第2部 バンダルにて

第7章 川を下る船団は大小三十隻以上に及び

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 川を下る船団は大小三十隻以上に及び、先頭が王都コタラジャの船着き場を出発してから僕らの船が漕ぎ出すまでにずいぶん時間がかかった。

 緑色の屋根を頂く港務長官シャーバンダルの乗船は、両舷りょうげんに並んだ十二人の漕ぎ手の力で、赤や白の長い旗をなびかせながら船団の中央を航行していた。その周りを、銅鼓ゴン横笛スリンなどの楽隊を乗せて演奏しながら行く船や、薄布のカーテンで目隠しされた港務長官家の貴婦人たちの屋形船、武装した護衛の一団を載せた軍船などが、カフェオレ色の広い川をゆっくりと下っていく。僕らの乗った小舟は船団の後ろの方に位置し、屋根というほどのものは無いけど後部に布製の簡単な雨覆いがあって、もし雨が降っても荷物の間にしゃがんでいればとりあえず頭から濡れる心配は無かった。船頭は五十過ぎぐらいに見える陽気な男で、僕には分からない島の言葉で歌を歌ったり、訛りのきつい言葉で冗談を言ったり始終にぎやかだった。

 木々や大きな家の多い王都にいるとそれほど強く感じなかったこの島の昼間の太陽が、遮るもののない川面では頭上から強烈に照りつけてくる。それで僕らを含め水夫や船客の多くが平たい編笠チャピンを被っていて、どこかで見たような風景だなと思ったら大名行列に似ていた。いや、これはむしろ本物の大名行列そのものと言ったほうが良いのかもしれない。

 僕とアディの乗った小舟は、貴婦人たちの船のうちの小ぶりな一隻の近くを並走していて、内容は聞こえないけど若い女性たちが何かおしゃべりして笑い合う声と、船がさざなみを掻き分ける水音と、船団に驚いて飛び交う鳥たちの声と、楽隊の奏でる気だるい金属音とが、強くなったり弱くなったりしながらずっと続いていた。

 僕の護衛と手助けをアディに命じてくれたのはもちろんムラティ王女だった。しかしアディ自身は、ダラム行きを断ったためにしばらくの間王女に一言も口を利いてもらえなかったらしい。ただ、出発間際になって船着き場に現れた王女が、アディに何か声をかけて布包みのようなものを手渡すのを僕は見ていた。

「アディ、王女は何をくれたんだ?」

「見たいか?」

 アディは自慢げに、白い布の包みを開いて見せた。中には黄色い金襴織ソンケットりの帯のような布が、折り畳まれて入っていた。

「これは、王女の着物?」

祭礼ハリラヤで姫様がタリアンいを舞われたときの衣装さ。お守りとして下さったんだ」

「旦那、それは姫様の胸当トトップダダてだよ」と船頭が口を挟み、それから島の言葉で何かアディをからかうようなことを言って笑った。

 アディが真剣に怒って振り返り、やはり島の言葉で言い返すと、船頭もやり返してまた笑った。アディが船の上で立ち上がって短剣クリスでも抜きそうな顔色だったので、僕は彼の腕を引っ張った。

「落ち着けよ。おっさんなんてどこの国でもあんなもんだ」

「不敬な思い違いをするなよ」アディはむすっとして僕に言った。「王族の心臓の近くにあった物には霊力サクティが宿るんだ。普通はお身内にしか下さらない神聖なものだぞ」

 そういえば、僕も王女の心臓の近くにあったものをもらったな、と思い出したけど、アディに言うと面倒なことになりそうなので黙っていた。あのお香は雨覆いの下にある僕の荷物の中に入っている。

「快適な船旅じゃないか」と僕は言った。「王女には申し訳ないけど、虎の出る森を歩いて神殿を探すよりいい」

「ダラムに虎はいないよ」とアディが言った。「ヤマネコぐらいならいるが」

「そうなのか?」

「あんたには言っとくよ。俺は、前国王ご夫妻が姫様に何をおっしゃるかと思うと心配なんだ。それ以上は言わない。意味は分かるよな?」

 港務長官が言っていた暗殺の話を僕は思い出した。もし王女が、たとえ幻聴であっても、両親の口から暗殺やその犯人について聞かされたとしたら? 何が起こるかは目に見えている。

