第13章 暗い階段を、どこまでも、どこまでも
1
「ついていらして。わたくしから離れないでくださいませ」
彼女が持っていたのは色とりどりの花模様のガラスのランプだったから、地下への階段は緑や赤や青に染まって、まるでステンドグラスから光が差しているみたいだった。
頭を低くしながら、彼女の後をついて歩いた。丘の岩盤を掘り抜いて作られたらしい通路は、二人が並んで歩くには少し狭いほどの幅で、天井の高さは、彼女なら背筋を伸ばしても歩けるが、僕だと気をつけていなければ頭をぶつけてしまうくらいだった。
暗い階段を、どこまでも、どこまでも、もう地の底なのではないかと思われるほど深く降りて行く。岩盤に刻まれた階段はずいぶん古いらしく、すり減ったり欠けたりしたところも多い。慎重に歩かなければどこまでも転げ落ちて行ってしまいそうだった。
ランプを掲げた彼女の後ろ姿は、逆光でシルエットになり、髪や肩や腕の輪郭が反射光に照らされてぼんやりと見えた。空気は湿ってひんやりとしている。少しかび臭いようなにおいに、かすかな磯の香りが混じっていた。
「驚きました。あんな普通の部屋の衣装箱の底から、こんな通路が続いているなんて」
「あの部屋は、以前母の部屋だったのです。昔はあの箱に母の衣類や装身具がたくさん入っていましたわ」
彼女は前にいるのに、狭いトンネル内の反響のせいで、声は耳元でささやいているように聞こえる。
「この丘には、何百年も前に
「この通路はその砦の名残りなのですね」
「ここを知っているのは、わたくしたち一族だけです。王室ですらご存じありません。ほんとうなら、客人であるミナミ様にお教えするようなことは決して無いのですが」
やがて階段が終わって通路は平坦になり、天井が高くなり、次第に幅も広くなって、どこからか水音も聞こえてきた。
「わたくしは不安なのです。父はあんなふうに申しましたが、すぐにでも何か恐ろしいことが起こるような気がして。父はそれを知っているのではないかと」
いつしか僕らは、地下を流れる水路に沿って歩いていた。道幅はニメートルくらいだろうか。左側は岩の壁、右側は通路よりやや低いところを緩やかに水が流れていた。彼女のランプの光は遠くへは届かないから、対岸までの川幅は分からない。
「あと少しです」と彼女が言った。
水路と道は湾曲していて、僕らは少しずつ左へ左へと導かれた。前方から徐々に外光が差しはじめ、僕はまぶしさに目を細める。光の中に、角ばった、人工物らしき大きなシルエットがあった。
それは水路に係留された、背の低い屋形船だった。全体が目立ちにくい濃緑色に塗られ、窓には黒いカーテンが掛けられていた。
少し先にはその船がぎりぎり通れるくらいの、低いアーチ状の出口が開き、外からの白い光が入ってきていた。
目隠しに植えられているらしい
街の反対側らしく、川辺はマングローブばかりで民家は無いようだったが、姿勢を低くしてよく見ると、二階屋くらいの高さの、半分崩れた赤茶色の石造りの円塔が、対岸近くの水面から突き出ているのが、木々の間から
彼女は屋形船の扉を開け、ランプで中を照らしながら、
船の外側は飾りもなく質素だったが、内装は床も天井も黒っぽいビロード張りで、両舷に沿った長い椅子は、座面がクッションになった豪華なものだった。
「万が一のときには、わたくしたち家族はこの船で難を逃れることになっています」と彼女は言った。「もしかするとミナミ様も」
「中に入ってみても構いませんか」
「ええ。どうぞ」
僕は船の中にそっと足を踏み入れた。思いのほか安定した船らしく、揺れや傾きはほぼ無い。椅子は座ってみるとバスのシートのような感触だった。
彼女があとから入ってきて、僕の隣に座り、ランプを床に置いた。
「子どものころ、姉たちとここで遊んでいるところを見つかって、父にひどく叱られたことがありました。『そこはお前たちの死に場所なのだ』と」
「そして僕の死に場所かもしれないわけですね」
「ミナミ様」彼女は僕の横顔をじっと見ていた。「ほんとうに、わたくしと一緒にいてくださるおつもりなのですか。お国にはご家族がいらっしゃるのでしょう?」
彼女の顔はランプに照らされ、額はブルーに、口元はピンクに染まっていた。
僕は何も言わず、両手で彼女の肩を引き寄せ、ピンクの唇に唇を重ねた。それは小さな果物みたいで、人肌で融けてとろりと蜜が流れた。
あなたはお分かりでないのです。と、胸の中で僕はつぶやく。どうするつもりとか、どうしたいとか、僕にはもうそんな選択肢など無いんですよ。
僕は顔を離して、両腕で彼女を抱きしめた。他にどうしろというのですか。美しく、優しく、温かく甘やかで柔らかいあなたが、ここにいる。今の僕にはそれしかないのです。あなた方はそうなることを望んでいたのでしょう? あなたのお父上と、あなたは。
豊かな胸のふくらみの柔らかさを感じながら、僕はそれを押しつぶすくらいのつもりで腕に力を込めた。苦しさに、彼女が一瞬小さなうめき声を上げるほど。
