第8章 船が着いたとき港市の街はもう夕日に染まっていた

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 騒ぎのあと船団は途中の集落に寄港し、村長プンフルの家でファジャルを着替えさせ、休ませたあと姉たちが待つ屋形船に戻し、それから再出発した。そのため予定は大幅に遅れ、僕らの船が着いたとき港市バンダルの街はもう夕日に染まっていた。

 船から眺めていると、ほとんど隙間なく建てられた粗末な木造の家並みが、水中に柱を並べて川面にまで広がり、海水混じりの川で水浴びや洗い物をする人の姿が見えた。見上げると、寺院のものらしい塔が何本か、屋根の間から空に突き出して茜色あかねいろに輝いていた。

 やがて真っ白な城塞のような港務長官邸が丘の上に見え、その麓の船着き場に、船頭は僕らの船を寄せた。

 岸に着くと港務長官シャーバンダルとファジャルが――ファジャルのはずだ。まさか他の姉妹ではないだろう――待ち構えていた。そしてその背後を取り巻くように、明らかに異人種に属する人々が含まれた港市の民衆が、様々な言語でざわめきながら好奇の目をこちらに向けていた。

 港務長官は、金糸で刺繍が施された黒いベルベットの上着と更紗バティック巻衣サルンの正装で僕に歩み寄り、痩せた両手で僕の手を握った。

「君は実に立派だ。娘の命を救ってくださって感謝するよ」

 父親の傍らにはファジャルが、深紅の巻衣を豊かな胸が半分見えるような高さで身にまとい、銀の花を髪に飾り、水を満たして花を浮かべた真鍮の器と、木綿の白い布を持って立っていた。

 化粧っ気をなくしたファジャルは意外に幼く見え、せいぜい茉莉と同じくらいの歳かと思われた。アジア的な涼しい目元とアラブ風のくっきりした鼻筋で、たしかに十人が見れば十人が「美しい」と評するであろう顔立ちだった。

 ファジャルは黙って僕の足元にひざまずき、儀式的な所作で器を傾け、僕の足に水を注いだ。ねた水が彼女の巻衣の膝を濡らしたが、気にする様子は無かった。

 この国のしきたりは知らないが、相手の足を洗うのはジャワ島では結婚式の作法だ。何だこれは、と思ってアディと船頭に目顔で助けを求めたが、アディは神妙な顔をするばかりだし、船頭はうらやましそうに見ているだけだった。

 水が無くなるとファジャルは器を置き、白い布を使って両手で包むようにして僕の足の甲をいた。それは感謝の表現というより服従の儀式のように見え、僕は戸惑うほかなかった。こんなところをもし茉莉が見たらなんて言うだろう。

 港務長官は、群衆の眼前で娘に外国人の足を拭かせながら、澄ました顔で立っている。どうして我が子に、それもついさっき事故から救われたばかりの末娘に、こんなことをさせるのか。僕ならどんなことがあっても、たとえ誰が相手でも、茉莉にこんな真似はさせない。

 言いたくはないけど、僕の困惑には身体的なよろこびから来る動揺が含まれていた。ファジャルの背中はつややかで、指は柔らかかった。どんな意図があるにせよ、この寸劇を演出した港務長官にはそれが分かっていたはずだ。だからこそ僕はこの上なく不快だったし、できれば逃げ出したかった。

 アディと船頭の姿はいつの間にか見えなくなっていた。奇妙な儀式が終わると僕はファジャルに腕を取られ、そのまま丘の上の港務長官邸に連れて行かれ、酒食でもてなされた。僕の隣にはずっとファジャルがくっついて料理を並べたり葡萄酒を注いだりしてくれるものだから、彼女の胸元がなるべく視野に入らないように、僕はひたすら料理と、長官の顔と、壁のペルシャ絨毯と、広間の隅にある螺鈿の箪笥たんすとを順番に見ていた。

 王室所有の小さな一軒家を貸し与えられると聞いていたのに、僕の荷物は長官家の下男たちの手で長官邸の一室に運びこまれ、二十畳くらいはありそうなその部屋が僕の寝室になった。内心ちょっと恐れていたけど、さすがにそこにまでファジャルがついて来ることはなかった。

