第15章 僕はここの人たちと一緒に行くから大丈夫だ

   1


「今すぐ、このまま俺と一緒に来い。王都コタラジャに帰るぞ」

「アディ、君は早く逃げてくれ。僕はここの人たちと一緒に行くから大丈夫だ。君に教えるわけにはいかないけど、ちゃんと道があるんだよ」

 アディの顔から緊張の表情が消えた。その代わりに現れたのは、しかめっつらだった。

港務長官シャーバンダルたちと一緒にか。どこへ逃げるか知ってるか?」

「それは……もちろん王都だろう。また向こうで君や王女に会えるよ」

「いや。違うな」と言ったアディの声には、いら立ちと怒りがこもっていた。「港務長官はドゥルハカ国に――いや、英国イングリスとかいう異人フランキの国に、自分たちだけで降伏するつもりだ」

「まさか」僕は笑った。「そんなことして何の意味がある?」

「異人と手を組んで、異人の手下になって国を乗っ取るためだよ。自分がスルタンになるつもりかもしれない。奴はそのためにあんたが欲しいんだ。あんたは異人の言葉が話せるしな。だからファジャルを――」

 彼女の名を出されて、僕は頭と顔がかっと熱くなった。

「待てよ。彼ほどの高官を、宮中武官の君ひとりで、何の根拠も無く裏切り者あつかいしてるわけじゃないんだろうな?」

「俺はあれからずっと、旦那様トゥアンの命令でこの港市を調べていたんだ。おかしなことはいろいろある」

「おかしなこと?」

「異人の兵が街に火をつけて回ってるのを、俺は昨夜この目で見た。あいつらはどこから来たんだ。やつら、あのややこしい街で、迷子にもならず、自分たちは火に巻かれずにうまく逃げてたんだ。何日も前から潜んでいたとしか考えられない」

「港務長官がそれを知ってたとは限らないよ」

「あの男はそこまで間抜けじゃないさ。だったらあの時、ねえさんは俺たちに何を隠そうとしたんだ?」

 そうだ。あの時、港市の街の奥まった細い路地で、僕はたしかに、なにか外国語で話す大勢の人声のようなものを耳にした。あれが英国兵だったというのか。

「いいかミナミ、考えてもみろ。すぐ隣のドゥルハカ島で何が起こったか、港務長官の立場にある男が知らなかったはずがない。なのに彼は旦那様にも宰相ブンダハラ殿にも何も報告してなかった。なぜだ?」

 そんなわけがない、とは僕には言えなかった。むしろありそうな話だ。あの人なら不思議でも何でもない。

「まあ、奴が偽王になれば、あんたは婿殿むこどのだから、港務長官の後釜あとがまにでも座れるだろうけどな。もともとが外国人の役職だから」

「やめてくれ。僕はそんなこと考えてない。ファジャルもそんなことは望んでないはずだ」

「ファジャルは、身を飾ることと色恋にしか興味が無いよ。宮中に仕えてた時も、王族やら料理番やらを相手に、れたれたで何度も騒ぎを起こしてた」

「そんな言い方するなよ。人を好きになるのは悪いことじゃない」

「やれやれ。目を覚ませよ」アディはため息をついた。「あの四人姉妹は、結局父親の言いなりのお人形だぜ? あんな女にほだされて、あんたのために心を砕いてくださった姫様を裏切るつもりか? だったら俺は絶対に許さないぞ。国がこんなことになっても、姫様はまだあんたのことを気にかけてらっしゃるんだ。そうでなきゃ俺がこんな所に来るもんか」

 ムラティ王女の力強い真っ直ぐな眼差しや、生き生きした声や、しなやかな身のこなしや、時折見せる子供らしい表情を、僕は思い出さずにはいられなかった。内陸ダラムに同行することを断った僕に「あなたはぜんぜん間違ってない」と言って、あのお香をくれたことも。

 もし仮に、アディの話が本当だったら。

 港務長官の野望が本当で、それが成功し、彼が英国の保護下で新たなスルタンになったとしたら。

 今の王家はどうなるのか。

 あの美しい、病弱なアングレック王は? 快活なムラティ王女は?

