第29章 ジャスミンのノート(その3)
飛行機は、深夜でもきらきらした都会の上を、まわりながら、少しずつ下がって、チャンギ国際空港に、近づいていく。
ちょっと、緊張する。
シンガポールは2回目だけど、今度は由美子さんがいない。
わたしひとりで、ここからまた、2つも飛行機を、乗りかえなきゃいけない。
目的地の島に、ちゃんと、着けるのか。
約束した人に、ちゃんと、会えるのか。
しなければならないことを、できるのか。
もし、できても、うまくいくのか。
ふわふわと、たよりない。さっき見た、雲の平原の上を、歩くみたいだ。
でも、夢を信じるしか、ない。
お兄ちゃんを、
お兄ちゃんの手紙を、
信じるしかない。
◆ ◆ ◆ ◆
リョウ君と植物園に行った日の、夜、不思議な夢を、見た。
夢の中。
真っ暗なところで、気がついた。
硬くて、冷たい、石の台みたいなところで、わたしは、横になっていた。
じめじめして、お香みたいなにおいがする。
肩が、すーすーする。触ってみたら、素肌だった。パジャマじゃなくて、コットンっぽい布を一枚、バスタオルみたく、胸から下に巻いてるだけだ。
起き上がったら、薄い、光の線が見えた。
線は、たてにまっすぐで、目が慣れると、ドアのすきまから来る、外の光だって分かった。
手さぐりで、石の台を降りる。裸足だったから、床も石なのが、分かった。
片手で押したら、ドアはすぐ開いた。
汚い部屋だった。
壁も、ゆかも、竹でできてて、全部、ススで真っ黒。カゴとか、ツボとか、アンティークみたいなものが、いっぱいある。
部屋のまんなかには、信州の民宿みたいにイロリがあって、外国人のおばあさんが、魚を焼いていた。
「お嬢ちゃん、もう目が覚めたのかい?」
と、おばあさんが言った。
知らない外国語なのに、意味がわかる。
おばあさんは、インディアンジュエリーみたいなシルバーのネックレスを、いっぱいつけてて、それがタンクトップみたいに見えるくらいだった。
「おや。あんた、お嬢ちゃんじゃないね。」
おばあさんは、目を、丸くして、それから、細めた。
「あの子なら、そんなにおどおどしない。あんた、ミナミの妹だろう?名前は、マリと言ったかね。」
◆ ◆ ◆ ◆
おばあさんの名前は、「カイヌウェラン」と、言った。お兄ちゃんのことを、知ってるという。
「兄はどこですか? 会わせてください。」
「そりゃ無理さね。この小屋の外へ出たところで、泉も、村も無ければ、ミナミもいないよ。これは夢だからね、あんたとあたしの。」
「夢……。」
「心配はいらん。あんたち兄妹は、世界の裏側をめぐるひもで、しっかりと、つながっておるから。あんたの兄さんは、必ずあんたのところに帰るよ。ただそのためには、あんたも骨折りをせんきゃならん。」
「どうすればいいの? わたし、お兄ちゃんが帰ってくるなら、なんでもします。」
「難しいこっちゃない」とカイヌウェランは言った。「夢を信じるんだよ。いいかい、マリ、夢はまことだ。魂が見る、まことだ。あんたはよく兄さんの夢を見るだろう?」
わたしは、うなずいた。
「いいかね?マリ。夢はまことだ。夢であんたの兄さんが言うことを、ひとつも聞きもらすんじゃないよ。」
◆ ◆ ◆ ◆
わたしは、夢からさめて、夢を見た。
夢からさめて、現実を見たのかもしれない。
もしかして、現実からさめて、夢を見たのかな。
ぜんぶ、同じなのかも。
なんかよく、分かんなくなる。
◆ ◆ ◆ ◆
兄が飛行機の事故にあって、死んだという、夢。
お葬式の、夢。
兄の夢をなんども見た、夢。
サイの川原みたいな荒れ野を、どこまでも、歩いていくみたいな、夢。
そんな夢から、わたしは、肩をゆすられて、覚めた。
「大丈夫だよ、まり。怖くないよ。」
兄の手が、わたしのおでこに、さわった。体温と、手のひらの触感が、伝わってくる。
わたしは、お兄ちゃんのシャツのそでを、ぎゅっとつかまえた。
「お兄ちゃん……?」
「夢を見てたんだね?」
「ずっと……。すごく長い夢。砂漠みたいなとこを歩いてて……お兄ちゃんは……お兄ちゃんが……。」
兄は、わたしの頭を、やさしくなでてくれた。
「なにも心配することはないよ。夢っていうのは、悪いものじゃない。」
わたしは、まだ寝ぼけた頭で、ぼんやりと思っていた。
そっか、ぜんぶ、夢だったんだな。
お兄ちゃんは、死んでなんかいなかった。
飛行機事故も、シンガポールに行ったのも、みんな夢だったんだ――
お兄ちゃんはわたしの顔を、じっと、見てくる。
「なんで、わたしの顔、見てるの?」
「まりが、ぼくの顔を見るから。」
「だって、夢を……何度も見たんだもん。お兄ちゃん、帰ってきたと思ったのに、目が覚めたら夢だったの。そんな夢。お兄ちゃんは、外国に出張行って、飛行機で……。」
「僕はちゃんと、ここにいるよ。」
「うん……。」
――でも。
今日は、何月何日?
