第20章 虎は小さな丸い目で王女を凝視し、鼻をひくひくと動かしながら
1
虎は小さな丸い目で王女を凝視し、鼻をひくひくと動かしながら歩いてくる。
アディと王女は、僕に荷物を預けて
三人分の荷物を抱えた僕は、形だけ短剣を構え、王女の後ろにひかえていた。
虎は真っすぐに王女に向かってくる。
これはまずいんじゃないか、と僕は思った。この虎が人喰い虎かどうかは分からないけど、一度人間の女性を襲ったことのある猛獣は女性の声や匂いに執着すると、どこかで聞いたことがあったからだ。
今のところ虎は特に興奮しておらず、敵意もなさそうだ。下手に刺激するよりはと考え、三人とも抜き身の短剣を手にしたままで動けずにいた。
虎は王女の前で足を止め、
何秒経っただろうか、息を止めていることに耐えられなくなった僕が思わず深呼吸をすると、虎は僕に向かって「わう」と低く吠えた。僕は後ずさりしようとして足がもつれ、尻餅をついた。
のっそりと僕に近づいてくる虎の脇腹に、短剣を両手で短く構えた王女が狙いを定めるのが見えた。
「王女、待って」
胴体への一撃でこの大きな動物を倒せるとは思えない。傷を負った虎は激怒して三人とも噛み殺すかもしれない。
でもなぜか虎は、倒れた僕ではなく、僕が落とした王女の
僕は立ち上がり、王女の腕を引いた。
「いったん下がりましょう。命には代えられません」
三つの荷物を残したままそっと虎から離れ、僕らはアディの
僕はふと、子どものころに飼っていたニャン助という虎猫を思い出した。茉莉にばかり懐いて、茉莉のベッドにもぐりこんだり、茉莉の服の上で寝たりしていた。最後は腎臓病で死んでしまって、あの時も茉莉は大泣きしていたけれど――。
袋の口が開き、王女の帯や巻衣や金の髪飾りなどがこぼれ出た。虎は
「おいこら、てめえ、姫様の荷物を荒らすな。この
アディは怒鳴り、短剣を振り上げて虎に迫った。
「アディ、馬鹿、やめとけ」
虎は一瞬びくっと体を縮めたかと思うと、その反動で弾けるかのようにジャンプして、アディを押し倒した。
「やめて! アディ!」
王女の悲鳴をよそに、虎は「ぐわうう」などと
「だめ! お兄さん!」
子どもの声だ。見上げると、巨大な
「その子、大丈夫。人、食べないよ!」たどたとしいマレー語で子どもは叫んだ。「服だけ。服、それ、脱いで!」
しかしアディが自分で脱ぐまでもなく、上着は虎の牙に引きむしられて前がはだけた。すかさず虎はアディの腹にかぶりつき、左右に大きく首を振って、細長いものをずるずると引っ張り出した。アディの身体は投げ出され、王女の足元に転がった。
「アディ!」
王女は青くなってアディにすがりこうとしたが、彼は「いててて」と顔をしかめて体を起こした。傷もなく、血も出ていなかった。
虎が口にくわえて振り回して遊んでいるのは、きらびやかな
僕は短剣の柄を強く握った。僕が王女からこの剣を与えられたのは、僕がファジャルを救った「勇者」だからだ。少なくとも王女はそう思っている。
これは妹を守るための剣だと王女は言った。
僕は王女のもうひとりの兄だと王は言った。
だったら今ここで、王女のためにこそ勇気をふるうべきではないか。
やってみるしかない。
僕は剣を鞘に収め、足もとの手ごろな石を拾うと、だっと駆け出し、王女の更紗の巻衣を拾って、虎の前でひらひらと振りながら日本語で言った。
「ほら、こっちだ、ニャン助」
「がう」
王女とアディはあっけにとられている。虎は舞衣装をくわえたままで僕のほうに向かってくる。ゆっくりだった歩調がだんだん早くなる。僕は走り始める。
「がうおお」
「おじさん!」と木の上の子どもが叫んだ。「投げる! それ、服、投げる!」
言われなくてもそのつもりだ。僕は巻衣に石を包んでぐるぐる振り回し、思いっきり遠くへ投げた。
