第14章 大きな帆を張った彼らのアラブ式帆船が、水鳥の群れのように

   1


 僕の部屋の窓からも、海賊たちの船が入港してくるのが遠くに見えた。

 十二、三せきくらいだろうか。鋭角三角形の大きな帆を張った彼らのアラブ式帆船ダウが、水鳥の群れのように連なって、次々と港に入ってきた。

 それに続いて、小さな青い帆を何枚も張った数隻の大型船が港口こうこうに現れ、帆を巻き、いかりを降ろした。あれがドゥルハカ国の水軍だろうと僕は思った。

 上陸初日には海賊の代表団が短剣クリスを帯びた正装でやしきを訪ねてきて、真珠貝や指輪や髪飾りなどの宝飾品や、金象嵌きんぞうがんの施された望遠鏡や機械時計などを港務長官シャーバンダルに献上した。

 彼らがやしきを去るとすぐ、四姉妹は宝飾品の山に集まってきた。恐ろしい出来事の予感におびえていたファジャルも、姉たちと一緒に腕輪や耳飾りをつけたり外したりしてはしゃいでいたので、僕は少しほっとした。

 ファジャルはエメラルドのはめ込まれた金の指輪を二つ見つけて、小さい方を自分の薬指にはめ、大きい方を僕に持ってきた。

「素敵よ。ご覧になって」

 二つの指輪は同じデザインでサイズ違いだった。どこかの国の恋人たちの手首を切り落として奪ったものかもしれないと思うと気味が悪かったけれど、目を輝かせたファジャルに水をさすようなことも言えなかった。

 彼女は僕の右手をとり、中指にその指輪をはめた。サイズはぴったりだった。

「とってもお似合いだわ」

 そして指輪をした僕の手と自分の手を重ねて、満足そうに微笑んだ。

 僕たちがそんなふうに触れ合っていても、彼女の姉たちは気にとめず、お宝の分配に夢中だった。もはや誰もが僕らを恋人同士だと思っていた。

 港務長官シャーバンダルもすでに、僕が彼女を妻にすることを認めていた。

 もちろんすぐに婚約や結婚というわけにはいかない。豚肉を禁忌ハラムとする以外の戒律をほぼ無視しているとはいえ、彼らアルイスカンダリーの一族はアラブの末裔まつえいでありイスラム教徒だから、僕が改宗しないことには手続きも儀式も進められない。海賊騒ぎが落ち着いたら、僕は父娘とともにモスクに赴き、導師イマームの前で入信の儀式を行うことになっていた。

 どうせ戒律を守らなくていいなら、浄土真宗でもイスラムでも何でもいいと僕は思っていた。神を信じる必要も無い。心の中は誰にも分からないのだ。改宗にせよ、結婚にせよ、どうせこれは本当の僕の人生ではない。

 しかし、僕がイスラム教徒になる日も、晴れてファジャルと夫婦になる日も、ついにやって来ることはなかった。


   2


 海賊たちは、三日間の予定だった滞在を、あれこれ理由をつけて引き延ばした。四日が五日になり、さらに一週間になった。一方ドゥルハカ国の艦隊からは高位の使者が何度も邸を訪れ、同族であるクンバンムラティ王国が海賊を保護していることの不当を訴え、海賊追放を要求してきた。

 港務長官は曖昧な返答で時間を稼ぎながら、王都コタラジャに伝令を飛ばして王室軍の出動を要請したが、時はすでに遅かった。ドゥルハカ王国水軍の提督ラクサマナクンボカルノ王子は「兄弟であるクンバンムラティ王室を助け、海賊を討伐する」と一方的に宣言して、艦隊を強引に入港させてきた。

 ドゥルハカ兵と海賊の衝突が始まったのは夜明け頃で、僕はファジャルに揺り起こされてそれを知らされた。

 彼女の制止もかまわず、僕は窓の鎧戸よろいどを開けて外の様子をうかがってみた。街を見渡しても特に何が見えるというわけではなかったが、どことなく騒がしい空気が流れている気がした。長い銃を背負った衛士たちが、丘の斜面の芝生に穴を掘って陣地を作っているのが見えた。見たところ、彼らの銃は火縄銃らしい。この時代にしてもずいぶん旧式のはずだ。