どんな恐ろしいことが起こるにせよ、あなたのお父上が僕をどう利用するにせよ、あるいは役に立たないと気づいて切り捨てるにせよ、僕にとっては同じことです。明日この島で死んだとしても、日本に帰ってあと半世紀生きたとしても、もとの世界には帰れない。茉莉にはもう二度と会えないのですから。
「僕にはもう、あなたしかいないのです。僕にはもう……」
僕は彼女の髪に頬をうずめ、甘い香りの中で、気がつくと涙を流していた。
彼女は片手で僕の背中を抱きながら、もう片方の手で何度も僕の頭を撫でた。
「おかわいそうなミナミ様」と、僕の首筋のそばで彼女は言った。「おかわいそうな、わたくしのミナミ様。お忘れにならないで、今のわたくしの命は、あなたにいただいたものだということを」
2
僕は地下鉄に乗っていた。
東京に帰ってきたのかと思ったけど、シートはすべてプラスチックで、布が張られていない。見覚えがある。これはシンガポールのMRTだ。
またシンガポールにいるんだな。
じゃあ、これは、夢だ。
僕は不安に襲われる。また怖いものが出てくるぞ。いつも夢の最後に『うわーっ』といっぱい出てくる怖いもの。それで目覚めてしまうのだ。あれは何だっただろう。だめだ。思い出すとまた出てきてしまう。考えないようにしなければ。ああ、でも確かににこれは、あのパターンの夢だ。
薄暗い車内に乗客は僕ひとり。他には誰もいない。車両はかなりゆっくりとしたスピードで走りつづけている。音は全くしないが、カーブやポイントで車体が横揺れすると、一直線に並んだ吊り革が左右に揺れた。
白檀に似た、香木のような匂いがする。
いつものあの香りだ。そうだ。茉莉はどこだろう。茉莉がいるはずなのだ。
茉莉を探して、僕は車内を歩きはじめる。連結部に扉が無いから、かなり遠くの車両まで見通せるが、人影は全く見当たらない。茉莉、どこにいるの? 僕の可愛い妹。たった一人の大切な家族。僕にとって唯一の、本当に大事な人。
いくつもの車両を通り過ぎたが、目に映る景色は変わらない。誰も乗っていない細長い車室が続くばかりだった。
いや、これはおかしい、と僕は気づく。どの車両にもドアが無いのだ。車両の端から端までシートが続いている。
こんな電車はあり得ない。
そうか。これは、夢だ。
早く、早く茉莉を探さなければ。夢が覚める前に、茉莉を探さなければ。あの恐しい『うわーっ』とともに目覚める前に、見つけなきゃ、茉莉を。茉莉ちゃんを。
僕は走り出す。途端に床がゴムのように柔らかくなり、走っても走っても、天井に頭をぶつけそうなほど飛び上がるばかりで、なかなか前に進めなくなる。上下に激しく往復しながら不安と焦燥に駆られ、僕は大声で妹の名を呼ぶ。
「茉莉! どこにいるの、茉莉!」
気づくと、僕は車両の最後尾にいた。
ガラスで仕切られた乗務員室の中に、手足のすらりと長い、制服を着た少女の後ろ姿が見える。間違いない。茉莉だ。バレエを習っていた頃の、長い髪を二つ結びにしたヘアスタイルも、セーラー襟に覆われた肩がきゅっと上がっている感じも、右の運動靴のつま先を床に立てる癖も、茉莉そのものだ。
「茉莉! 茉莉ちゃん!」
僕がいくらガラスを叩いても、十三歳の妹は僕に背を向けたまま、去って行く線路上の何かを一生懸命に見ているようだった。
「茉莉ちゃん、こっちを見て! 僕だよ。お兄ちゃんがここにいるんだよ!」
中学生の茉莉は、まだ知らないのだろう。父と母が死んだことも。
僕が死んだことも。
「茉莉……茉莉……!」
息を切らせながら僕は走っていた。真っ暗なトンネルを、電車を追いかけて、転びそうになりながら。もう少しで最後尾の車両に追いつきそうなのに。茉莉に追いつけそうなのに。
赤いランプを灯した車両の運転台の大きな窓に、茉莉の姿が見える。ゆっくりと遠ざかってゆく。
茉莉は両手のひらでガラスを叩きながら、何かを繰り返し叫んでいた。声は聞こえなくても、僕には分かった。茉莉は僕を呼んでいた。「お兄ちゃん!」と叫んでいた。
「茉莉……」
「お兄ちゃん!」
僕はもう走ることができず、線路の上に四つんばいになって、暗闇に消えてゆく車両を見送るしかなかった。
「茉莉! 僕は生きてる! 必ず帰るよ!」と僕は叫ぼうとした。でも言葉は音にならず、トンネルを吹き抜ける風に砕けて消えていった。
「ミナミ様、どうなさったの?」
目を開くと、ファジャルの顔があった。
月明かりが部屋を
部屋にはまだ、眠る前にランプで燃やしたあのお香の匂いが立ち込めていた。
「夢を見ておいでだったのですね?」
僕はうなずいた。
「ずいぶんうなされていらして。何度も『
「大丈夫です。あなたがいてくれてよかった」
ファジャルは微笑んで、僕の唇に軽く口づけしてから「おやすみなさいませ」と言って去っていった。髪を下ろして真っ白な
あれが夢で、これが現実なのか。
この国にしてはひどく寒い夜だった。僕は頭までシーツをかぶった。
僕にはどちらも現実だなんて思えなかった。
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