第3部 ダラムへ

第16章 王都は、港市の混乱が嘘だったみたいに平穏で


   1


 夢を見ることも、暑さや寒さを感じることも無く、僕は死んだように眠り、目覚めたのは昼ごろだった。

 竹のすだれ越しに、裏庭の榕樹ブリンギンの緑に染まった反射光が部屋に差し込み、板張りの壁と床を彩っている。僕が寝ていた竹のベッドのそばには、やはり竹で作られたテーブルと、木彫りの丸椅子があった。

 港市バンダルに行く前に寝泊まりしていたのと同じ部屋だった。

 王宮に着いたのは夜遅くだった。港市からこの王都コタラジャまで、川の流れが急になるあたりからは、船を降りて徒歩での旅だった。日が暮れてから雨が降り出したこともあり、僕は疲労で頭がぼんやりしたまま、誰かに案内されるままにこの部屋で眠りについたのだった。

 厨房に行き、顔見知りの下男から餅米のクタパットをもらって食べてから、その足で王都の通りをぶらついた。

 王都は、港市バンダルの混乱が嘘だったみたいに平穏で、夢を見ているような気分になった。

 ココ椰子の木陰で、年老いた農夫がマンゴーを売り、王族の下女や、庶民のおかみさん達が、一個ずつ手にとっては品定めしていた。小さな裸の男の子が子犬を抱いて、おぼつかない足取りで走り回っていた。

 僕とアディはすでに十時間以上前にこの王都にたどりついていたが、ドゥルハカ軍も英国兵もまだ追いついてきていないらしい。あるいは、王都に攻めのぼらずに港市の支配を固める方針なのだろうか。それとも、王室軍がかろうじて戦線を支えているのだろうか。

 石畳の広場に出ると、大きな平らな岩の周りに、今日も子どもたちが集まっていた。

 そしていつものように、大勢の子供達に囲まれた岩の上で、二人の子供が竹の棒で剣術の手合わせをしていた。

 近づくと、思ったとおり、そのうちの一人、くれない色の巻衣サルンを胴に巻いた細身の剣士はムラティ王女だった。

 相手の男の子は王女よりずっと背が高かったが、右から、左から、そして正面から激しく振り下ろされる王女の攻撃を支えるので精一杯らしく、じりじりと後退して追い詰められつつあった。

 ひと目で気づいたのは、王女の太刀たちさばきから、しなやかな優美さと調和が消えていることだった。

 腕が落ちたのではない。スピードは以前と変わりがなかったし、無駄な動きはますます削ぎ落とされていたくらいだ。ただすべての動きが直線的で、そこには王女の心の緊張がはっきりと見て取れた。相手は全然強くないのに。

 やはり、この王都も以前のままではない。

 僕は胸が苦しくなった。茉莉のバレエもそんな風に、優美さを失って直線的に見えたことがあったのだ。緊張や不安の中で、あの子自身が舞うことを楽しめなくなっていたような時だ。

 もちろん剣はバレエとは違う。剣術にははっきりと実用的な目的がある。だけど、あの子の剣が本当に殺人剣みたいになってしまうのを、僕は見たくなかった。

 観戦している子どもたちも、何かに気圧けおされたかのように声も無く固唾かたずんでいた。ただ竹の棒がぶつかり合う音と、二人の苦しげな息遣いだけが聞こえた。

 右肩を突かれた男の子がついに耐えかねて体のバランスを崩すと、王女はここぞとばかりに容赦なく、一太刀、二太刀、三太刀と続けざまに浴びせた。後頭部で結んだ髪が、獰猛なネコ科の獣のように跳ね踊り、飾っていた白いジャスミンの花がどこかに振り飛ばされた。