 僕は船底に寝そべって、笠を顔にかぶった。波の音、オールが水を切る音、眠たい青銅打楽器楽ガムランの音、それに合っているような合っていないような船頭の歌。船団はゆっくりと進んで行く。

 昼下がりの船上でうとうとし始めたとき、何人かの女性がきゃあきゃあとふざけ合うような声が聞こえて、僕は体を起こした。

 アディが顎先あごさきで示したのは、僕らの船の右前方をゆく、貴婦人たちの屋形船だった。

 金色の草花模様が描かれた若草色の船の、窓を覆っていた薄布の幕が開けられて、四人の若い女性が船べりに腰掛けたり、体を乗り出したりしてふざけ合っている姿が見えた。互いに見分けがつかないほどよく似た四人の、どことなくアラブ風の容貌を見て、港務長官邸で給仕をしてくれた女性たちだと分かった。

「港務長官殿の娘たちだ」とアディが言った。「やしきで会わなかったか?」

「娘だったのか」

「長女から順にスンジャ、ブラン、ビンタン、ファジャル」

 みんな同じように薄紅色の巻衣サルンを着け、ベールのような薄布を肩に掛けた娘たちは、顔も体つきもそっくりで、結い上げた髪の形や髪飾りのデザインくらいしか違いが見えない。誰がスンジャで誰がファジャルやら、僕には判別できなかった。

「なんだ、興味があるのか?」

 アディの問いに、僕は首を振った。

 確かにその四姉妹が戯れる様子や声には何かしら心に引っかかるものがある。しかしそこには僕にとって快というよりは不快に近い感覚があった。

「おーい、あんたら。お嬢さん方!」と僕らの船の船頭が叫んだ。「危ねえから中で大人しくしてろや。この先に早瀬があんぞ!」

 しかし娘たちはそれを聞いてもきゃらきゃらと笑うばかりで態度を改めなかった。


   2


 王都から港市バンダルまでの地形はだいたい平坦だったが、ところどころのなだらかな起伏に邪魔されて、川は何度か蛇行していた。蛇行部では川の流れは不均一になり、流速の早いところと遅いところ、その間で流れが複雑に乱れるところなどがある。もちろん熟練した船頭たちは難なく乗り切って行くのだが、時には予期せぬことも起きるものらしい。

 日がやや傾き始めたころ、船団が何度目かの蛇行部に差し掛かった。僕らの船は早瀬の流れに乗って加速する。それほどの急流とも思えなかったし、船頭が涼しい顔で歌い続けていたから僕は安心していたのだが、トラブルは前方で起こった。

 大きな木箱を何個も縄で縛って載せていた平らな船が、波を越えるときにバランスを失って荷崩れを起こしたのだ。家庭用冷蔵庫ぐらいの大きさのある箱がひとつ、水しぶきを上げて落ち、水流に押されてくるりと回転し、四姉妹を乗せた屋形船の右舷うげんにぶつかった。

 木造家屋が地震を食らった時のような音がして、娘たちが悲鳴を上げ、屋形船が大きく揺らいだ。船べりに座っていた四人娘のうちの一人が、お尻から滑り落ちるようにして水中に落ちたのを、僕は数メートルの距離からまともに目撃した。

「ファジャル様!」「ファジャルが落ちた!」と何人かの声が叫ぶのが聞こえた。

 落ちた娘はどうにか水面に顔を上げたが、助けを求める声も出せないようだった。間もなく僕らの船が彼女に近づくのは明らかだった。声を聞いて初めて事態に気付いたアディが動くよりも先に、僕は娘の腕なり足首なりをつかもうと、船べりから精一杯腕を伸ばしたが、手が届いたのは彼女が肩にかけていた薄布だけだった。勢いのついた船はたちまち彼女を追い越して行く。何か手立てはないかと周囲を見回すと、さっき落ちた箱が、枯れた立木に引っかかって、流されずに波に洗われているのが見えた。

