第17章 水軍提督クンボカルノ王子は「わが弟よ」と言って
1
日の出を待たずに、僕ら三人は
僕とアディとで王女の荷物を持つつもりだったから、僕が持って来たのは最低限の物だけだった。何枚かの衣類と少しの食料、ワイシャツ、お香、そして指輪の袋と、チェスのクイーン。王女から
だけど王女は自分で荷物を持ち、アディが何を言っても
東へ向かう街道は、背の高い椰子の林の中を、左右に緩やかに曲がりながら、わずかな上り坂でどこまでも続くように見えた。まだ暗く、誰もいない道を、僕もアディも王女も口数少なく歩き続けた。
やがて東の空が明るくなり、朝日が僕らの顔を照らした。僕はそれで初めて、王女が真っ赤に泣き
無理もない。おそらく今日のうちにドゥルハカ軍と
途中の水場で何度か飲み水を汲んだ以外、一度も足を休めずに歩き続けると、日が高くなる頃にようやく林を抜けた。
そこは一面の田園風景だった。緩やかに上がってゆく広い斜面に、少しずつ段差のついた水田が広がり、道はその中を真っ直ぐに続いている。
何枚かの田ではすでに稲刈りが済み、
「ここが
「いえ、まだ王都の
「いいえ。大丈夫よ」
王女はそう言ったが、情けないことに僕の方がそろそろ足の痛みに耐えかねていた。アディは裸足で、王女と僕は革の
王女は僕の顔をちらっと振り返ると、アディに言った。
「ねえアディ、やっぱりどこかで休みましょう。わたし、お腹が空いたわ」
「すぐ近くに村があります。そこの
ゆるゆるとした上り斜面は、やがて下りに転じた。やはり稲田に覆われた下り斜面の向こうに、丘陵のふもとに集まった数十軒の草葺き屋根が見えた。
村に入ると、農夫や女性たちは皆顔見知りらしくアディに丁寧に会釈した。
ここは明らかに王都の文化圏で、王宮前広場を小さく質素にしたような広場に面して、彫刻の施された三角屋根の小さな家が並んでいた。その中でも比較的大きいのが、アディの従兄である村長の館だった。
村長は用水路の検分に出かけて留守だったが、やはりアディの従姉で、僕と同じくらいの歳と思われる村長夫人が僕たちをもてなしてくれた。
足を洗わせてもらい、割竹を並べた
「可愛い子じゃないの。あんたの
「失礼なこと言うなよ。この人は……姫様の侍女で、王室の御用で一緒に
「へえ。美人ちゃんと一緒とは結構な御用だね。で、そっちの旦那は?」
「この人は……ええと、新しい
「あら。それならそうと早くおっしゃってくださいよ」夫人はわざわざ僕の正面に来て、米酒の杯を差し出した。「アディをよろしくお願いしますね。こき使ってやってくださいな」
この村の女性のほとんどがそうだったのだけど、この夫人も腰に
風の通るベランダは涼しく、なだらかな棚田は目に優しかったが、暗くならないうちにアディの村に着くためには、日が傾き始める前に出発しなければならなかった。
干し飯と干し魚をくれた夫人に丁重に例を言い、僕らは再び東へ向かった。
丘陵地帯に入ると農村風景は終わり、道は幅を狭めながら森の中へ入って行った。
行けば行くほど地形の起伏は大きくなり、左右にくねくねと曲がりながら上り坂と下り坂が交互に現れる。谷底には必ず川が流れており、膝まで水に浸かりながら流れを渡っては、滑りやすい土の斜面を登るという苦行を何度も繰り返さなければならなかった。
体力的に、僕が二人の足を引っ張りつつあるのは明らかだった。でもアングレック王との約束を破るわけにはいかない。
アディとともに王女を無事に
王女と、僕と、茉莉のために。
2
クンバンムラティ王国には、もはやドゥルハカ王国軍に抵抗する力も
王にとっては父の
「和平案にはどのような条件がついているのでしょうか」と僕は恐る恐る王に尋ねた。
「まず、今後海賊は全て打ち払い、海域の秩序を守ること。そして
僕は溜息をついた。それは、植民地化の第一歩だ。
条件のリストはさらに続く。
宮廷を王都から港市に移すこと。
「あれは賢い男だ。ああいう者をうまく使うことだ、弟よ」