 男の子は後ずさりして岩の縁から足を踏み外し、まるで空中に投げ出されたみたいに後ろ向きに落ちた。

 王女が悲鳴混じりの声で、彼の名前らしい言葉を叫んだ。

 同時に、観戦していた子たちがわっと腕を伸ばして、ミュージシャンが客席にダイブしたときみたいに彼の体を支えた。

 地面に降ろされた男の子は、巻衣のすそを直して、王女に向かって一礼した。

 子供たちが安堵の混じった歓声を上げる中、王女はうつむいて胸を押さえ、しばらくのあいだ息を整えていた。


   2


 広場から王宮に戻り、いったん部屋に戻って休んでいるうちに、自分で思っていたよりも疲れていたらしく、僕はまた眠り込んでしまった。

 日が傾き始めた頃に、部屋の外から「ミナミ様」と呼ぶ女性の声があった。「ミナミ様、いらっしゃいますか?」

 はっと胸をつかれた気がして、ベッドから跳び起きて扉を開けると、声の主は見覚えのある王女付きの女官のひとりだった。

「王女様がお呼びです」と、若い丸顔の女官は表情一つ変えずに言った。

 女官に連れて行かれたのは、正殿の玉座の間、つまり初めてここに来た日に国王に謁見したあの十二、三畳ほどの広間だった。

 金箔張りの玉座に、主の姿は無かった。代わりに、その前に金錦きんにしき織りの大きなクッションが置かれ、真ん中に正装のムラティ王女が横座りしていた。

 黄色地の金襴ソンケットの巻衣を着て、鞘と柄に貴石を散りばめた短剣クリスを紫の帯に差し、結い上げた髪に金花ブンガ・マスとジャスミンの生花を飾った王女は、お姫様というよりは幼い女王のように見えた。

 ただ、彼女の両脇に侍立じりつしているのは宰相ブンダハラでも港務長官シャーバンダルでもなく、宮中武官の正装でました顔のアディと、何度か見かけたことのある白髪混じりの女官だった。

「ミナミ、そこに座って」

 王女に促されて、僕はクッションの前に敷かれた色柄織りのむしろに正座した。

「あなたが無事で嬉しいわ」と王女は言った。「まだお国の妹さんのところに帰れないのは、とてもお気の毒だけど」

「ありがとうございます」と僕は答えた。「でも、きっと、なんとかします」

「こんなことになってしまったけど、できるだけのお手伝いはするつもりよ」

「王女様にはいくら感謝しても足りません」

 僕は頭を下げた。

「顔を上げて、ミナミ。今日呼んだのは、わたしからお礼を言うためなの」

 お礼?

 王女は姿勢を正して、少しトーンを低めた声で言った。

「ヒロミ・ミナミ。ご不在のお兄さま――国王殿下ヤン・ムリア名代ワキルとして、わたくしラトゥ・ムダ・プトリ・グデ・ムラティ王女から、あなたに謝意を伝えます。あなたは……あなたは……えーと」

「比類なき」と女官がささやいた。

「……比類なき武勇を、その身を以て示し、わが臣民ファジャル・ビンティ・アルイスカンダリーの命を救いました」

 ファジャル……。

 僕は思考の止まった頭で王女の顔を見上げた。王女様、僕は確かに彼女を助けました。でも……。

 王女は後ろ手でクッションの後ろをごそごそと探り、一振りの短剣クリスを取り出した。黒檀こくたんのような木で作られたさやには、細かい浮き彫りが施されていた。草のつるとも海の波とも見える曲線の間に、花と魚が見え隠れしている図だった。

「その功に報い、この短剣をあなたに授けます」

 王女はクッションの上で体を起こし、水平に握った短剣を僕に向かって差し出した。

 でも、僕はそのファジャルを裏切ったのです。そして今彼女は、アディの言うとおりだとしたら、王女様に弓を引く側にいるのかもしれないのです。

「私は、そんな褒賞ほうしょうをいただけるような人間では……」

 王女はとした視線で僕の逃げ口上をさえぎり、首を横に振った。

「それは、あなたが決めることではないわ。決めるのはわたしです」そして腕をいっぱいに伸ばして、僕の顔の前に短剣をぐっと突き出した。「ミナミ、受け取って。あなたはわたしの民を一人救った。それは間違いのないことよ」

 なぜだろう。どうしてもこの子には逆らえない。僕は両手でおずおずと短剣を受け取った。

 手にとって見ると、短剣はずっしりと重く、鞘の浮き彫りは思った以上に精緻せいちだった。無垢の木製かと思っていたが、魚の眼や花の芯には黒曜石のようなつややかな石が象嵌ぞうがんされていた。つかも同じ木製で、滑り止めに刻まれた溝に金線が埋め込まれていた。

「こんな美しいものを……」いただくわけには、という言葉を僕は飲み込んだ。「ありがとうございます」

「よかった」王女はにっこりと微笑んだ。「あなたに喜んで欲しかったの。今はこれくらいのことしかしてあげられないから」

 こんな時の作法なんて分かるはずもないから、僕は時代劇のつもりで、短剣を両手で頭上に掲げながらお辞儀をした。

「大切にします」

「いい? その短剣は、妹さんを守るためのものよ。そのことは忘れないでね」


 夕方近くに、王室軍が引き上げてきた。

 港務長官が言っていたほどバラバラに敗走したわけでもないらしく、あの後も、ちょうど僕とアディが王都に向かっていたころに、川沿いを進軍して港市の奪還を試みたのだけど、全く歯が立たずに退却を余儀なくされたのだそうだ。後で聞いたことだけど、ドゥルハカ軍は銃剣バヨネットを装着したライフル銃を持っていて、火縄銃と短剣の王室軍ではろくに戦いにならなかったらしい。

