第19章 太陽に照りつけられた灰色の荒野が遠くまで広がって

  1


 森が終わって視界が開けた。

 真昼の青い空と、真上から太陽に照りつけられた灰色の荒野が遠くまで広がっている。森林限界を超えるほどの高地でも寒冷地でもないのに、砂と岩ばかりで緑はほとんど無い。ところどころに枯れた灌木かんぼくや石の塚のようなものがあるだけだった。

 そのわけは、あちこちで噴き出している蒸気や湯気と、風に運ばれて来る温泉の匂いですぐに分かった。

 きれぎれの、白っぽい、踏み跡のような道が、そんな風景の中を続いていく。硫黄が黄色く結晶している噴気孔や、白い泥にぼこぼこと泡が浮かんでくる池などのそばを通るたびに、顔に押し寄せてくる熱気を感じ、き物越しでも地面の熱が分かる。よほど足の皮が厚いのか、アディは裸足で先頭に立ってどんどん歩いて行く。僕と王女は黙ってついて行ったが、内心では有毒ガスでも噴き出して来るんじゃないかと気が気じゃなかった。

 あちこちにある石の山のようなものは、自然物ではないらしい。乱雑な石の堆積だが、そばを通った時に見ると、一個一個の石は明らかに人の手で煉瓦の形に切り出されたもので、刻まれた浮き彫りの一部らしいものも見える。神殿のような古代の建造物が崩壊した跡にちがいなかった。

 風が強い。丸めてちぎったような雲が青空を流れ、その影が灰色の大地を駆けて行く。

 少しずつ日が陰りはじめるが、地上の風景は一向に変わらない。雲量も増え、徐々に肌寒く感じられるようになったころ、ぽん、と何かが弾けるような音がして、僕の前を歩いていた王女が「あっ」と声を上げた。

 僕の目の前で、王女は突然噴き上がった白い湯気に包まれた。飛び退くような格好でよろけた王女は横に倒れ、背中を丸めてうずくまった。

「……っ、熱い」

「姫様!」

 アディが跳んで戻ってくる。僕も湯気の柱を避けながら駆けつけた。

 助け起こしたアディの腕を、王女はぎゅっと掴んでいた。倒れた時に擦りむいたらしいひじには血がにじんでいるが、それはかすり傷だった。

「……アディ、痛い。足……」

 青ざめた王女の顔に、たちまち玉のような汗が浮かんだ。

「お許しください」と言ってアディは王女の巻衣サルンすそをめくった。

 右足のふくらはぎから下が薄赤くなっていて、火傷やけどだと分かった。僕が泉の水を入れた竹筒の栓を抜いてアディに手渡すと、彼がその水を王女の足に振りかけ、革草履かわぞうりのひもを解いて脱がせた。王女は小さく悲鳴を上げて、アディの肩に額を押し付けた。

「姫様、大丈夫です。痛むでしょうが大したことはありません。すぐに治りますよ」

 間欠泉のように熱水が噴き上げてきたのか、それとも表土が崩れて熱い地下水からの蒸気に触れたのか、原因は分からないけれど、この旅の危険さを僕たちは改めて思い知らされ、そして最も守られるべき王女が最初に傷つけられたことを、僕もアディも悔やんだ。

 僕とアディはそれぞれ自分の巻衣を一枚荷物から出して裂き、二枚重ねにして自分の足を包んだ。気休め程度でも無いよりはましだろう。

 空は次第に雲に塞がれ始め、雨の心配も出てきた。王女はしばらくは歩けないだろう。

 やむを得ず、王女とアディの荷物は僕が持ち、アディが王女を背中に負ぶっていくことにした。

 アディはわざわざ縞の上着バジュ更紗バティック頭布カインクパラで正装してから王女を背負って歩き出した。王女は少し落ち着いたようだったが、アディの方がひどく緊張し恐縮していた。