 一人になってようやく人心地ひとごこちがついてみると、そこは分不相応としか思えない立派な部屋だった。床の中央には蔓草模様の大きな絨毯じゅうたんが敷かれ、ベッドには金泥で塗装された天蓋てんがいと紗のカーテンが付き、天井からはアラベスク模様の彫りの入ったガラスのランプが吊られている。壁に掛かっていたのは、小さいけれど額装された西洋式の油絵で、描かれた風景は海から見たイスタンブールらしかった。

 まるでリゾートホテルだ、と僕は思った。茉莉ならこんな部屋に泊まりたがるかもしれない。出張のお土産であの子が一番喜ぶのは、お菓子でも化粧品でもなくアンティークの小物だから。

 あとで邸内を案内されて分かったのだけど、僕が部屋を与えられたのは、広大な港務長官邸の中でも長官の一族だけが住む一角で、本来なら決してそこに客人を泊めることはないらしかった。それだけ歓待されていたわけだけど、僕には港務長官の意図が読めなくて気味が悪かった。豪華な部屋も末娘の接待も要らない。僕は日本のアパートに帰りたいだけだ。帰って茉莉と一緒にカップ焼きそばを食べたりカウントダウンTVを見たりできればそれでいい。この港市に来たのもそのためだった。だけど今の僕には港務長官に頼るしか道がないのだ。


   2


 翌朝は港市の街を自由に歩くことが許されたが、一人にはできないというのでファジャルの侍女の一人がついてきた。三十前くらいの物静かで小柄な女性だが、質素なグレーのしまの巻衣の上に紫の帯をしめて短剣クリスを差した姿がおそろしく板についていたから、侍女というよりは護衛なのかもしれなかった。

 港務長官邸を出て、街に向かって丘を降りると、待っていたアディが僕に片手を上げた。

「よう、昨夜はどうだった。ファジャル様が夜通ししてくれたか」

「そういう言いかたするなよ、冗談でも」

「なんだ、飯を食っただけか?」

 笑いながらアディは侍女のほうに目をやった。どうやら単に僕をからかっているだけではなさそうだったが、侍女は僕の後ろで黙ったままだった。

 そうして僕は、短剣を帯びた二人に伴われて街を歩くことになった。

 港市は、王都コタラジャとはずいぶん様子が違っていた。

 石畳の広場や、ヤシの木立や、彫刻の施された三角屋根などはここには無かった。丘の上にある白塗りの港務長官邸を別にすれば、川や入り江に沿ってぎっしりと密集した、壁も屋根も薄い板でできた小さな木造家屋の連なりが街のほとんどだった。

 丘の上からはさほど広くないように見えた街は、中に入ると迷路のような路地が入り組み、水陸を超えてどこまでも広がっているように思えた。角を曲がると突然船着き場に出て行き止まりだったり、地面を歩いているつもりが気づくと水の上の桟橋を歩いていたりといったこともしょっちゅうだった。

 街では多くの家が何らかの商売を営んでいた。薬種商、布屋、飯屋、金細工店、酒場、干物屋、娼家といったそれらの店の中には、漢字やアラビア文字の看板を掲げているところも多かった。曲がりくねり、枝分かれしながら果てしなく続く路地のそこここで「酒荘」「金行」「當」「和記」「茶舘」などと大書された看板を目にするたび、意味は完全には分からなくても、自分が属するのと同じ文化圏の片鱗を感じて、港市に来たのはやはり正解だったと僕は思った。

 また、うちわを手に店番をしたり、道端で麺をすすったり、魚市場で天秤棒を担いだり、屋根の上でナマコを干したり、二階の窓から半裸で客を引いたり、鳥かごを持ち寄って聴き比べをしていたりする老若男女の住民にも、服装こそ王都の人々と同じだが、一見して中国系やアラブ系、インド系と分かる風貌が目立った。

 そして彼らのための様々な寺院が見られるのも王都との違いだった。媽祖やガネーシャの祠など、多くは小屋のような簡単なものだが、中にはレンガ造りの光塔ミナレットを持つ立派なモスクもいくつかあった。

 確かに、この街は外の世界とつながっている。日本とのつながりや現代文明にかかわるしるしはどこかに無いのだろうか?

