第17章 水軍提督クンボカルノ王子は「わが弟よ」と言って

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 日の出を待たずに、僕ら三人は王都コタラジャを発って東へ向かった。途中まではアディの郷里への道だから迷う心配は無い。

 僕とアディとで王女の荷物を持つつもりだったから、僕が持って来たのは最低限の物だけだった。何枚かの衣類と少しの食料、ワイシャツ、お香、そして指輪の袋と、チェスのクイーン。王女からたまわった短剣クリスは帯に差していた。

 だけど王女は自分で荷物を持ち、アディが何を言ってもがんとして耳を貸さなかった。

 東へ向かう街道は、背の高い椰子の林の中を、左右に緩やかに曲がりながら、わずかな上り坂でどこまでも続くように見えた。まだ暗く、誰もいない道を、僕もアディも王女も口数少なく歩き続けた。

 やがて東の空が明るくなり、朝日が僕らの顔を照らした。僕はそれで初めて、王女が真っ赤に泣きらした目をしていることに気づいた。

 無理もない。おそらく今日のうちにドゥルハカ軍と異人フランキたちが進駐してくるだろう王都を、最愛の兄王と民衆を残して去る彼女の気持ちを察すると、僕も心が痛んだ。一度も振り返らず歩きながら、王女は胸の中で何度も「お兄さまのご命令だから」と繰り返しているに違いなかった。

 途中の水場で何度か飲み水を汲んだ以外、一度も足を休めずに歩き続けると、日が高くなる頃にようやく林を抜けた。

 そこは一面の田園風景だった。緩やかに上がってゆく広い斜面に、少しずつ段差のついた水田が広がり、道はその中を真っ直ぐに続いている。

 何枚かの田ではすでに稲刈りが済み、わらが干されている。また他の何枚かの田には水が張られ、植えられたばかりの苗が風に揺れている。そして他の何枚かの田には黄金色の稲穂が実っている。鳥を追うためだろうか、田んぼのあちこちに立てられた竹竿たけざおの上で、植物の葉を編んで作られた小さな風車が、ぎこちなく回ったり止まったりしていた。

「ここが内陸ダラムなの?」と王女が尋ねた。

「いえ、まだ王都の地方ダエラです」とアディが答えた。「俺の村まで半分ぐらいでしょう。姫様、お疲れなら休みましょうか」

「いいえ。大丈夫よ」

 王女はそう言ったが、情けないことに僕の方がそろそろ足の痛みに耐えかねていた。アディは裸足で、王女と僕は革の草履カスットを履いていたが、小石や木の根や木の実などを踏みながら歩き続けて、僕は足の裏も爪もぼろぼろになりかけていた。

 王女は僕の顔をちらっと振り返ると、アディに言った。

「ねえアディ、やっぱりどこかで休みましょう。わたし、お腹が空いたわ」

「すぐ近くに村があります。そこの村長プンフル武人サトリアで俺の従兄いとこですから、休ませてもらいましょう」

 ゆるゆるとした上り斜面は、やがて下りに転じた。やはり稲田に覆われた下り斜面の向こうに、丘陵のふもとに集まった数十軒の草葺き屋根が見えた。

 村に入ると、農夫や女性たちは皆顔見知りらしくアディに丁寧に会釈した。港市バンダル王都コタラジャでの事変の影響はまだ及んでいないのか、村人は何事も無い様子で煮炊きをしたり、竹かごを編んだり、積み藁で素焼きの壺を焼いたりしていた。

 ここは明らかに王都の文化圏で、王宮前広場を小さく質素にしたような広場に面して、彫刻の施された三角屋根の小さな家が並んでいた。その中でも比較的大きいのが、アディの従兄である村長の館だった。

 村長は用水路の検分に出かけて留守だったが、やはりアディの従姉で、僕と同じくらいの歳と思われる村長夫人が僕たちをもてなしてくれた。

 足を洗わせてもらい、割竹を並べたベランダスランビに座って川魚の燻製をご馳走になっている間、村長夫人は米酒を注いだり白飯をよそったりしながらアディと話していた。

「可愛い子じゃないの。あんたの許婚いいなずけ?」

「失礼なこと言うなよ。この人は……姫様の侍女で、王室の御用で一緒に内陸ダラムへ行くんだよ」

「へえ。美人ちゃんと一緒とは結構な御用だね。で、そっちの旦那は?」

「この人は……ええと、新しい宮中顧問官プナセハットダレム殿だよ」

「あら。それならそうと早くおっしゃってくださいよ」夫人はわざわざ僕の正面に来て、米酒の杯を差し出した。「アディをよろしくお願いしますね。こき使ってやってくださいな」