 僕は三人分の荷物を持って、彼らの後について灰色の荒野を歩いていく。

 こんな光景を、いつか見たことがある。

 子どもの頃に見ていたテレビドラマの「西遊記」だ。王女が三蔵法師でアディが悟空なら、僕はあの得体の知れない沙悟浄だろうか。

 沙悟浄は人間の頭蓋骨を九個ネックレスにして首にかけているが、あれは全て、彼自身が食い殺した前世の三蔵法師の頭なのだという。僕は小さな袋を首にかけている。その中身は指輪の革袋とチェスの駒とお香で、どれも王女の前世に関わるものではないけれど。

 この世に生まれ変わりというものがあるとすれば、と僕は思った。この時代の世界のどこかに、僕自身の前世が生きているのだろうか。あるいは、僕の時代にも王女の生まれ変わりがいるのだろうか。

 そんなことをとりとめなく思いながら、僕は歩き続ける。アディの背中にしがみついた王女の後ろ姿は、ただの非力な少女だった。

 いつだったか、あんなふうに茉莉を負ぶって歩いたことがあった。ずっと前に。いや、遠い未来に。


   2


 王女の足には小さな火ぶくれがいくつか出来ていて、痛みはかなり強いようだったが、とりあえずそれより悪化しそうではなかった。

 いよいよ夕暮れが近づき、雨の気配も漂い始め、気が焦り始めたころに、僕らは雨露をしのげる場所を見つけた。

 それまでにもいくつか見かけていた石造りの古代遺跡だが、そこだけは崩れずに原形を保っていたのだ。

 何段にもなった基壇の上に立方体の建物が乗り、頂部は少し崩れているが、いくつもの仏塔ストゥーパが折り重なったような複雑な形をしている。そして全体に、花や幾何学模様など、王都コタラジャの家々と同じようなモチーフの浮き彫りが刻まれていた。古典期に築かれた神殿チャンディだろう。ジャワ島やバリ島で同じようなものを見たことがある。

 窓は無く、扉の無い入り口が一つあるだけだった。基壇の階段に王女を降ろし、アディと僕で入ってみた。

 ちょうど雲の切れ間から差してきた西日のおかげで、中は真っ暗ではなかった。建物全体の大きさからは考えられないほど狭い、八畳ほどの石室の中央には、人の背丈の二倍はある巨大な石像があった。

「アイヌウェル様だ」とつぶやいて、アディは石像に手を合わせて軽く一礼した。

「島の神様かい?」

「俺の村にも古い像があるんだが、名前くらいしか知らない。内陸ダラムの神だろうな」

 誰が手向けたのか、干からびた花が像の足元に置かれていた。上の方は暗くてよく見えなかったが、首飾りや腕輪や足首飾りをつけた、豊満というより肥満に近い裸形らぎょうの女神像で、左右合わせて六本の腕に果物や稲穂や水瓶らしいものを持っていた。

「悪いけど、一晩泊めてもらいますよ」とアディは神像に話しかけた。

 真っ暗になってしまわないうちに、僕らは石室の入り口近くに座って干飯や干魚の食事を取った。王女の火傷を冷やすために水を使ってしまったから、残った水を三人で分けるとわずかしかなかった。

 雨が降り始めた。

 石室のいちばん奥、神像の背後の少し広いところに、あるだけの布を敷いて王女を休ませ、僕とアディは像の横で壁にもたれた。

 やがて石室は、純粋な暗闇と雨音に満たされた。

 僕は気持ちがたかぶって眠れなかった。恐怖があり、悔いがあった。痛みをこらえている王女のことを思った。

 雨の降る音に隠されて寝息も聞こえないが、もう二人とも眠ったのだろうと思ったころ、王女の声が石室に響いた。

「アディ、ミナミ、そこにいる?」

「はい」

「姫様、俺はここです」

「よかった。あなたたちがいるなら」と王女は言った。「わたし何も怖くないわ」

 それからは静かな雨だけが、皆が眠りにつくまで続いた。



 夜明けとともに神殿を後にする前に、王女は髪に飾っていた花を神像に捧げ、ひざまずいて祈った。

 王女の足は、水ぶくれになったところが幾つか破れてまだ痛むようだった。アディは今日も自分が負ぶって行くつもりで、普段は着ない上着を朝から着ていたけれど、王女は自分で歩くと心に決めていて、無理をしてはいけませんと言い張るアディを「命令よ」の一言で封じてしまった。