 悲劇的な前例は、世界の歴史上に数知れない。

 アディの言うとおりだ。あの子を、王女を裏切るようなことは、絶対に許されない。そしてもちろん、命を張って暴漢から守ろうとしてくれたアディの敵になることも、あの美しい王都を滅ぼすような策謀に加担することも。だとしても……

「だとしても、僕はファジャルに確かめてみたい。もし、僕が港務長官に協力することを全て断っても、それでも彼女が僕と……」

 アディは首を振った。

「あの女は父親から離れられないよ」

「そうかもしれない。でも確かめたいんだ」

「それでどうするんだ? そりゃあんたはファジャルの胸を枕に寝てりゃ幸せだろうさ。でもマリは? あんたの妹はどうなる。遠い国でひとりで泣いてる、マリのことはどうするんだ」

 茉莉の名を聞くと涙があふれそうになり、僕は天井を仰いで深呼吸をした。

 茉莉。今日もあの子は、たったひとりで仏壇の前に、空港のロビーに、あるいは地下鉄の車内にいるのだろうか。今朝もあのアパートでひとりで目覚め、ひとりで朝食をとり、誰とも言葉を交わさずスーツに着替えて仕事に行ったのだろうか。今朝? いや、それは遠い未来の話だ。今僕がいる世界には、どんなに隅々まで探したところで、茉莉はどこにもいないのだ。

「どうしようもないんだよ……」

「なに言ってやがる。子どもの頃から二人で支え合ってきた、たった一人の家族なんじゃなかったのか?」アディは激しく怒っていた。僕と、茉莉のために。「本当に大切なのは妹だけだって言ったのは、あれは嘘か? 俺たちを騙してたのか?」

「でも、僕にはもう、あの子のところに帰る方法がないんだ」

「馬鹿かあんたは。どんなに遠い国か知らないが、あんたはそこから来たんだろう? 来たのに帰れないなんてわけがあるもんか」

 来たものが、帰れないわけがない。それは馬鹿らしいほど明快な理屈だった。僕には何も言い返すことができなかった。

「方法があるとか無いとか、生きるとか死ぬとか、そんなことは二番目三番目なんだ。俺と姐さんのお師匠が、いつも言ってた。『お前の本心バティンに背くな。本心バディンの声は梵天ブラフマーの声、本心バティンの声はアッラーの声』ってな。だから俺は死ぬまで姫様の下僕しもべだ。だから姐さんはあの男と娘たちに命だって差し出すんだ。あんたはどうする」

「君は、王女のためなら百年の時を越えられるか?」

「当たり前だ。あんたはどうする」

 アディは僕の顔をじっと見ていた。

 僕は深いため息をついた。

 目に映る世界はいつもと変わらない。見慣れた部屋だ。天蓋つきのベッドがあり、蔓草模様の絨毯が敷かれ、鎧戸のついた窓があり、ガラスのランプとイスタンブールの風景画がある。そしてテーブルの上にはチェスの盤と駒がある。港市に来て以来、僕はずっとここにいたのだった。一週間? 一ヶ月? 思い出せない。でも長かった。

 きっと、長すぎたのだ。

「いっしょに行くよ」と僕は言った。「ありがとう。何もかも君の言うとおりだ」

 せめてファジャルにひと言別れを告げたかったが、それももうかなわないだろう。もしアディが間違っていたら、王都でまた会えるはずだ。


   2


 僕は肩掛けひものついた布袋に、畳んだワイシャツと、お香の包みを入れ、そして少し考えてから、チェス盤から白のクイーンの駒を取って入れた。それから、エメラルドの指輪を入れた小さな革袋を箱から出し、そのまま布袋に放り込んだ。

