第9章 いくら歩き回っても同じような場所に出てきてしまい

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 どうやら僕らは袋状になった半島のようなところに迷い込んでいたらしい。いくら歩き回っても同じような場所に出てきてしまい、どこへ向かっているのかまるで分からなくなっていた。物売りや通行人に道を尋ねてみたが、マレー語も島の言葉も完全には通じなくて要領を得ない。漢字での筆談も試みたけど、中国系の人たちの多くは字があまり読めないようだった。

 昼になると熱帯の太陽は天頂まで上がり、東西南北の見当もつかない。お腹も空いたし、僕らは酒を飲ませるらしい店に入って少し時間を過ごすことにした。

 店と言っても、現代の普通の日本人が考える食堂や居酒屋のようなものではない。壁の無い草葺き屋根の小屋で、隙間だらけの床の下からは、さざ波が打ち寄せる音が聞こえた。もちろん食卓も椅子もカウンターも無い。

 床に座ってアディが「飯をくれ」と声をかけると、奥でカマドの番をしていた老人が、バナナの葉に盛った白飯と薬味サンバルと薄い米酒アラックブラスを持ってきた。

 僕らの他に客は一人、アラブ人が身につける白い頭巾と長衣トーブを着た大きな男が、酒を片手に魚の干物をかじっているだけだった。

外国人オランアシンがいるぞ」とアディが言った。

「僕も外国人だよ」

「ああ、そりゃそうか。忘れてた」

 そんなやり取りをしつつも、実は僕もその男に対して、外国人ガイジンがいる、という印象を持っていた。アラブ人の格好をしてはいるけれど、肌は白っぽく赤みを帯び、伸びた髪も口周りのひげも赤茶色で、もっと西の国の人のように見えるのだ。イギリス人とか、オランダ人とか。

 今までこの島で欧米人に会ったことはなかったし、欧米文化の影を感じることさえ珍しかった。その中にあって、この男はたしかに異質だ。彼はどこから、どうやってここに来たのか。それが分かれば僕の帰国の糸口になるかもしれない。

 男は僕の視線に気づき、不審げにこちらを見た。機先を制するつもりで、僕は英語で話しかけてみた。

どうもこんにちはNice to meet you.

 男は目を丸くして眉を上げた。

君は英語を話すのかDo you speak English?

「はい。しかしあまり上手ではありません」

「香港人か?」

「いいえ。わたしは日本人です」

「驚いたな。こんなところで日本人と会うとは。シンガポールではずいぶん見たが」

「あなたはシンガポールから来たんですか?」

「ああ。俺は、ケネス・マコーミック」男は体の向きを変え、腕を伸ばして大きな手で握手を求めた。「英国人だ。貿易商、というより、放浪者と言ったほうがいいかもしれん」

「ヒロミ・ミナミです」

 力強く、堅い握手だった。この島に来て何日目だろうか。僕はようやく、外の世界との接点にたどり着いたらしい。シンガポールまで出れば日本まで直行便がある。帰れるのだ。あと何十時間かで茉莉に会える。会えるはずだ。

 でも僕の心は踊らなかった。これで元の生活に戻れるという気がしないのだ。何故かは知らない、今見ている光景が、僕の国や街や部屋とつながるとは、どうしても信じることができなかった。

 とはいえ今は、彼が唯一の希望だ。僕は尋ねないわけにはいかなかった。

「ミスター・マコーミック、携帯電話モバイルフォンを持っていますか」

「モバイルフォン? 蓄音機グラモフォンのことか?」

「電話です。日本の家族に電話したいんです」

「この国に電話なんぞ無いよ。シンガポールにならあるが」とマコーミック氏は気の毒そうに言った。「しかし、日本に電話というものがあったとしても、シンガポールからはつながらん。君は知らんかもしれないが、電話というのは、どこの誰とでも話せる物ではないのだよ。線が通じている必要があるんだ」

「……メールでもかまいません。妹に無事を伝えたいんです」

手紙メールなら預かろう。シンガポールに帰ったときに郵便局に持って行ってやるよ。船便で日本にも届くはずだ」

 マコーミック氏は、ひげのせいで気づかなかったが、よく見るとかなり若いようだった。僕と同じくらいか、ひょっとするともっと下かもしれない。彼の澄んだグレーの瞳を見ていると、僕をだましたりからかったりしているようには到底思えなかった。

