第18章 その箪笥の前に、赤い着物を着て正座していた

     1


 そこは薄暗い、夜の宮殿だった。

 全てが金色に飾られている。立ち並んだ金の柱、足元には金の階段、左右に吊り下げられた金の灯籠、そして薄闇に向かって大きく開け放たれた金の扉。

 黄金の調度に囲まれた、三段の舞台のような壇のいちばん上から見下ろすと、一つ下の段には金の敷物が広げられ、花を生けた金色の花瓶と、やはり金色の燭台が置かれている。そしてさらにその下の段には、何が書かれているのか、茶色く古びた紙の束のようなものが置いてあった。

 ああ、やっと百年が過ぎたんだな。

 さらに向こうはまた一段低く、色あせた畳が敷かれた広い座敷になっていて、黒々とした鋳鉄の金具で飾られた、見上げるように巨大な和箪笥わだんすが置かれていた。

 彼女はその箪笥の前に、赤い着物を着て正座していた。時代劇の子供が着ているような膝丈くらいの着物だったので、白くつやつやした膝頭と、赤地の友禅に散らされた梅のような白い花柄が、薄暗い部屋に浮かび上がって見える。

 茉莉、帰ってきたよ、と呼びかけようとしたけれど、声が出なかつた。手招きしようとしても、腕も肩も動かない。いや、肩も腕も、どこにも無いのだ。眼も耳も、鼻も舌も身体も、何も無いのだ。

 金色に飾られた壇上をぼんやりとした顔で見上げる茉莉は、珍しくきちんと結い上げられた髪に、白い花のかんざしをさしていた。七五三だろう。両親が死んで七年になるから。でも彼女の顔や体は、七歳よりも何年分か大人びて見えた。

 箪笥の上の長押なげしには、古い肖像写真が並んでいる。なつかしい。久しぶりに山梨の本家に来ているのだ。着物や軍服の男女の、ぼやけて目鼻も分からない写真ばかりだが、顔が無くてもなんとなく懐かしく感じられて、親族であることが分かった。死んだ両親も僕もあの中にいるはずなのだけど、どの写真かは分からない。阿弥陀如来の掛け軸が宙に浮いてゆらゆらと揺れているのは、少しも怖くなかった。ただ懐かしいだけだ。簡単なことだ。死を受け入れればいい。

「お兄ちゃん」と茉莉が言った。「ねえお兄ちゃん、聞こえる?」

 聞こえているよ、茉莉。でも、僕はもういないんだ。

 茉莉はうつむき、顔を覆ってすすり泣き始めた。

「お願い。聞こえてるなら答えて。夢の中でもいいから」

 朝の光がどこからか差してきて、薄っすらとした紫の煙に光の平行線を引いた。茉莉は両手で顔を覆ったままで、黒いワンピースを着た大人の姿で肩を震わせていた。

「夢……夢を、見たの……。帰ってきてくれたって、思ったのに……」

 泣き崩れる妹を見守りながら、不思議なほど穏やかな気持ちだった。茉莉。泣かないで。またお化粧が崩れちゃうよ。

 震える肩を抱き、濡れた顔をいてやりたかったけど、僕はそこにいなかった。

「……お兄ちゃん、あたし、ほんとにひとりになっちゃったの……?」妹は両手を畳の上につき、涙と鼻水をぽたぽたと落とした。「ひとりは、やだよ……。ねえ……うう、うえっ……ぐっ」

 流れるように垂れた長い髪を揺らして、茉莉は苦しそうに咳き込んだ。彼女の膝からバッグが落ち、開いた口からスマートフォンが転がり出た。

 ああ、そんなものじゃだめだ。メールやメッセージではだめなんだ。それではまた百年かかってしまう。それではだめなんだ。

 息を震わせ、肩であえぎながら、妹はぐしょぐしょに濡れた赤い顔を上げた。

 そうだ。茉莉。顔を上げて。もう泣かないで。大丈夫。たとえ死んでいても、僕は必ず帰るから。

 あと百年だよ、茉莉。たった百年だ。


   2


 夢から覚めて最初に分かったのは、泣いていたのは妹ではなく僕だということだった。涙でぐしょぐしょに濡れていたのは僕自身の顔だった。

 お香を焚いた覚えはないのに、あの白檀に似た香りが小屋の中に薄く漂っていた。竹を編んだ壁の隙間から、夜明け前の青白い光が点々と漏れてきている。アディは頭まで布をかぶってまだ眠っていた。その向こうで同じように布にくるまって眠っている二人は、母屋を王女に譲ったためにこの小屋で寝るはめになったこの村の村長プンフル夫妻、すなわちアディの両親だった。

