第12章 持って来たのは本、十数冊の革装の本

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 僕は次第に回復し、二日もすると普通に寝起きできるようになった。ファジャルは午後になると様子を見に来て、退屈でしょうからとチェスの相手をしてくれた。最初のうち僕はファジャルを勝たせる方法をあれこれ考えながら指していたのだけど、そのうち彼女もそれに気づいたのか、チェスはやめてしまい、代わりに持ってきたのは本、十数冊の革装の本だった。

「せっかくですが、僕はこの国の字が読めないのです」

 体裁は悪いけど、僕はそう言わないわけにはいかなかった。

 マレーシアでもインドネシアでも現在ではローマン・アルファベットを使うが、かつてはアラビア文字やインド系の古い文字を用いていた。同じようにこの国の書物も、僕には一字も読めない文字で書かれている。僕は何冊かの本を王都コタラジャで目にしてそのことを知っていた。

「お気になさらないで。わたくしがお読みいたします。どうぞ、おかけになって」

 ファジャルはテーブルの前に椅子を二つ並べて、僕を隣に座らせた。今日の彼女は髪を結い上げていたので、肩を並べて顔を見ながら話そうとすると、巻衣サルンに覆われていないうなじから背中、肩や胸元にかけてのつややかな肌が嫌でも目に入ってくる。僕は適当な本を手にとって、表紙に箔押はくおしされた麗々しい文字を、読めもしないのにしげしげと眺めていた。

「どちらがよろしいかしら」

「この国についての本があれば」

「でしたら、こちらにいたしましょうか。『クンバンムラティスジャラ ラジャラジャ諸王記クンバンムラティ』というご本です」

 ファジャルが手にとったのはB6判くらいの小さな赤い表紙の本だった。一見分厚く見えたが、それは一ページずつが厚みのある羊皮紙みたいな素材でできているせいで、ページ数そのものはそれほど多くないようだった。

 開くと、各ページの中央に額縁のような小さな四角があって、文章はその中に、曲線が飛び跳ねるような、アラビア文字に似た文字で書かれ、その周囲は紺地に極彩色の草花模様で埋め尽くされていた。その色と柄はファジャルが今日着ている巻衣によく似ていた。

「美しいでしょう? わたくしが行儀見習いのため宮中にお仕えしていたときに、先代の王妃様より賜ったのです」

「今の国王のお母上ですね、亡くなられた」

「ええ。とてもお優しい方でしたわ。でも急なご病気で身罷みまかられて」そう言ってファジャルは本のページをそっと撫でた。「それで、わたくしはこちらに戻ってまいりましたの」

 ファジャルは最初、一文字ずつを指さして、「これがアリフ。こっちがバーで、これがターです」と文字の名を教えてくれようとしたが、そんなふうに脈絡無くバラバラに教えられても覚えられるはずもない。文字を教わるのは今度にして、今は文章を音読してもらえるように僕は頼んだ。

「はい。うまく読めればいいのですけれど」

 ファジャルは普段の会話よりやや低い声で、指先で文字をたどりつつ、一語ずつゆっくりと文章を読み始めた。

この物語アル キサー マカは、クンバンムラティ島のトゥルスブッラー プルカタアン王たちのサン ラジャラジャ……」

 右から左へ、一行一行をなぞる細い指を見つめながら、僕は彼女が語るジャスミンの島の物語に耳を傾けた。未知の文字から意味の分かる音声が取り出されてゆくさまには、針を置いたアナログレコードから音楽が流れるのを見ているような不思議さがあった。

