第11章 手にしていたのは四角い板と、小さな箱だった

   1


 部屋は快適だったし、食事も申し分なかった。しかしいくら広いやしきでも、いつまでもうろついてもいられない。一日目の午後にはもう僕は時間を持て余していた。

 部屋の窓を開けると、丘の下に広がる港市バンダルの街が見えた。僕は窓辺に椅子を置いて、ときどきそこに座って景色を眺めた。日に何度かモスクの光塔ミナレットから宣礼アザーンが聞こえ、夕暮れ時には紫やオレンジの雲の下で闇に沈んでゆく屋根並みが見えた。

 三日目の昼過ぎ、ベッドでぼんやりしていると、ドアの外から「ミナミ様」と呼ぶ声がした。

 ドアを開けるとファジャルがいた。髪をひとつにまとめ、茶色地の染物の巻衣サルンをつけただけの地味な格好で、今日はちゃんと胸の上まで隠していたのでちょっと安心したけど、それでも目の前に立たれると視線のやり場に困る程度には身体の線が目立つ。でもそれは本人にはどうしようもないことだった。

 何か持っているから、お茶でも運んできてくれたのかと思ったが、大事そうに手にしていたのは四角い板と、小さな箱だった。

「それは?」

「あの、ご迷惑でなければ……」

 控えめにそう言いながらも、ファジャルは僕の横をすり抜けるようにして部屋の中に入ってきた。

「毎日お部屋にいらして、お気の毒だから」

 ファジャルは格子状の線の刻まれた板を籐のテーブルの上に置いて、箱を開けた。中身は白と黒の、象牙と黒檀でできているらしいチェスの駒だった。

「これをご存知ですか」

チェスチャトゥルですね。やったことがあります」

「よかった」

 ファジャルは微笑んだ。目元の硬さがふっと消えて、それで彼女が今まで緊張していたことが分かった。

「ご迷惑かもしれませんが、わたくしでよければお相手させてください」

「ええ。喜んで」

 説明を聞くと、この国のチェスは、ビショップに当たる「ガジャ」が二歩ずつしか進めないことと、歩兵が初手で一歩しか進めないことを除けば、ほぼ僕の知っているチェスと同じだった。

 やってみて分かったのだけど、ファジャルは呆れるほど弱かった。僕だって下手だし、ずいぶん久しぶりだったのに、一局目では、ファジャルは何の抵抗もせずに僕にラジャを取られてしまった。次にファジャルが先手でもう一局指したのだけど、これも同じことだった。それならと、僕のガジャベンテンを除けて、将棋で言う飛車角落ちで対局してみたのだけど、やはりファジャルはほとんど意味のない手を指すことしかできずに惨敗した。

 だけど負けるたびにファジャルは、おかしくて仕方がないという風に笑った。僕の退屈をまぎらわせに来たというよりは、姉たち以外の遊び相手を得て喜んでいるようにも見えた。彼女たちもまた、自由に邸から出歩くことを許されていないのだろう。おそらく、日頃から。

 四度目の対局を「また今度にしましょう」と僕が断ると、ファジャルはちょっと考えてから「珈琲コピをお飲みになりますわよね?」と席を立ってドアを開け、ずっとそこに控えていたらしい侍女に、コーヒーを二杯用意させるよう命じた。

 侍女が厨房へ去るのを見送ってからテーブルに戻ると、ファジャルは急に真剣な顔になって、少しの間黙ってチェス盤を見つめていたけれど、意を決したように口を開いた。

「父は、わたくしについて何か申しませんでしたか?」

「ええ、美しくて心が清らかだとか、そのようなご自慢を」

「他にも何かあったと思います。ミナミ様のお口からはおっしゃりにくいかもしれませんが……」

 どうとも取れるように、僕は曖昧あいまいなタイミングで小さくうなずいた。

「ええ、まあ、いくらかは」

「父がお話ししたことを、全てそのままお信じにはならないでください」と、ファジャルは声を潜めて言った。「父はミナミ様を、その……自分の目的のために利用するつもりなのだと思います」

