裾を引っ張られながらも、日本式に居住まいを正した。

「王女、あなたの地位に敬意は払いますが、私はあなたの臣下ではありませんし、全てに従うことはできません。嘘をつくわけにも、考えを曲げるわけにもいきません。それに十四歳や十五歳など、私の国では全くの子供です」

 王女は僕の衣から手を離して、再び突き通すようなあの視線で僕の目をじっと見た。僕は内心たじろぎながらも、最後まで言い切ってしまおうと心に決めた。

「ただ、ご両親にひと目会いたいというお気持ちは、痛いほどよく分かります。あなたのように心が強く育っていなかった妹の茉莉が、いったい何か月のあいだ毎晩泣いていたことか」

「わたしも泣いたわ」と、ほとんど聞こえないような声で王女が言った。「何百日もの間」

「あなたとアディの友人として、お話を彼に伝えることだけはさせていただきます。私からアディには、行きたいとも行きたくないとも言いません。嘘はつけないからです。どうかそれでお許しください」

 僕が頭を下げて、そして上げても、王女はまだじっと僕の顔を見ていた。視線は全てを突き抜けて、僕の心の奥まで達しているような気がした。でもかまわない。僕は何も嘘をついていないのだから。

 王女はそのまま長い間僕を見つめていた。僕がだんだん不安になり始めたころ、王女は一瞬だけ眉間にしわを寄せて軽く下唇を噛み、それからふっと表情を緩めて言った。

「分かったわ。ありがとう」

 僕はもう一度、少女に頭を下げた。

「申し訳ありません」

「いいの。あなたはぜんぜん間違ってないと思う」

 王女はそう言うと、自分の巻衣の胸元に指を突っ込み、なにか細長い茶色いものをつまみ出した。

「ミナミ、あなたにこれをあげるわ」

 それは木の枝か、木の皮のような物で、一見シナモンスティックによく似ていたけど、もっと細く、筒状ではなく中まで詰まっていた。

「これがそのお香よ。『花園の神殿』ほどじゃなくても、他の場所でも少しは効果があるわ」

 手に取ると、強い芳香が広がった。明け方に嗅いだあの香りの源はこれに違いなかった。

「じゃあ、またね」

 立ち上がったかと思うと、王女は飛ぶように二、三歩駆け、窓枠に片手を掛けてひょいと外へ跳び出した。

 僕が窓際に駆けつけた時には、小さな虎のように身軽な少女はもう床下の柱を伝ってほとんど地面に降りようとしているところだった。彼女の両足が地面に着くのを見届けてから、僕は声をかけた。

「王女、どうかやめてください。いきなりそんなことをされると心臓が止まります」

「いつものことよ!」

 そう叫んで広場の方へ駆けていく裸足の王女の後ろ姿を、片手にお香を握って見送りながら、僕はなんとなく胸がいっぱいになっていたのだけど、その気持ちを言葉で説明するのは難しい。自分でもよく分からなかった。

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