そう言って、クンボカルノ王子は巨体を揺すって――国王の目には見えなかったはずだけど、アディによると小山のような大男だという――
そして最後に、両王家にとって特に重要な条件が二つあった。
ひとつは、クンボカルノ王子の
それから、アングレック王の妹であるムラティ王女を、クンボカルノ王子の妃とし、もしこのムラティ王女が男子を生めば――
「待ってください」国王の前ではあったけど、僕はつい大声を出してしまった。「王女はまだ子供じゃありませんか」
「しかし間もなく十五になります。成人の儀式もひかえていますし、子を
「七歳……。なんて馬鹿なことを」
「もちろん、婚儀は何年か先になりますが」
「ムラティ王女の
「クンボカルノ王子はすでに
僕は驚きと衝撃でしばらく言葉を失い、そして腹を立てた。封建社会というのはここまで愚劣なものか。敵将クンボカルノ王子にはもちろん、全てを知りながら陰に隠れて利用することしか考えない英国人にも、ただ淡々と語るだけの国王にも猛烈に腹が立ち、たまらず僕は立ち上がった。
「それで殿下は、七歳のお妃と引き換えに王女を敵の手に委ねるおつもりですか。あんなに殿下を慕っておられる王女を。そんなことが許されますか。僕は許せません」
僕のベッドの枕元には王女からもらった
「あなたの言うとおりです」と王は言った。「しかし、わたくしたち王室のために、民をこれ以上戦の犠牲にすることはできません」
僕は短剣を手に取り、鞘を握る手に力を込めた。なぜ王女のためにこんなに熱くなるのか自分でも不思議だったけど、感情の高ぶりに任せ、僕は国王に向かって言い放った。
「僕はあなたの臣民じゃない。どうせここは、僕の国でも僕の世界でもないんだ。勝手にやらせてもらいますよ。僕は――、僕は友人として王女をお守りする。アディが味方になってくれるでしょう」
「ミナミさん」王は身じろぎ一つせず、椅子の上で背筋を伸ばして真正面を向いたままで言った。「重ねて問いますが、ではあなたは、この世界の方ではないのですね?」
「それが何だって言うんです」
「礼を言います。あなたには誠に申し訳ないが、どうか妹を守ってやっていただきたい」王は僕の方に顔を向けた。「わたくしがあなたにお願いしたかったのは、まさにそのことだったのです。そしてそれが、わたくしがあなたをこの国に呼んだ理由でした」
「……何ですって?」
そこから先の王の話は、しかし、僕には部分的にしか理解できないものだった。
「わたくしは
分からない話を分からないなりにまとめれば、こういうことになる。
王はその「
「しかしわたくしは、今日まで確信を持つことができませんでした。『
僕は港市での日々のことを思い起こした。「大きな過ち」? どこからどこまでが、誰の過ちだったというのか。
「しかし、あなたは王女の友人として戻って来てくださった。そして王女は、いきさつを何も知らないにもかかわらず、一片の疑いも持たずにあなたを信頼している。それこそが、あなたがその人である何よりの証拠です」
「務めを果たせば、僕は国に帰れるのですか」
「それについては、
「なぜ、僕が選ばれたのです」
「それについても、大祭司に聞かれるほうがよいでしょう。ただ、ひとつだけ申し上げておくと、わたくしたちは、あなたを選んだわけではありません。わたくしと王女に結ばれた
「縁?」
「世界の裏側にめぐらされた、目に見えぬ縁です」王の瞳の焦点が、一瞬、僕の顔にぴたりと合ったような気がした。「あなたは、王女のもうひとりの兄なのです」
少しずつ夕闇に呑まれ始めた山道を、王女はアディの後について黙々と進んで行く。ポニーテールにした髪が揺れている。その根元に飾ったジャスミンの花が、薄暗い中にぼんやりと光っているように見えた。その後ろ姿から離れないように、足の痛みに耐えながら僕は歩き続ける。
「ほら、あれです。見えますか姫様」と前の方でアディが声を上げた。「俺の村ですよ」
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