 午後になり、四姉妹と僕と、あのファジャルの侍女リニを含む何人かの使用人が広間に集められ、しばらくここから動かないようにと港務長官に命じられた。

「王室軍が来るまでの間、我々は事態を静観しつつ、この邸だけを守るしかない」と普段の彼にも似合わない疲れた顔で港務長官は言った。「最悪の場合も考えておくように」

 その日の夕方、ドゥルハカ国の軍船から煙が上がり始め、木造家屋の密集した市街にたちまち燃え広がった。鎧戸を閉ざしていてさえ、空が真っ赤に染まっているのが分かった。尋常でない風のうなりが建物を震わせた。

 港務長官はどこかに出たまま広間に戻らず、僕と四姉妹は窓からできるだけ離れて、床の上でじっとしていた。ファジャルは僕の手をずっと握ったまま、一秒も放さなかった。

 この時になってはじめて、僕は彼女の三人の姉をひとりひとり区別できるようになった。四人とも化粧っ気が無く、巻衣の色や柄がばらばらだったのもあり、四人の行動や人柄のちがいが見えてきたのだ。

 長女のスンジャは、次女のブランの助けを得ながら妹たちを見守り、声をかけて励ましつつ、男の僕がリーダーシップをとることを暗に求めるかのように、たびたび僕に意見を求めた。三女のビンタンは言葉少なく、ファジャルの身体を背もたれ代わりにして座ったまま、じっと窓の方を見つめていた。

 衛士たちが邸の周りを走り回って火の粉を叩き消したり、街から逃れてきた人々を追い払ったりしている声が、僕らのいる広間まで聞こえていた。夜になると何度か銃声らしいものも聞こえた。おそらく避難民を威嚇いかくしていたのだろう。

 長い夜だった。

 白米と鶏のスープだけの夕食の後、ファジャルは僕の膝を枕に背中を丸めて眠ってしまった。ビンタンもそのファジャルの脚を枕に仰向けになって、いつの間にか眠っていた。スンジャとブランは使用人たちの輪の真ん中に入り、何かの指示か相談をしているようだった。

 夜半ごろ、ファジャルの侍女のリニが立ち上がり、数秒の間わずかに鎧戸を開けて隙間からから外をうかがい、火勢が弱まってきたようだと報告した。

 それを聞いて安心したせいか、僕もいつしか、壁にもたれて眠りに落ちてしまった。深夜に何度か、重いものがどすんと落ちるような音が聞こえて目覚めたが、ファジャルもビンタンもそのままの格好で寝ていたので、僕もまた眠りの中に戻った。



 明け方、ふと目覚めると目の前に港務長官が立っていて、ついて来るようにと僕に言った。

 ファジャルとビンタンはいつの間にか、互いの腕を枕にして額を寄せ合い、抱き合うようにして眠っていた。スンジャとブランは椅子にかけてテーブルに伏せ、リニたち使用人は男も女も広間の隅に集まってうずくまっていた。

 港務長官は僕を隣の部屋に連れていくと、鎧戸を開けて外を見るよううながした。

 日の出前の薄明に浮かび上がる港市の街は、半ば近くが焼け野原になっていた。邸の立つ丘の斜面の芝生には、数え切れないほどの人間が布をかぶって横たわっており、一瞬、死体かと思ってぎょっとしたけど、それぞれに荷物を枕にしたり子供を抱いたりしているので、街から逃げてきた人たちが眠っているのだと分かった。

「海の方を見たまえ。船影が見えるか」

「商船がすっかり消えてしまいましたね」

「あの小島の少し左だ。分からんかね?」

 言われてみると、港の遥か沖に、何か大きな影が朝もやに霞んで見える。その輪郭が分かって、僕は思わずあっと声を出した。水平線を断ち切ってそびえ立つ、それが船なのだった。

 海賊船やドゥルハカ水軍の船よりも何倍も、何十倍もあるかと思われる、真っ黒な鉄の城のような船だ。三本の高いマストの他に、船体の中央からは巨大な煙突が天を突くようにそそり立っていた。

 黒船。僕は背中が冷たくなるのを感じた。

「あれが何か、君は分かるか」

「……蒸気船カパル・アピですね」

「これで見てみたまえ」

 港務長官に渡されたのは、海賊の献上品の中にあった金象嵌の望遠鏡だった。倍率はあまり高くなかったが、マストの間に張られたロープや、いくつかの旗が見えた。その中の一つが僕の目にとまった。