「どんな目的でしょうか」

「ごめんなさい。わたくしには、政治のことは分からないのです。ただ、わたくしを助けてくださったミナミ様に対して、父は感謝で報いるよりも、利用しようとしているのです。つまり……わたくしにお命じになって、わたくしが……ミナミ様を……」

 ファジャルは黙ってしまったけど、言いたいことは分かった。港務長官シャーバンダルはファジャルを僕に近づけて、僕をつなぎとめコントロールするための情的なしがらみにしようと思っているのだろう。そんなことをして何の意味があるのかは分からないけど。

 侍女がコーヒーを持ってきた。あの戦闘力が嘘だったみたいに、二つの器をそっと置き、ファジャルの後ろに立って彼女の髪を少し直し、一礼して出ていった。

 二人でコーヒーを飲んでいる間、ファジャルは何も話さなかった。

 静かだった。互いの呼吸や、コーヒーを飲み下す音や、唇が閉じる音、湯気が立つ音まで聞こえそうなほど。

 器を置き、小さく長いため息をつくと、ファジャルはさっきよりさらに声をひそめて、ささやくように言った。

「ミナミ様、わたくしのことを信じてくださいますか?」

 信じるも信じないも、僕は彼女のことをほとんど何も知らない。けれど深海の澄んだ水のような二つの瞳に見つめられると「はい」と言うより他に答えようが無かった。

 ファジャルはチェス盤の上に上半身を乗り出し、少し顔を近づけてきて、それでも聞き取りにくいほど小さな声で言った。

「わたくしが今日ここにうかがったのは、父に命じられたためではありませんから」

 そして南国の果物の香りを残して静かに部屋を出て行った。

 僕はまたベッドに戻った。テーブルの上にはチェスの盤と駒がそのまま残っていた。


   2


 その夜から熱が出はじめた。あれだけいろいろあったのだから、疲れがたまっていたのも当たり前だろう。

 どうせまともな薬は無いだろうからと、僕は米酒を多めに飲んで眠った。次に目覚めたときは、明け方か夜中か、ランプが消えていて部屋は真っ暗だった。

 起きてすぐは身体が楽で、少し良くなったように思えたのだけど、熱はさらに上がっていたらしい。喉が痛いので水差クンディしのところに行こうと思ったのに、平衡感覚も筋力もすっかり失われていて、僕はベッドから起き上がることさえできなかった。

 どうしようもない。背中を丸めてじっとしてやり過ごそうとしたのだけど、やがて強烈な寒気が背中を上がって来て、身体が震えはじめた。

 そして巨大な岩のようなものが来た。目には見えないけど、体で感じる。小惑星や月のように何千キロもの大きさのある岩の、小さな尖った先端が、僕を押しつぶそうとする。ベッドにいながら、僕は寝返りひとつできず、岩に押されるままに極寒の虚空をち続けた。

 助けて。誰か。

 そう言おうにも、喉が凍りついたようになって、何も言葉が出ない。全身の力をしぼり出して、ようやくうめき声のようなものが出たけど、誰にも届きそうになかった。

 茉莉、と僕は胸の中で呼んだ。この世界で死ねば、もとの世界に帰れるのだろうか。

 やがて岩が消え、代わりにぐにゃぐにゃしたものが来た。

 ぐにゃぐにゃしたものは、シーツの中で僕の足をとらえ、ぐにゃぐにゃと這い上がり、僕の腰から下を生暖かく包み込んだ。体中が痛いと同時に、ぐにゃぐにゃに包まれた下半身には、何かだらしのない心地よさもあった。このぐにゃぐにゃも痛みも苦しみも気持ちよさも、全部燃やしてしまえばいい。地球よりも大きな焚き火で灰にしてしまえばいい。僕はもう、小さく、白く、丸い物になって、妹の子供みたいな手の中に包まれたいとさえ願った。だけど僕にはやっぱり身体があって、脚も、腕も、肩も腰も頭もあって、その全部が熱くて痛くて、声も出せないまま、汗みずくで惨めにベッドに転がっていることしかできなかった。