 英国人の彼が本当に、携帯電話もEメールも、国際電話さえ知らないのだとしたら、それが何を意味するのかは明らかだ。

 この島だけがおかしいわけではないのだ。

 たとえ日本に帰っても、たぶんそこは僕の知っていた日本ではない。そしておそらくそこに、茉莉はいない。思えば薄々分かっていたことかもしれない。だけど……。

「まあそう気を落とすな」とマコーミック氏は言った。「乾杯しよう。我が国王陛下キングと、君たちの皇帝陛下ミカドと、この島の盲目のラジャに」

 僕はマコーミック氏と素焼の杯を合わせ、米酒を飲み干した。ほとんど甘酒に近い弱い酒だったが、今は駄目だ。僕はめまいを感じ始めていた。

「一杯おごるぜ。シンガポールでは日本の女性レディたちに世話になってるしな」と笑ってマコーミック氏は言った。「同盟国のよしみだ」

「……同盟?」

「知らないのか? 我が大英帝国と君の国は同盟を結んだんだ。まあ、俺も半年遅れの新聞で知っただけだが」

「戦争……ですか?」

「時間の問題だろうな。朝鮮が君の国に取られるのを、ロシア皇帝ツァーが黙って見てはいないだろうから」

 日英同盟、ロシア皇帝ツァー、そして戦争。

 なるほど、考えてみれば簡単なことだ。

 なぜここには文明が無いのか。なぜこの島はどこの国家にも属していないのか。なぜこの人たちはこんなに離れしているのか。

 当たり前の話だ。僕が迷い込んだのはただの孤島でもなければ、異世界でもなく、並行世界でもなかったのだ。ここは僕が住んでいたのと同じ世界だ。同じ世界だけど、一つだけ違うことがある。

「アディ、今年は何年だ?」

「アングレック王の御代の第二年だよ」

 そう。この国の人間からはこの答えしか返って来ない。それは何度も試みたことだった。僕は同じ問いを、初めて西洋人のマコーミック氏に投げてみた。

「ミスター・マコーミック、今年は何年ですか」

「俺はキリスト教徒の暦しか分からんが」

「それを聞きたいんです」

西暦アンノ・ドミニ」とマコーミック氏は言った。「1904年」


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 マコーミック氏の話によると、このクンバンムラティ島はボルネオ島近海にある小島で、戦略的重要度も低く特産物も労働力も乏しいため、二十世紀を迎えた今日に至るまで、イギリスにもオランダにも植民地化されることなく放置され、孤立した王国として続いてきた、残り少ない島の一つらしい。冒険商人である彼は、商品になりそうなものを求めてこの島に来たのだが、近々シンガポールに引き揚げるつもりだという。

「どうも最近きな臭い」とマコーミック氏は言った。「街の人間の動きがおかしい。船の出入りも減っている。こんなときは何かが起こる。南洋を十年渡り歩いてきた勘だよ。日本に帰りたいならシンガポールまで一緒に来るか? 戦争が始まっちまったらどうなるか分からんが」

 明治三十七年の日本に帰ったところで僕は逆浦島みたいなものだ。仕事も無いし知人も家族もいない。山梨には曽祖父がいるはずだが、当然彼は僕のことを知るはずもない。

 そして、茉莉に会えるのは九十五年後になる。

 かと言って、この島でいつまでも王女や港務長官シャーバンダルの世話になっているわけにもいかないだろう。シンガポールの日本人移民社会に飛び込んで、この時代に多かった娼館の事務の職でもあれば何とか生きていけるのかもしれないが、しかし……

「まあ、内陸のことをもう少し調べたいから、あと一か月くらいはこの島にいるつもりだ。俺に連絡を取りたいなら旧港の近くのカンポン・アイル回教寺院モスク導師イマームの家に来ればいい。俺はそこに間借りしてるんだ。トルコ人ということになってるから気をつけてくれ。回教徒ムスリムのふりをしている方が何かと便利だからな」