 ユニオン・ジャックだ。

英国イングリスの船ですか」

「どうやら私は事態を甘く見ていたようだ」港務長官は嘆息して、鎧戸を閉めた。「ドゥルハカ王国はもはや、空洞になった大木と同じだ」

 港務長官によると、ドゥルハカ国では五年ほど前から英国と条約をむすんで通商をはじめたのだが、二年前、スズ鉱山開発をめぐる地方族長同士の闘争を鎮圧するために英国軍艦の力を借りて以来、英国人の顧問官が宮廷に入り込み、国政に影響を及ぼすようになったのだという。

「今の彼らは影絵人形ワヤンに過ぎぬ。筋書ラコンきは全て英国という人形遣ダランいの思いのままだ。つまり知らぬ間に、我が国は英国と戦をしていたのだよ」

 どうして港務長官は、こんなことを僕にしゃべるんだろう? 弱気になっているのか? 何かの一部を僕に背負わせようとしているのか?

「我が王室は外国の情勢に全く関心をお持ちでない。私の進言もまともに受け取ってくださらなかった。しかし、世界でいかに恐ろしいことが起こっているか、殿下ヤン・ムリア宰相ブンダハラ殿も昨夜のことでお分かりになっただろう」

「昨夜のこと?」

「あの音が聞こえなかったかね? あの蒸気船の大砲ムリアムだよ。実は王室軍はもうすぐ近くまで来ていたのだ。だが昨夜そこに砲弾が五発撃ち込まれた。人死ひとじには多くはない。兵が五人か十人か、せいぜいその程度だ。殿下も宰相殿もご無事だ。しかし兵たちは恐れをなして散り散りに潰走かいそうし始めている。いいかね? もはやここに援軍は来ないのだよ」

「……どうなるのですか?」

「負け戦だ。負け戦をいかに負けるかが、事の要諦ようていなのだ。そこに国の今後を決める鍵がある」

 娘たちと一緒に広間で指示を待つように、と僕に命じ、港務長官はどこかに消えた。

 広間に戻ると、僕を見るなりファジャルが飛びついてきて、息が苦しくなるほど抱きしめられた。

「どこへいらっしゃってたんですか。わたくし恐ろしい夢を見たのです。父上も、お姉様たちも、ミナミ様も、皆……。そして目覚めるとミナミ様がいらっしゃらなくて……」

 ファジャルは僕の頭を両手で掴んで、涙に濡れた唇を僕の唇にぶつけるように、何度も押し付けた。いくら何でもみんなが起きてくると困る。僕は彼女の肩を僕の体から引き離した。

「大丈夫。僕はいつまでもあなたと一緒です」

 ファジャルは両腕で僕の左腕にしがみついた格好のまま、姉たちや使用人たちが目覚め、鶏粥ブブルアヤムだけの朝食が配られても、ずっと離れなかった。

 昼前に港務長官が姿を見せ、娘たちと僕を集めて告げた。

「これから船に乗る。昼には出発するから準備をしなさい。片手で持てる以上のものは持って来るな。どうしても持っていきたいものがあるなら、今すぐ部屋から取ってきて、ただちにここに戻るように」

 姉たちは口々に悲鳴のような嘆きの言葉を叫びながら広間を飛び出していった。

 ファジャルは両手で僕の頬を包んだ。そして港務長官の指揮で使用人たちが忙しく動き始めるのを横目でうかがいながら、僕の唇にまた口づけしようとしていたけど、さすがに皆の目が気になるらしく、何度か試みた末にあきらめた。

 そして、僕の両頬を撫でながら言った。

「指輪を取って参ります。ミナミ様もそうなさって」

 ファジャルと別れて部屋に戻りながら、僕は考えた。持って行かなければならないものって何だろう。彼女に言われたエメラルドの指輪。王女から賜ったお香。そして日本から持って来た唯一のものであるワイシャツ。

 その他には何も思いつかなかった。

 部屋に入って後ろ手で扉を閉じ、エメラルドの指輪を入れた箱を開けようとしたとき、背後から声がした。

「よう、ミナミ、生きてたか」

 驚いて振り返ると、衛士の服で短剣を帯びた青年が、戸口の横の壁にもたれて、腕組みして立っていた。その顔を見て、僕は一瞬、今置かれている状況を忘れそうになった。

「アディ! 元気だったか。王都コタラジャに呼び戻されたんじゃなかったのか」

 彼の表情には、しかし、何か見慣れない奇妙な印象があった。眼差しには以前のような親しみが無く、構えたような、緊張したような色があった。

「静かに。邸の連中に気づかれる。話は後だ」アディはつかつかと歩み寄ってきて、僕の手首をつかんだ。「今すぐ、このまま俺と一緒に来い。王都に帰るぞ」

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