 驚くほど若く、僕の五、六歳年上と思われる二人は昨夜、僕たちの来訪を喜び、この山里では精一杯であろうごちそうを振る舞ってくれた。素朴で気のいい夫婦だ。田園の村の村長夫人と同様に、ここの奥さんも胸を隠していないのには、相手がアディの母親だけに困ってしまったけど。

 僕は心の底からアディがうらやましかった。三人で一緒に旅をしているけど、両親を失くしていないのは彼だけだ。故郷を追われていないのも彼だけだ。最愛の人を自分の手で守ることができるのも彼だけだ。

 泣いたせいか、喉が渇いていた。僕は涙を拭い、さっきの夢について考えながら寝床を出た。

 変なものだ。僕は山梨の本家になんて一度も行ったことがない。夢で見たことさえなかった。祖父の生まれた家だと聞いてはいるけれど、たぶんもう存在すらしないはずだ。

 だからたぶんあれは山梨の本家なんかじゃない。もちろんどこの宮殿でもない。

 あれは、うちの仏壇だ。

 号泣していた茉莉の姿は、夢とは思えない生々しさだった。あれは夢ではなくて、現実だったのではないだろうか。茉莉はあの部屋の仏壇の前で、ひとりであんなふうに泣いているんじゃないだろうか。

 そう思うとかわいそうで、また涙がにじんだ。

 外のベランダスランビにある水瓶で喉を潤すために、僕は暖簾のような布をかき分けて小屋の外に出た。港市バンダル王都コタラジャよりかなり標高があるらしく、肩に布をかけていてもまだ寒かった。

 少しだけ明るくなり始めた空は深い青で、なだらかな山の連なりが黒い影になって、素朴な三角屋根が斜面に並ぶ辺境の村を取り囲んでいる。村長によると、ここが王都の地方ダエラの最後の村で、内陸ダラムの入り口まではあと少しだということだった。

 僕がひょうたんの柄杓ひしゃくで水を汲んで顔を洗い、三口ほど飲んだとき、下から声が聞こえた。

「ミナミ? もう起きてたの?」

 見下ろすと、ベランダから庭に降りる階段の下に植わった榕樹ブリンギンの大木の根に、王女が片膝を立てて座っていた。深紅の更紗バティック巻衣サルンに染め出された白いジャスミンの花の柄と、裾からのぞいた白い脚が、夜明け前の光に浮かび上がって見えた。

「おはようございます、王女」

 ベランダの僕を見上げて、王女はちょっと口角を上げて微笑した。昨晩アディの母親に結ってもらった髪に、白いジャスミンの生花が飾ってあった。

「ミナミ、お香をいた?」

「いいえ。僕は、王女が母屋で焚かれたのかと」

「じゃあ村人の誰かね。ここは内陸ダラムに近いから」

 高いところから話すのは不敬にあたるだろうと思い、僕は階段を降りて、最下段に腰を掛けた。

「夢を見た?」と王女が尋ねた。

「はい。妹の夢を」

「わたしも、お兄さまの夢を見たわ。とてもきれいな金色のお召し物で、新しい宮殿の、黄金の玉座に座っていらしたの。でもわたしが声をお掛けしても、何か申し上げても、何もおっしゃらなくて。まるで何も聞こえていらっしゃらないみたいに。お兄さまは目がお見えにならないのに、その上、お耳まで……。ミナミ、これはただの夢なのかしら? それとも、わたしはもうお兄さまとお話しすることができないの?」

「夢は夢です、王女。疲れた御身体おからだが、不安な御心おこころに夢を見せただけです」

「そうよね」と言って、王女は腕で涙をぬぐった。「お兄さまのお言葉どおりにしていれば、間違いはないはずよね」

 そして自分の膝頭に額を伏せて、しばらくの間静かにすすり泣いていた。

 僕はハンカチもティッシュも持っていなかったし、妹と同じようなつもりで王女の頭や肩に触れたりするわけにもいかなかった。たまたまそこにアディが起きてきたら、問答無用で背中を刺されたって文句は言えない。