 半島からの抜け方と港務長官邸の大体の方角を教えてもらい、マコーミック氏と僕はもう一度握手をして別れた。アディは僕が「外国人」と何を話したか知りたがったが、僕は「国に帰る方法を聞こうとしたんだが彼も知らなかった」とだけ話しておいた。実は僕は未来人なんだ、なんて言っても仕方がない。

 マコーミック氏に道を聞いたおかげで半島からは抜け出せたようだったが、そこからの行き方やはり分からなかった。ファジャルの侍女と別れた辺りまでは戻ってきたんじゃないか思ったが、確証は無かった。もしかすると全然違う場所なのかもしれない。

 道は何度も折れ曲がり、枝分かれし、合流し、静かな場所を通ったり、にぎやかな界隈を過ぎたり、また寂しいところに出たりした。誰かに道を尋ねても、人によって言うことがバラバラで話にならない。

 そろそろうんざりしはじめ、僕もアディも言葉少なになってきた。

 二人並んで歩くのも難しいような、ひと気のない暗い路地を歩いていた時、僕の前でアディがふと立ち止まった。

「どうした?」

「おかしなやつが来やがった」

 アディはつぶやいて、右手を短剣クリスつかにかけた。

 彼の肩越しに前を見ると、どこから出てきたのか、五、六軒くらい先に二人の男が立ってこちらを見ている。背の高い男と低い男。二人とも質素なグレーの巻衣サルンを腰に巻き、黒いターバンで頭と口元を覆っていた。そして彼らの右手には、波状にうねった刃を黒々と光らせた抜身の短剣があった。

「ミナミ、下がれ。人間はワニより危ないぞ」

「どういうことだ。あいつらは何なんだ?」

「たぶん、狙いはあんただよ」

 言うが早いか、だっと土を蹴ってアディは前に飛び出した。

 僕は訳もわからないまま突っ立って眺めているだけだった。

 アディが斜めに短剣を振り下ろすと、背の低い男はいったん飛び退き、短剣を構えてアディめがけてジャンプした。アディは剣を返してその切っ先を払いのけ、同時に相手の腹に蹴りを入れた。

 呆然と見ているうちに、僕は背の高い方の男の姿がいつの間にか消えているのに気づいた。アディに警告しなければ、と思いながらタイミングがつかめずにいるうちに、僕とアディの真ん中あたりで古家の板戸が開いた。

「アディ、後ろだ、後ろ!」

 僕は叫んだが、中から現れた長身の男はアディには向かわず、短剣をぎらつかせながら僕の方へ足早に歩いてきた。口元を隠し、表情のない目でまっすぐに僕の顔を見ている。

「わっ」

 茉莉に会うまでは、僕は死ねない。あの子を思いっきり抱きしめて頭を撫でてやるまでは、僕は死ぬわけにはいかないのだ。しかし逃げようにも足が動かず、僕は何か投げつけるものを探してきょろきょろするばかりだった。

 でもたぶんそれは数秒間だったのだろう。アディは小男の顎に回し蹴りを入れると、身を翻して走り出し、背後から長身の男に斬りかかった。男は身を屈めてそれを避け、後ろ蹴りでアディの足元を払った。バランスを崩して仕舞屋しもたやの板戸に身体を打ち付けられたアディは、すぐさま体勢を立て直し、男が振り下ろした刃を短剣で振り払おうとした。

 耳をつんざくような金属音がして、なにか鋭いものが風車のようにくるくる回りながら宙に舞った。

 何が起こった?

 目を凝らすと、アディの短剣の先端、三分の一くらいが折れて無くなっていた。一瞬たじろいだところに足払いをかけられたアディは、板戸に背中をもたせてようやく身体を支えた。長身の男はアディの胸に剣先を向けて狙いを定めた。小柄な男も追いついてくる。

 ああ、これはもうだめだ、と僕は思った。

 アディは殺される。彼が誰よりも崇拝し、愛するムラティ王女にひと目会うこともできないまま。赤の他人の、外国人の僕のために。

 僕は思わず目をつぶった。

 その時、僕の頭上で、能楽師が舞台を踏み鳴らすような、だん! という大きな音が響いた。

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