 しかたなくアディは、布を細く裂いて包帯を作り、王女の右足に巻いた。

 かなり落としたペースで、僕らは東に向かって歩きはじめた。昨日と変わらない荒れ野が果てしなく続いているように見えたのだが、それは唐突に終わった。

 ある線を境に、折り目でもつけたみたいに地面は下り坂になり、所々に草が茂った砂と石の斜面を数キロ下った先に、湿気で霞んだ森が広がっているのが見えた。

 火口、というよりカルデラだろうか。直径何キロかの、すり鉢状のクレーターのような地形の底が森になっている。そしてその森のあちこちに、円形の湖が点在していた。

「姫様、とうとう着きましたよ!」とアディが興奮した声で言った。「あれがダラムです。聞いてたとおりですよ」

 しばらくそこに立ち止まって、別世界のようなダラムを僕は見下ろした。そこにいくつかの集落があるということだったが、目を凝らしても人間の営みのしるしは見いだせなかった。

 ただ、時折り通る人が踏み固めたらしい微かな道だけは続き、つづら折りになってクレーターの底へ向かっている。

 僕らは崩れやすい斜面を一歩一歩慎重に踏みしめて降りて行った。王女は時折痛みに眉をひそめていたが、一言もそれを訴えることはなかった。

 緑に覆われたクレーターの底が近づいてくるにつれ、この森の木々の大きさが普通じゃないことが分かってきた。榕樹のような気根を持つ木が多かったが、どの一本をとっても他の国ならそれだけで観光名所になりそうな、幹周りも高さも桁外れの大樹ばかりだった。そのおかげか下生えはあまり育たないようで、踏み込んでみても足元は清々しく、天から降る木漏れ日はパイプオルガンの音色を思わせ、「ジャングル」のイメージとはほど遠い。むしろ、巨大な寺院の中にいるみたいだった。

 そしてあの香り。僕を茉莉の夢に誘い、王女に兄王の夢を見せる、白檀に似たあのお香の匂いが、森の至るところに常に漂っていた。原料となる木がこの森に茂っているに違いなかった。

 あの香りに包まれ、黙々と足を進める二人の後ろ姿を見ながら巨樹の森を歩いていると、僕は夢の中にいるような錯覚を起こしそうだった。

 今この木の幹の陰から何か思いがけない非現実的なものが現れたとしても、夢の中と同じように、驚きもせずに僕は受け入れてしまうかもしれない、と僕は思った。

 それはまるで、たとえばアンリ・ルソーの絵の中のような光景だ。

 褐色の肌の、たくましい少年と美少女。石炭紀の古代樹を思わせる、蔓草の巻きついた巨木。斜めに差し込んで来て無数の平行線を描く午前の光。そして、木の幹の向こうからぐるりと回り込むように現れる、一頭のハリマウ

 虎?

「姫様、下がって!」と叫び、アディが前に出て短剣クリスを抜いた。

 僕らの道に、巨大な獣が立ちふさがっている。

 猫の体型、大きな手足、危険を示すかのような黄色と黒のしま模様。虎だ。間違いなく、それは虎そのものだった。

 現実なのか、これは。

「おいアディ」と僕は小声で言った。「ダラムに虎はいないんじゃなかったのか」

「知るかよ。あの野良猫の野郎に言ってくれ」

 どうにでもなれ。僕も王女の前に出て、見よう見まねで短剣を抜いた。

 虎は、猫族特有のひっそりとした歩みを僕らの前で止め、大きな顔の割に小さな青い目で僕らのほうをじっと見ていた。

 僕の肩を、王女が後ろからぐいっと引いた。彼女のもう片方の手には、すでにさやから抜かれた短剣があった。

「ミナミ、あなたは後ろに下がってなさい」

 虎はなぜか、王女の声を聞くと耳をぴくっと動かした。そして僕らの方へ足を踏み出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る