「きっとご無事です。殿下ヤン・ムリアを信じましょう」と言うことくらいしか、僕にはできなかった。

 やがて王女は顔を上げ、巻衣の裾をつまみ上げて涙を拭った。

「ミナミはどうしてわたしたちと一緒に来てくれたの? 異人フランキたちの船でお国へ帰ることもできたんじゃないかしら」

 国王が僕に教えてくれた事情を、王女は何も知らないのだ。そのほうがいいと王は判断したのだろう。

「殿下が教えて下さったのです。ただ海を越えるのではなく、正しい方法ウパヤによるのでなければ、僕のほんとうの祖国に帰ることはできないのだと」

 王女はちょっと眉を寄せて何か考えながら、真っ直ぐに僕の目を見た。それで僕はまた少しどぎまぎしてしまった。

「だから……、だからそのために、僕はまず自分が正しいと思うことをしなければならないんです」

「それはどんなこと?」

「アディと、あなたと一緒に、三人で内陸ダラムへ行くことです」

「……どうして?」

「王女、あなたがおっしゃってくださったんじゃありませんか、内陸ダラムに行こうって。僕はあのとき、一緒に行くべきだったんです」

「だけど……」

 そのまましばらく、王女は赤い目でじっと僕の顔を見ていた。

 なだらかな東の稜線から朝日が差し、僕はまぶしさに目を細めた。だいだい色の光線が草葺くさぶきの家並みに強い陰影を与えた。

 王女は立ち上がり、巻衣の裾を直して僕の前にしゃがむと、小さな両手でそっと僕の右手を包むように握った。剣術のせいだろう、高貴な身分の女性に似合わず豆だらけの硬い手だった。

「ミナミ」と言って、王女は白い茉莉花ムラティが咲くみたいに微笑んだ。「どうもありがとう」



 夜明けのあとすぐ、アディの両親に名残りを惜しまれつつ僕らは東へ出発した。チュマラの茂る尾根を一つ越えると、澄んだ水の流れる川が目の前に横たわっていた。アディによると、王都と港市を結ぶあの川の上流だということだったが、早瀬にさえ気をつければ歩いて渡れる深さのようだった。

「姫様、この川を渡ると内陸ダラムですよ」とアディが言った。

 アディがどうしてもと言うので何故か僕を真ん中にして、三人でしっかり手をつなぎ、歩いて川を渡った。

 低い赤土の崖をよじ登り、濡れた巻衣を泥だらけにして、僕らはようやく内陸ダラムの地に足を踏み入れた。

 内陸ダラムというからには高山とか密林とかが広がっているのだろうと思っていたのだが、松の疎林そりんが緩やかな起伏を繰り返しながら広がり、明らかに人の足で固められた一本道が東に向って続いていた。ここからはアディもあまり土地勘が無いのだが、道のとおりに行けば集落に出るはずだという。

 大きな四角い岩の下にある泉で小休止したとき、王女が「ごめん。ちょっとここで待っててね」と言って、少しの間、僕らから見えない物陰に消えた。

 その間に、僕はアディに昨夜何か夢を見たかと聞いてみた。アディはぎょっとしたような顔をした。

「俺、何か寝言を言ったか?」

「王女の夢を見たんだろ」

 かまをかけてみると、アディはたちまち真っ赤になって、それから青くなった。

「黙っててくれ。頼む。いくら夢でも、俺は……俺は、神聖な姫様に、あんな不敬なことを……」

 どんな夢だか何となく察しがついて、僕は思わず笑ってしまった。

「何だよ、畜生。何がおかしい。姫様に何か言ってみろ。俺は自決するからな」

 やはりアディがいちばん幸せなのだと思って僕は嬉しくもあり、少し寂しくもあった。

 戻って来た王女は、アディのうろたえぶりに不思議そうな顔をしていたが、彼はろくに王女の顔を見もせずに「姫様、さあ行きましょう! 道は長いですよ!」と大声を張り上げて、足早に歩き始めた。

 森が終わり、灰色と黄色の砂と岩ばかりが広がる荒野に僕らが出たのは、太陽が真上からまともに照りつけ始めるころだった。

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