 アディは腰の短剣クリスを抜いて右手に構え、左手で僕の手を握った。

「ちゃんとついて来いよ」

 そして扉を開いて、通路へ走り出した。

 邸の中は、ついさっきまでとは全く様子が変わっていた。多くの部屋の扉が開け放たれ、使用人や避難民や衛士たちまでもが走り回って、あちこちをひっくり返してはめぼしい物を探していた。四姉妹の誰かのものらしい金襴ソンケット更紗バティックの衣装を山ほど抱えて中庭を走っている衛士さえいた。

 それで僕は、この邸にはもう主人がいないのだと悟った。

 抜き身の短剣を持ったアディと手をつないで走る僕を、見とがめる者は誰もいなかった。僕らはそのまま正面の入り口から邸の外に出た。

 丘の上から見えたのは、一つの都市がまさに滅亡を迎えるさまだった。イギリス艦は朝よりもかなり島に近づき、艦から下ろされた何隻もの小艇ランチが水兵たちを乗せて港に近づいていた。港務長官邸の衛士たちはすでに持ち場を放棄し、多くの住民たちが荷物を抱え、灰になった街を離れようとしていたが、どこへ逃げればいいのか途方に暮れているようだった。ドゥルハカ兵らしい数人のグループが、マスケット銃や抜き身のプダンを手にしたまで輪になって談笑している姿が、丘への登り口に見えた。

 僕は走りながら、邸を振り返った。

 白亜の城塞のような建物は、あるじに打ち捨てられても、あくまでも揺るぎなく、混乱する街を丘の上から傲然ごうぜんと見下ろしていた。

 この下には地下水路があり、五人の家族と、おそらくリニをはじめとする腹心の数人が船出の時を待っているはずた。そのことは僕の他に誰も知らないだろう。

 もしかして、ファジャルはまだ広間で僕を待っているのだろうか。いや、リニや姉たちがもう無理矢理にでも連れて行ったはずだ。僕を待ったために誰かが逃げそびれるようなことは、あの港務長官がついている限り絶対に無いだろう。大丈夫だ。

 アディは川に向かって丘を駆け下り、船着き場を横目に通り過ぎ、川沿いの小道を東へ向かった。家並みが途切れ、道が茂みの中に入ってもまだ、ところどころに呆然と座り込んでいる避難民や衛士の姿があった。

 アディと僕はずっとしっかりと手をつないだままで、早足で歩き続けた。

 東へ行くほど、川にはヒルギバカウの幹や気根が増え、やがてマングローブ林となって川面は見えなくなった。道は川から少しずつ離れて、榕樹の林の中に続いていた。

「聞こえるか?」

 とアディが言って、僕の手を放し、耳をそばだてた。

 どすん、と重い物を床に落とすような、僕の耳にはボウリング場の騒音のように感じられる音が、遠くから聞こえた。艦砲射撃が再開されたのだ。

 道はやがて、竹の小屋が並ぶ小さな集落に入った。住民は既に避難したらしく、仕事道具や食べ物などが散らばったまま放置され、動くものは犬と鶏だけだった。

 アディは脇道に曲がり、人気の無い集落の中を川の方へ向かった。少し行くと、椰子の木立の間から小さな池のような船溜まりが姿を表した。

 簡単な雨覆いのついた小船の上で、茶色の無地の巻衣サルン一枚だけを腰に巻いた見覚えのある男が、竹竿たけざおを片手に手を振っていた。

「ここに来たってことは、旦那はあのファジャル様をお捨てなすったってことですね」と男は言った。「全く、たいした旦那だよ」

 僕とアディが港市に来たときの、あの船頭だった。

 アディは浅い船溜まりの中にざぶざぶと足を踏み入れた。

「さあ、乗るぞ。急げ」

「大丈夫ですよ、ここにはワニブアヤはいやしません」と言って船頭が笑った。

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