 この村の女性のほとんどがそうだったのだけど、この夫人も腰に絣織イカット巻衣サルンを一枚巻いたきりで、上半身には銀の首飾り以外に何も着けていなかったものだから、僕はまともに顔を見ることも返事もをすることもできず「あ、いえ、どうも」などと口ごもりながら下ばかり見ていたので、夫人は笑いだしてしまった。

 風の通るベランダは涼しく、なだらかな棚田は目に優しかったが、暗くならないうちにアディの村に着くためには、日が傾き始める前に出発しなければならなかった。

 干し飯と干し魚をくれた夫人に丁重に例を言い、僕らは再び東へ向かった。

 丘陵地帯に入ると農村風景は終わり、道は幅を狭めながら森の中へ入って行った。

 行けば行くほど地形の起伏は大きくなり、左右にくねくねと曲がりながら上り坂と下り坂が交互に現れる。谷底には必ず川が流れており、膝まで水に浸かりながら流れを渡っては、滑りやすい土の斜面を登るという苦行を何度も繰り返さなければならなかった。

 体力的に、僕が二人の足を引っ張りつつあるのは明らかだった。でもアングレック王との約束を破るわけにはいかない。

 アディとともに王女を無事に内陸ダラムまで送り届け、大祭司カイヌウェランという人物に助力をい、助言をあおぐこと。それが王と約束した僕の使命であり、僕自身の目的でもあった。

 王女と、僕と、茉莉のために。


   2


 クンバンムラティ王国には、もはやドゥルハカ王国軍に抵抗する力もすべも無いと、アングレック王は昨夜はっきりと僕に言った。すでに和平交渉が進んでおり、王は港市の近郊で、ドゥルハカ軍を率いるクンボカルノ王子と直接会って話して来たという。

 王にとっては父の再従弟またいとこにあたる敵の大将、ドゥルハカ水軍提督ラクサマナクンボカルノ王子はその席で、「わが弟よ」と王の肩を抱き、両王国の「行き違いを正し、血族の絆を深め、共に繁栄する」ことを誓ったとのことだった。

「和平案にはどのような条件がついているのでしょうか」と僕は恐る恐る王に尋ねた。

「まず、今後海賊は全て打ち払い、海域の秩序を守ること。そして英国イングリス公使ドゥタを宮中に置くことです」

 僕は溜息をついた。それは、植民地化の第一歩だ。

 条件のリストはさらに続く。

 宮廷を王都から港市に移すこと。

 港務長官シャーバンダルカシム・ビン・アルイスカンダリーを副王ラジャムダとして、国政の補佐にあたらせること。

「あれは賢い男だ。ああいう者をうまく使うことだ、弟よ」

 そう言って、クンボカルノ王子は巨体を揺すって――国王の目には見えなかったはずだけど、アディによると小山のような大男だという――大笑たいしょうしたらしい。

 そして最後に、両王家にとって特に重要な条件が二つあった。

 ひとつは、クンボカルノ王子のめいにあたるピピメラ姫をアングレック王の妃とし、このピピメラ姫が将来生む子を、次のクンバンムラティ国王とすること。

 それから、アングレック王の妹であるムラティ王女を、クンボカルノ王子の妃とし、もしこのムラティ王女が男子を生めば――

「待ってください」国王の前ではあったけど、僕はつい大声を出してしまった。「王女はまだ子供じゃありませんか」

「しかし間もなく十五になります。成人の儀式もひかえていますし、子をすこともできる年齢です。たしかに若いですが、それを強く言っても聞き入れられないでしょう。あちらのピピメラ姫は七歳ですから」

「七歳……。なんて馬鹿なことを」

「もちろん、婚儀は何年か先になりますが」

「ムラティ王女の輿こし入れも、何年か後ということですか」

「クンボカルノ王子はすでによわい四十を過ぎていまだ子が無いので、すぐにでも世継ぎを欲しがるでしょう」

 僕は驚きと衝撃でしばらく言葉を失い、そして腹を立てた。封建社会というのはここまで愚劣なものか。敵将クンボカルノ王子にはもちろん、全てを知りながら陰に隠れて利用することしか考えない英国人にも、ただ淡々と語るだけの国王にも猛烈に腹が立ち、たまらず僕は立ち上がった。