『諸王記』がファジャルの声を通して語ったエピソードの多くは、とても史実とは思えないおとぎ話のようなものだった。

 例えば、アレクサンドロスイスカンダル大王の孫であり、赤子のうちに夜光貝のいかだで流され、島に漂着した初代ウトモ王。そのウトモ王と、内陸を支配する「白い蘭の女王ラトゥ アングレック プティ」との戦いの結果、こときれる直前に女王が産んだというカドゥオ王。ペルシャの王子から贈られたプダンを寝所に置いたことによって懐妊したマワール王女。中国の皇帝から贈られた白黒二匹の賢い猫から助言を受けて政務を執っていたチュンパカ女王。そして、椰子の実の中から現れた翡翠ひすい聖天ガネーシャ像を叩き壊したため、雷に打たれて崩御したアブドゥッラー王。この王はファジャルたち四姉妹の母方の高祖父に当たるという。

 時間軸の混乱としか思えない記事もまた、この書物の奇妙なところだった。何世代も前の、とっくに亡くなっていなければならないはずの人物が、「聖なる丘ブキッ スチ」や「聖なる泉マタアイル スチ」といった場所からしばしば現れて、子孫に助言や警告や予言を伝えたり、武器や宝器を授けたりするのだ。

 でもファジャルはそれらすべてを掛け値なしの事実だと信じているらしかった。そしてそんな彼女の落ち着いた声で読み聞かせられると、僕もまた、この世界をそのようなものとして受け入れる気持ちになっていった。いつか僕もそういった不思議を目の当たりにするかもしれない。いや、そもそも僕の存在自体がこの島の歴史の不思議の一つではないか。

 現国王とムラティ王女の曽祖父に当たるチュンペダック王の即位で、物語は終わっていた。ファジャルは、自分は幼い頃に最晩年のチュンペダック王のお姿を見たことがあると言った。まるでそのことが、この物語全体が事実であることを保証しているとでも言うかのように。

 本を閉じると、ファジャルは今日もまた、扉の外に控えている侍女にコーヒーを持って来るようにと命じた。

 そして椅子に戻ると、僕の肩に頬を寄せるようにして、小声で言った。

「ご病気はもう良くおなりなのに、わたくしがここにお邪魔するのはご迷惑ではありませんか?」

「いいえ。とんでもない。とても助かっています」

「父はわたくしがこの部屋に出入りしていることを喜んでいます。おそらく父は……」ためらいがちに、ファジャルは言った。「ミナミ様を、お国へ帰さないつもりです」

「近頃、自分でもよく分からないのです。国へ帰りたいのか、それともこの島に残りたいのか」

 僕がそう言うと、ファジャルは目を大きく見開いて、何か言おうとするみたいに唇を少し開いた。ブルーブラックの大きな瞳が揺れ動いていた。

「僕が、もしこの国に残ったとしたら、ずっとこんなふうにあなたと過ごすことができるのですか?」

「でもそれは、お父さまが……」

 ファジャルの体が、ゆらりとこちらに傾いてきた。

 彼女の額が僕の肩先に当たり、結い上げた髪が僕の頬に触れた。髪は濡れたように冷たくて、胸の奥をざわつかせる甘い香りがした。

 僕は見えない力にあやつられるように腕を伸ばし、ファジャルの右肩を手の中に捕えた。肩はすべすべとして冷たく、薄い肉の下に折れそうな骨があった。彼女の肌が徐々に温もりと湿り気を帯びてくるのを僕は感じた。でもそれは僕自身の体温と汗のせいだったかもしれない。

「ファジャルさん……」

 自分の声が、まるで他人の声みたいに聞こえる。腕の中のファジャルは、その声に弾かれたように一瞬ふるっと震え、いつのまにか僕の腰に回していた細い腕にぐっと力を込めた。そして顔を上げ、柔らかい唇を僕の頸動脈のあたりに押し付けた。甘い息が頬にかかり、巻衣の下に押さえつけられた乳房の弾力を脇腹に感じた。