 ひょっとして、たいして深くないんじゃないか。

 船はすでに流れの早い場所を過ぎていた。僕は巻衣の裾を上げて腰に挟み、底の見えない茶色い水に思い切って飛び込んだ。

 アディや船頭が何かわあわあと騒いでいたが、足は簡単に砂地の川底に着いた。水は僕の股下くらいまでしかない。この島の住民は泳げないんだろうか? 冷静になれば何ほどのこともない。

 浅い水の中に尻もちをついた格好で顔だけを水面に出し、明らかにパニックを起こしてばしゃばしゃと水しぶきを立てている娘に後ろから近づいて、僕は声を張り上げた。

「ファジャルさん! ファジャルさん!」

 名を二度呼ばれて暴れるのをやめた娘に、僕はできるだけ低い声で話しかけた。

「落ち着いてください。ここは浅い。立って歩けます」

 しかし彼女は荒い息をするばかりで、どうやら巻衣に足を取られて立つことも歩くこともできないようだった。

「失礼します」

 僕は背後から両腕を羽交い絞めにするような格好で彼女の柔らかい身体を捕まえて持ち上げ、そのまま僕らの船の方へずるずると引っ張っていった。

 船頭が竿で川底を突いて、アディを乗せた船を僕らのほうに戻してきた。

 アディと船頭が娘の片腕ずつを持ち、僕は水の中から彼女の両足を担ぎ上げて、ずぶ濡れの娘を船の上に引き上げた。

 ようやく船によじのぼった僕は、アディや船頭や、彼女の姉たちをはじめとする周りの船の人々が称賛のまなざしとどよめきで僕を囲んでいるのに気づいた。

 船底に背中を丸めて横になったファジャルは、苦しい息の合間に何度も「ありがとうございます……ありがとう……ございます」と繰り返していた。

「驚いた。あんたは勇気がある」アディが僕の肩を揺さぶった。「あんたこそ戦士サトリアだ。俺は情けない。宮中武官の名が泣く。このことは必ず姫様と旦那様トゥアンにご報告するからな」

「いや、まったくご立派な旦那だ」と船頭もうなずいた。「島の人間じゃねえのが残念だ」

「ちょっと大げさすぎるよ」と、だんだん居心地が悪くなってきた僕は言った。「こんなに浅い川じゃないか」

「そりゃそうだが……」とアディは困惑顔で言った。「あとちょっとで危ないところだったぜ」

「そうだ。足の一本も食われずに済んだのは、全能のアッラーか弁財天サラスワティか、とにかく神様の御加護に違いねえ」

「ああ。俺が見ただけでも四頭はいたな」

「……待ってくれ。四頭? 何が? なんの話だ」

「何言ってる。あんたあんなに的確な判断でワニブアヤを避けてたじゃないか」

「……ワニ?」

「ワニを知らないのか。さっきのあれだよ、馬鹿でかいヤモリチチャみたいな」

「……ああ、ワニ? ワニね。うん……」

 僕が足や腕を失くしてアパートに帰ったら茉莉はどんな顔をするだろう。余計な人助けなんて二度とするまいと僕は固く決意した。僕の妹以外の誰が溺れようが、ワニに食われようが、そんなの知ったことか。

 そのとき、何か冷たいものが僕の足首をがっちりと捕らえるのを感じて、僕は悲鳴さえ上げることができずに硬直してしまった。

「ありがとうございます……」

 もちろんそれはワニではなく、船底に横たわったファジャルが僕の足首にすがりつき、ほどけて濡れた冷たい髪が僕の足にまとわりついていたのだった。

「ミナミ様、この御恩は、決して……」

 足に頬ずりでもキスでもしかねない勢いのファジャルを、振りほどくわけにも押しのけるわけにもいかず、ワニの群れから美しき令嬢を救った英雄である僕は、船底にへたりこんでただ呆然とするばかりだった。

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