「ほら、行け! ニャン助!」
虎は全力疾走して大きく跳躍し、金襴織をひらひらとたなびかせながら、巻衣が落ちた地点に正確に着地した。そして大きな顎で巻衣と舞衣装をいっしょにくわえて引きずりながら、長い尾を満足げに振り、木々の間に姿を消した。
王女が駆けて来て、その場に座り込んでしまった僕の片手を握って引っ張り起こした。
「ミナミ、やっぱりあなたは勇敢で知恵のある人だわ」
「いえ……。王女のおっしゃった通り、あれは大きな猫でした」
木の上にいた子どもが、気根を伝ってするすると降りてきた。
「昔ね、村の女の子、虎の赤ちゃん、拾った。それから育てた。それ、あの子。だから、女の子の匂い好きね。懐かしいの」
十歳ぐらいの、美しい顔の子どもだった。王女はもちろんアディよりもずっと濃いチョコレート色の肌で、ウェーブのかかった髪を頭上で結んでハイビスカスの花を飾っていた。ほっそりした腰に無地の巻衣をつけただけで、やはり上半身は裸だったので、一瞬目のやり場に困ったけど、どうやらあえて隠す必要もないようだった。
「ありがとう。あなたは、ダラムの子ね?」と王女がたずねた。
「そう。お姉さん、
「わたしと、あっちのお兄さんは
「じゃあ、みんな
「大祭司カイヌウェラン様がどこにいらっしゃるか、もし知っていたら教えてくれるかい?」と僕はたずねた。「僕たちは大祭司にお会いしなければならないんだ」
「おじさん、それ、わたしの村。ヌグリグデ。ダラムいちばん大きいの村」と子どもは言った。「大丈夫。近いよ。わたしのお父さん、族長。あなたたち、わたしのお客さん。一緒に行く」
僕らは荷物を集め、キジャンと名乗る子どもの先導で、ヌグリグデという村を目指した。
「アディ、本当はあなたを罰しなければならないのよ、あの舞衣装のことで」
王女は歩きながらそう言った。まだ足の痛みが続いているのが声で分かった。
「せっかくいただいた御衣装を、みすみす奪われてしまいました……」
「それはいいの、あなたさえ無事なら。あなたの無事を祈るためにあげたんだから。でもあれは、あなたが自分で身につけるためにあげたんじゃないわ。知ってるでしょ? あれは王族の女性だけが身につけるものよ」
「災いから守ってくださると……」
「それは心得違いよ。日頃の忠節に免じて罰しはしないけれど、あなたには今後、わたしが身につけたものは決して
アディは赤い顔で頭を下げ、黙って歩き続けた。行けども行けども、森の中にはずっとあの香りが立ちこめていた。
2
ヌグリグデは、村というより家、一軒の巨大な――というよりむしろ長大な――家だった。
木と竹で作られた、高床式の簡素な建物なのだけど、水平方向におそろしく細長くて、端から端まで軽く百メートル以上はある。中は小家族ごとの部屋に仕切られているが、全体でひとつの大家族でもあるのだという。
夕暮れの近づく巨木の森に横たわる長い家の影を前に、僕はまた夢を見ている気分になった。白檀に似たあの匂いはますます強く、湿り気を帯びて全てに染みついている。
キジャンの父親である族長は、家の中央の部屋に住む半白髪の男で、木や貝殻のビーズを幾何学模様にびっしりと縫い付けた袖無しの上着と、
彼はほとんどマレー語を話せなかったけど、王女は島の言葉と
僕らは疲れきっていたし、明日も何があるか分からない。ランプも火もない無いこんな部屋だし、もう眠るより他にできることは無かった。
ぼんやりと横になっていた王女がまず最初に眠りに落ちた。ダラムの夜は肌寒かった。アディは
僕は別の隅で横になっていたが、疲労のせいか、神経の高ぶりのせいか、いつまでも眠れない。自分の鼻先も見えないほど真っ暗になった部屋で、アディと王女の寝息を聞きながら、ただ目を閉じていた。