 唇は僕の首筋をなぞって上に移動し、耳に押し当てられた。熱く湿ったささやきが、耳の奥にじかに流れこんできた。

「ミナミさまが、もし、本当に、心からそう望んでくださるのでしたら……」

 耳から頭の芯に入ってきた熱いものが、背筋を流れ落ちるのを僕は感じた。

 その時、扉の外で侍女の声がした。

「失礼します。ファジャル様、ミナミ様」

 ファジャルは僕の耳から唇を離して振り向き、その同じ唇で、少し苛立いらだちの混じった声で言った。

「リニ、コーヒーなら後でいいわ。後で持って来て」

 言い終わると、ファジャルは再び僕に顔を寄せ、鼻先で僕の頬をすっと撫で、頬に、と言うよりほとんど口角に近い場所に、軽く唇を当てた。

「申し訳ございませんが、ファジャル様とミナミ様をお連れするようにとの、港務長官シャーバンダル様からのお言いつけです」と侍女が硬い声で言った。「急を要するお話だそうです」

 僕らは互いの腰に腕をまわしたままで、少し体を離して顔を見合わせた。薔薇色に染まった美しい顔に、かすかな不安の影が差した。


   2


 侍女に導かれて広間に行くと、待っていたのは港務長官とファジャルの姉たちだった。侍女はすぐに席を外し、残されたのは港務長官一家と僕だけだった。

 テーブルの端に港務長官が座っていた。スンジャ、ブラン、ビンタンの三人――いまだに誰が誰か分からない――が片側に並び、僕とファジャルはその向かい側に座らされた。同じように髪を結い上げ、紺に草花柄の巻衣を着た三人の姉たちは、僕と末妹のほうを見ながら、何かさややきあったり、くすくすと笑ったりしていた。

「家来たちには席を外させた」と港務長官が口を開いた。「家中かちゅうを動揺させたくないのでね。しかし君たちには聞いておいてもらいたい。万が一ということもある」

 緊張感のある父親の声に、娘たちはふざけるのをやめて静かになった。

「既に知っている者もあるだろうが、海民オラン・ラウトの海賊船団が、わが港市バンダルに三日間の停泊と上陸、食料と水の購入を要求してきた。結論から言えば、われわれとしてはその要求を受け入れるつもりだ」

 王国は古来、いかなる争いにも中立で、周辺諸国とも海賊とも、あえて対立したり事を構えたりせずに今日までやって来た、と港務長官は言った。だから港市の安寧と秩序を乱さぬ限り、海賊といえども追い払う道理は無い。ただ問題は、この海賊船団と交戦状態にあるドゥルハカ国の水軍が近海で活動していることだ。このことは当然、この島を軍事的な緊張状態に巻き込まずにおかない。

「ドゥルハカ国の水軍も、同様に寄港を求めてくるかも知れぬ。その場合も拒否するわけにはいくまい。ましてやの国は、この国とは同族であり、ドゥルハカ国王はアブドゥッラー王の孫、我が国王殿下ヤン・ムリアの大叔父に当たられる方だ」

 僕の右手に、ひんやりとした小さなものが触れた。ファジャルだ。彼女がテーブルの下で手を伸ばし、僕の手を握ろうとしていた。僕は手のひらを上に向けて、彼女の手を握り返した。

「明日から三日間を、何事もなく過ごせばいい。それだけだ。言うまでもないが決して外には出ず、邸の中でもあまり出歩かず、各々おのおのの部屋にいてもらいたい。もし不測の事態が起きたときにはどうするか、お前たちは知っているな?」

 四姉妹は皆うなずいた。

「ミナミ君にはファジャルが教えて差し上げなさい。構わない。使用人たちに気取られさえしなければいい」

 話はそれで終わり、港務長官は広間を立ち去った。三人の姉たちはまた僕とファジャルのことを何かこそこそと笑い合いながら出て行った。

 ファジャルは僕の手を取って立ち上がった。

「ミナミ様、今から、わたくしたち一族の者しか知らない秘密の通路にご案内することになりますけど、それでよろしゅうございますか?」

「ええ」

「ほんとうにいいのですか?」

 ファジャルは僕の手をぎゅっと強く握り、頬を紅く染め、眉をひそめてほとんど泣きそうな顔をしていた。僕はもう何も考えることができなかった。

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