 誰か来てほしい。

 そばにいてほしい。

 その時ふと、頬に少し冷たい風を感じた。

 新鮮な空気の流れとともに、誰かが近づいてきて、冷たく柔らかい手で僕の額に触れた。甘い匂いがする。

 おかあさん? と最初は思ったけど、冷静に考えれば母は九十五年前に亡くなっている。じゃあ、まりちゃん? いや、違うだろう。まだ小さいまりちゃんがそんなことをするとは僕には思えない。だとすれば、これは一体誰なんだろう。

 誰だか分からないその女性は、優しい声で何かを言いながら、何か清々しい香りのするものを僕に嗅がせた。それで僕は少し落ち着いて息ができるようになった。

 額の汗をぬぐってもらったり、背中をさすられたり、何かどろりとしたものを飲まされたりしているうちに、僕は再び眠りに沈んでいった。



 どれくらい眠り続けただろう。

 そもそもここには時計が無いし、正確な時間なんて分からないのだけど、ひょっとすると丸一日以上眠り込んでいたのかもしれない。

 もう一度目覚めた時には、少なくとも意識だけは、もうはっきりと回復していた。

 重いまぶたを開けると、最初に目に入ったのは、テーブルの上のチェスの駒と、見慣れない水差しだった。鎧戸よろいどは閉じているのに、部屋の中はまぶしいほど明るい。

 そして次に見たのは、僕の足元のあたり、ベッドの端に座り、天蓋の柱にもたれて、うとうとしているファジャルの姿だった。

 ああ、この人は本当に美しい、と僕は思った。

 髪は後ろで結んであったが、幾筋かはほつれて頬にかかっていた。藍色に草花柄を染めた巻衣の胸の下で両手を組み、少し乱れた裾から片方の膝頭と脛が見えている。

 ファジャルさん。

 と言ったつもりだったのだけど、僕の声はただのかすれた気流の音でしかなかった。それでもファジャルは眠たげな目を開けて、裾を直しながら僕に微笑みかけた。

「お目覚めになりましたか?」

 僕はうなずいた。うなずいたつもりだった。

 僕は、いくつか積み上げられたクッションにもたれて、上半身を斜めに起こした体勢だった。そこからさらに体を起こそうとしても、寝返りを打とうとしても、頭が重すぎて動かすことができなかった。

「ご無理をなさらないで」

 ファジャルは僕の枕元の方に回ってきて、後れ毛を耳の上に引っ掛けてから、その小さな耳を僕の口元に近づけて、ささやくように言った。

「なにかお召し上がりになれそうですか?」

 分からない、と僕は答えた。

 ファジャルは僕の額に軽く触れてから、ベッドを離れた。そして「リニ、リニ」と言いながらドアを開け「お目覚めになったわ。おブブルを持ってきて差し上げて」と命じた。

「はい、ファジャル様」と答えたのは、あの侍女の声だった。

 あの女傑がリニだなんて、ずいぶん可愛らしい名前なんだな。そんなくだらないことを考えていると、ファジャルがベッドに戻ってきて、僕の頭の方の端に座った。

「ずっと……ここ……に?」

 ようやく口に出せた言葉が日本語だったことに気づいて、僕は落胆のため息をついた。

「お疲れが出たんですね、ミナミ様」滑らかな褐色の両腕が、僕の頭の上から伸びてきた。「おかわいそうに」

 ファジャルは壊れやすい磁器でも抱えるみたいに、僕の両頬を両手で包み、僕の顔を上から覗き込んだ。

「ファ……ジャル」という二音節が、ようやくちゃんと僕の口から出た。

「はい。わたくしはここにおります」

 僕の顔の真上で、彼女は微笑した。

 果物の芳香のように思えるのは、香油の匂いなのか、身にまとった布から来るのか、彼女自身のものなのか、僕には分からない。これはお父様のご命令ですか、それともあなた自身の意思ですか、という問いは頭から消えないけど、でもどっちでもいい。優しくて、暖かくて、柔らかくて、甘い香りがする、この時間ができるだけ長く続いてほしいと願いながら、僕は目を閉じた。

「お粥をお持ちしました」

 侍女の声がして、ファジャルは両手を離した。

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