 広場に出て見ていると、部隊ごとに次々と現れる兵たちは誰もが打ちひしがれた暗い顔で、出迎えに来た知り合いや家族を見つけると、口々に何かを訴えていた。島の言葉なのでほとんど意味は取れなかったのだけど、この王都にも敵軍が来ると訴えているように思われた。

 日没までに、国王が輿こしに乗って王宮に戻ってきた。

 輿を降りた国王が、女官の掲げる金色の日傘の下、宮中武官たちに抱えられるようにして階段を上がるのを、広場で頭を垂れる王都の人達に混じって僕は見ていた。階段の上からは王女が不安げに見守っていた。

 夜になっても結局、港務長官一家やその関係者の姿は一人も見かけなかった。侍従の一人が、港務長官は敵の捕虜になり、宰相ブンダハラは負傷して、帰り道の途中にある所領の村で静養しているらしいと僕に教えてくれた。

 この王都まで、彼らの手に落ちるのだろうか。港市でのあの不安な夜を、僕は思い出さずにはいられなかった。港務長官邸はまだある程度城塞としての機能を備えていたが、この王宮は草葺屋根をいただく高床式の木造建築で、火でもかけられればひとたまりもないだろう。

 この王都がちるようなことがあったら、僕はどうすればいいのだろうか。


 夜遅くに、また扉の向こうから「ミナミ、ミナミ」と僕を呼ぶ声があった。「ミナミ、ちょっといい?」

 王女の声だと分かったので、しきたりアダットはどうなったんだろうと首を傾げながら僕は扉を開けた。

 そこに立っていたのは、髪を下ろし、紺の更紗バディックの巻衣を一枚着ただけの王女。

 そして、その王女に手を引かれた兄、アングレック王だった。

 国王ラジャは、妹と同じ紺の更紗バティックの巻衣を腰に巻き、白い上着バジュに白いターバンという略装だった。僕と同じ背丈で、僕よりもずっと白い肌の彼は、視力のない透き通ったグレーの瞳で、あたかも僕の顔を突き抜けてずっと遠くを見ているようだった。整った顔は、遠征の疲れや心労からか、目に見えてやつれていた。

 僕が思わず床に膝をつくと、王は顔を動かさないままで、まるで祝福を与える司祭のように僕に向かって手を伸ばした。

「どうぞ、楽になさってください。部屋の中で話しましょう。わたくしは王としてではなく、一人の人間として、妹の兄として、あなたにおびとお願いを伝えるために来たのです」

 僕があわてて、部屋の中央に椅子を二つ置くと、王女は兄の手を引いて、部屋の中に導いた。

「お兄さま、こちらに」

 木彫りの椅子に腰を下ろすと、王は王女に言った。

「お前はまだ夕食を済ませていなかったね。食事と水浴びの後で、またここに迎えに来ておくれ。わたしは彼と話があるから」

「はい。お兄さま」

 王女は両手でそっと王の右手を包むようにして、膝を軽く曲げて一礼すると、僕にちょっと手を振って部屋を出ていった。

 僕は王から少し離れた正面に座り、彼が話し始めるのを待った。

「妹が、あなたに心を開いているのは嬉しいことです」とアングレック王は言った。「そしてそれは、理由のないことではありません」

 僕は何と答えればいいのか分からなかった。誰にでも話を聞いてもらえる立場にある王様というのは、こんな話し方をするものなのだろうか。

「ミナミさん、あなたは、この世界ドゥニア・ニャタの方ではないのではありませんか?」王の中性的な声は、耳からというよりも、僕自身の頭の奥から聞こえてくるみたいに響いた。「おそらくあなたは、天上か地下の国から……。そうでなければ、遠い昔か、あるいは遥か後の世から、わたくしの治世の、わたくしの王国に来たのではありませんか?」

 そう言って、王は顔を僕に向けた。

 彼の目に僕が見えていないのは確かだったが、僕の小さな動作や呼吸に至るまで、全てを彼に見通されているのもまた確かなことだった。

「……はい」と答えようとしたけれど、声がかすれてうまく出なかった。

「わたくしは、あなたに、詫びを述べねばなりません」と王は言った。「あなたをこの国に招いたのは、わたくしです」

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