 町外れに近づいてきたのか、人通りが少なくなってきたあたりに、歩行者が行き違うのも難しい、ひときわ狭い路地があった。入り口からのぞいてみると、奥はほとんど真っ暗で、大勢の男たちの話し声がかすかに聞こえた。その響きはこの土地では耳慣れないが、しかしどこかで聞いたことのある言語のように思えた。

 入ってみようとしたとき、ファジャルの侍女が僕の肩をがっちりと掴んだ。やはりと言うべきか、小柄な体からは想像できないほどの力だった。

「戻りましょう。この先は危険です。ミナミ様に何かあってはファジャル様に叱られます」

「じゃあねえさんは先におやしきに帰ればいい」とアディが言った。「ここからは俺がなんとかしますよ。何があってもミナミを助けろ、ってのが姫様のご命令だ」

「いや、アディ、今日はもうこれで帰るよ。どんな街かはだいたい分かったから」

 侍女はうやうやしくうなずき、アディは舌打ちしたが、僕らは来た道を逆にたどり始めた。ここでもめ事でも起こせば厄介事が増えるだけだ。

 売り声の飛び交う魚市場の雑踏を通り抜けているときに、アディが寄ってきて耳打ちした。

「あの女、あんたに見せたくない場所があるんじゃないのか」

「そうかもな」

いちまおうぜ」

 待てよ、と止める隙さえ僕に与えず、アディは回れ右して侍女の正面に立った。

「姐さん、ミナミ様は小便がしたいそうです。たしかあっちに溝があった。俺も付き合うが、姐さん横で見張っててくれますか」

 侍女は嫌な顔をしながらも、僕を引っ張って歩くアディの後についてきた。

 魚市場を出て人気のない路地に入ると、家並みの間を流れる狭い水路があり、長い板を二枚渡しただけの橋がかかっていた。

「さあここがいいですよミナミ様。姐さんはちょっとあっち向いててもらえませんか。それともその目でしっかり確かめて、ファジャル様にご報告でもしますかね?」

 侍女は冷たい目でアディをひと睨みしてから僕に一礼し、短剣の柄に手を掛けたままで僕らに背を向けた。その途端、アディは侍女の細い背中を両手でどんと押した。

「おっと姐さん失礼」

「きゃっ」

 意外にか細い悲鳴を上げてよろけた侍女に目もくれず、アディは僕の腕をつかんで走り出した。そして何度か路地を曲がって彼女が追って来ないのを確かめると、僕の肩を叩いて大笑いした。

「見たか、あれ。あの女のあのざま」

「アディ、頼むからさっきみたいなやり方はやめてくれ。王女の前で同じこと言えるか?」

「バカ言え。あんなこと姫様のお耳に入れられるか」

「だったらあのお姐さんの前でもやめてくれ。ファジャルさんのこともあんなふうに言うな」

「そうかい。あんたの前ではせいぜい気をつけるよ」

「だいたい、こんなことしたら港務長官に睨まれるぞ」

「夕方までにあの女と合流して一緒に邸に戻ればいいんだよ。きっと俺たちを探し回ってるはずだ。あの女だって自分の間抜けな不手際をファジャル様や港務長官殿に報告したくはないだろうからな」

「どうだろうな」

「で、これからどうする? さっき邪魔されて入れなかった路地に行ってみるか」

「道が分かるのか?」

「そりゃあもちろん……」

 アディと僕はまわりをぐるりと見た。前にも後ろにも、二人の人間がやっと並んで歩けるくらいの幅の路地が湾曲しながら続き、その先は見えない。両側には隙間無く木造家屋が並び、「酒肆」とか「茶」「葯」などと書かれた看板は出ていたが、どれも板戸を閉ざしており、人の姿は全く無かった。

「……知らない。俺は王都の人間だぜ」

「なるほど」僕はうなずいた。「僕に考えがある」

「どうするんだ?」

「戻ってお姐さんを探そう」

「嘘だろ。勘弁してくれよ」

 しかし僕らにはもう戻る道が分からなくなっていたし、侍女の姿はどこにも見つからなかった。

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