そうしているうちに、いつしか寝息の調子が少し変わっていることに気がついた。さっきよりも近くで聞こえる。それに、一人分しか聞こえない。
おかしい。
空気の匂いも違う。お香の匂いしかしない。熟しすぎた果物のような熱帯の甘い香りがない。アディや王女の身のまわりに漂う、まだ子どもっぽさを残した人肌の匂いもしない。
僕は目を開けた。
体を起こして目を凝らすと、人工的な緑色の光が、部屋を薄ぼんやりと照らしているのが見えた。
充電中のスマートフォンだった。
ニトリで買った合板のワードローブ。壁のハンガーにかかったスーツとスカート。机にはノートパソコンと、子供用の学習ノート。部屋の真ん中には布団が敷かれ、黒い髪が見えた。枕元には十数年前の少女コミックと、資格試験のテキストが伏せてある。
寝顔を見ようと、ゆらりと立ち上がる。僕の体には重さがない。
掛け布団の端から、顔の半分、鼻から上が見えていた。布団を少しずらそうとしたけど、僕の手は布団に触れる手応えもなく、ただ虚しく宙を探るだけだ。
茉莉は眠ってはいなかった。意識は目覚めていて、二つの瞳は僕の顔をじっと見ていた。でも体はまだ眠り続けているから、首や手を動かすことも、言葉を発することもできないのだ。
彼女の目にははっきりと表情があった。驚きと悲しみ。懇願するような、助けを求めるような、去っていく人を呼び止めようとするような。
目を見て優しい言葉でもかけてやりたかったのに、僕は自分の動きをうまくコントロールできない。自分の意志に反して不安定に揺れ動き、ゆがみ、
茉莉の頭が少し動いた。布団の
僕は天井近くまで浮かび上がって、真上から茉莉の布団を見下ろしていた。昔この部屋で、こんなふうに半覚醒状態でうなされているあの子を起こしてやったことが何度もあった。彼女の名を呼び、肩を揺さぶって目覚めさせたことが。
そんなとき茉莉はたいてい怖い夢を見ていて、目を覚ますなり僕にしがみついてくることもあった。あの子にぎゅっと抱きつかれると、僕は自分が信頼されていることを嬉しく思うと同時に、柔らかいパジャマの布地の肌触りや、汗だくになったあの子の体温や、時には涙に濡れていた冷たい頬の感触や、シャンプーと髪の脂の混じった甘い香りに、心も身も深く乱されもした。茉莉を苦しめているのは自分なのではないかという根拠のない不安に駆られて、腕を振りほどいてしまったこともあった。
「お……」と茉莉が声を出した「に…ちゃ……」
茉莉の顔をよく見ようとすればするほど、視界はぼやけ、ゆがみ始める。
「なんで……死んじゃったの……?」
僕の存在はさらに揺らぎ、ほぐれ、崩れてゆく。これは夢だ。アパートの部屋で布団に横になっている茉莉の方が現実で、この部屋にいるはずのない僕の方が夢なのだ。
崩れ落ちた僕の両肩を揺さぶり、茉莉は「ミナミ、ミナミ」と僕の名前を呼んだ。「ミナミ、起きて」
いや、違う。これは茉莉じゃない。
目を開けても部屋は真っ暗で、ほとんど何も見えなかったけど、目の前の影がムラティ王女であることは、体温と香りで分かった。
王女はもう一度、両手で僕の肩を揺すった。
「ミナミ、大丈夫?」
「夢を見ていただけです、王女」と僕は言った。「御心配には及びません」
「泣いているの?」
「ただの夢です。本当に何でもありません」
「そう。よかった」
僕の肩から手を放した王女が元の場所に戻っていく、竹の床のきしみが聞こえた。
もう行ってしまった、という切ない淋しさとともに、王女が抱きしめてくれることを意識の隅で期待していた自分に気づき、僕は二人に背を向け、朝まで固く目をつぶった。
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