「それで殿下は、七歳のお妃と引き換えに王女を敵の手に委ねるおつもりですか。あんなに殿下を慕っておられる王女を。そんなことが許されますか。僕は許せません」

 僕のベッドの枕元には王女からもらった短剣クリスがある。あの短剣で誰かを刺すことで、王女を救えるのではないか。僕は生まれて初めてそんなことを思った。

「あなたの言うとおりです」と王は言った。「しかし、わたくしたち王室のために、民をこれ以上戦の犠牲にすることはできません」

 僕は短剣を手に取り、鞘を握る手に力を込めた。なぜ王女のためにこんなに熱くなるのか自分でも不思議だったけど、感情の高ぶりに任せ、僕は国王に向かって言い放った。

「僕はあなたの臣民じゃない。どうせここは、僕の国でも僕の世界でもないんだ。勝手にやらせてもらいますよ。僕は――、僕は友人として王女をお守りする。アディが味方になってくれるでしょう」

「ミナミさん」王は身じろぎ一つせず、椅子の上で背筋を伸ばして真正面を向いたままで言った。「重ねて問いますが、ではあなたは、この世界の方ではないのですね?」

「それが何だって言うんです」

「礼を言います。あなたには誠に申し訳ないが、どうか妹を守ってやっていただきたい」王は僕の方に顔を向けた。「わたくしがあなたにお願いしたかったのは、まさにそのことだったのです。そしてそれが、わたくしがあなたをこの国に呼んだ理由でした」

「……何ですって?」

 そこから先の王の話は、しかし、僕には部分的にしか理解できないものだった。

「わたくしはラジャです。その地位に相応しい人間ではないために悩み苦しんではいますが、この島の王としてトゥハンがお選びになったのはわたくしです。王は国家ヌガラ中心プサットに座し、内界バティンを通じて世界アラムパクと結びついています。それが、王が霊力サクティを持つ所以ゆえんです――」

 分からない話を分からないなりにまとめれば、こういうことになる。

 王はその「霊力サクティ」により、クンバンムラティ島とムラティ王女に何らかの危機が迫っていることを数ヶ月前から予感していた。しかし病弱な王には王女を守る力がない。そこで王は密かに内陸ダラムおもむき、内陸の大司祭カイヌウェランの力を借り、ある特殊な「方法ウパヤ」を用いて、妹を救うのに相応しい人間を、別の世界アラムから呼び出そうとしたのだ。

「しかしわたくしは、今日まで確信を持つことができませんでした。『方法ウパヤ』は成功したのか。突然現れた外国人のあなたが、本当にわたくしが召喚したその人なのか。ただの漂着者や、異国の密偵マタマタではないのか。そして外国人である故、しきたりにより港務長官に判断を委ねました。それが大きな過ちだったことは認めます」

 僕は港市での日々のことを思い起こした。「大きな過ち」? どこからどこまでが、誰の過ちだったというのか。

「しかし、あなたは王女の友人として戻って来てくださった。そして王女は、いきさつを何も知らないにもかかわらず、一片の疑いも持たずにあなたを信頼している。それこそが、あなたがその人である何よりの証拠です」

「務めを果たせば、僕は国に帰れるのですか」

「それについては、内陸ダラムで大祭司カイヌウェランに直接尋ねてください。知恵を出してくれるでしょう」

「なぜ、僕が選ばれたのです」

「それについても、大祭司に聞かれるほうがよいでしょう。ただ、ひとつだけ申し上げておくと、わたくしたちは、あなたを選んだわけではありません。わたくしと王女に結ばれたタリアン手繰たぐり寄せた結果、引き寄せられたのがあなただったのです」

「縁?」

「世界の裏側にめぐらされた、目に見えぬ縁です」王の瞳の焦点が、一瞬、僕の顔にぴたりと合ったような気がした。「あなたは、王女のもうひとりの兄なのです」


 少しずつ夕闇に呑まれ始めた山道を、王女はアディの後について黙々と進んで行く。ポニーテールにした髪が揺れている。その根元に飾ったジャスミンの花が、薄暗い中にぼんやりと光っているように見えた。その後ろ姿から離れないように、足の痛みに耐えながら僕は歩き続ける。

「ほら、あれです。見えますか姫様」と前の方でアディが声を上げた。「俺の村ですよ」

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