お兄ちゃんが出張に行ってから、何日目?
お兄ちゃんの、時計は?
どうしてわたしは、ニワトリのクッションを抱いてるの?
これは、リョウ君が、元気のないわたしのために、ゲームで取ってくれたものだ。
わたしは急に不安になって、ふとんから飛び起きて、お仏だんを、確かめた。
お兄ちゃんの位はい、こわれた時計、新しい時計。
全部、ある。
やっと、わたしは理解した。
事故は、あった。でもお兄ちゃんは、無事だった。そして、今、ここに――、
「……帰ってきたのね?」
わたしは、子どもにもどって、思いっきり、兄に抱きついた。
「やっぱり生きてたんじゃない!なんで、もっと、早く連絡くれなかったの?ひどいよ。わたし何か月も、ずっと…。」
「ごめん。すごく遠いところにいたんだ。」
兄の肩で、赤ちゃんみたく、「うわあーん」と、わたしは、泣いた。
「わたし、死んじゃったって……お兄ちゃん、死んじゃったって思って……。」
兄はわたしを腕で包んで、背中をさすってくれた。なつかしい、におい。わたしが大人になって、こういうこと、お兄ちゃんは嫌がるようになった。わたしは、あたたかい腕の中で泣きじゃくって、それから、いろいろ、しゃべった。
由美子さんとシンガポールへ行ったこと。
喜代子おばさんに言われて、お葬式をしたこと。
何度も何度も、お兄ちゃんの夢を見たこと。
「……夢じゃないよね? これは。」
「もちろん夢じゃないよ。これは現実だ。」と、兄は言った。「でも」
でも?
でも何?
どうして、「でも」なんて、言うの?
「まりはたぶん、このあとでもう一度目を覚ますことになると思う。その時、まりは、今のこのことを夢だったと思うかもしれない。」
「……なにそれ?」
じゃあ、夢じゃない、それ。
そんなの、覚めたら、ただの、夢じゃない。
いやだ。そんなの。
「分かんないよ……。これも夢なの?ねえ、違うよね?」
「夢じゃない。でも僕はまだ、100パーセント帰ってきたわけじゃないんだ。」
「何言ってるの。お兄ちゃん今ここにいるじゃない……。」
わたしは、兄の体に、強くしがみついて、肩に、顔をおしつけた。うそだ。こんなに、あたたかい。夢なんかじゃ、ない。
「まり、よく聞いて。僕は必ず帰る。約束するよ。そのために、今から大事なことを言うから、絶対忘れないで、目が覚めたらすぐに、そのことを確認してほしい。」
「やだ。このままずっと起きない。」
わがままを言う、わたしの、体を、兄は無理やりに離して、わたしの目を見て、言った。
「お願いだから、お兄ちゃんが今から言うことをよく聞くんだ、まりちゃん。いいかい?」
「……やだ……。」
「聞いて、まりちゃん。いい?うちの仏だんの中に、古い手紙があるはずなんだ。すごく、すごく古いものだ。それを読んで、そこに書いてあるとおりに、してほしい。仏だんに、きっとあるはずなんだ。子どものころに、見た記憶がある。いいね?まりちゃん。よく、探すんだよ。」
◆ ◆ ◆ ◆
不思議としか、言えない。
だけど、それはほんとに、あった。
起きてすぐ、お仏だんの、引き出しの奥を探したら、かびくさい、お経の本の下に、手紙は、ちゃんと、あった。
茶色くなった封筒には、大きな字で"JAPAN"、そして、
「山梨県○○郡○○村 南嘉十郎 様」
って、書いてあった。
会ったことないけど、知ってる。曽祖父の名前だ。
外国の、昔の切手が貼ってあったけど、どこの国か、分からない。でもハンコは、"SINGAPORE"って、読めた。
封筒は、開いていた。そして中には、便せんと、また別の封筒が入っていた。
手紙の字は、つづけ字じゃなくて、兄の字にそっくりだった。でも、言葉は昔の言葉だ。
「小生は貴家に並々ならぬ縁と御恩の有る者にして……」
古文は苦手なので、まん中は飛ばしたけど、手紙の最後に、目を引きつけられた。
「同封せし手紙を貴家の仏壇に納め、南姓を継ぐ御曾孫に御傳へ被召可く伏して御願ひ申上候」と書いてある、その横に、あんまり上手じゃないけど、お仏だんにあるのと同じ、後光が光ったアミダ様の絵が、かいてあったからだ。
わたしは、はっきりと、想いだした。
わたし、この手紙を、見たことある。
小さいころ、お父さんとお母さんが留守で、お兄ちゃんといっしょに留守番をしてたとき、お仏だんの中を調べてて、二人で、見つけたのだ。今見ると、ただ下手な絵だけど、その時は、すごく恐くて、夜中に思い出して、お兄ちゃんを起こしたのを、覚えてる。
もう一つの、封筒には、こう書いてあった。
「兄より」
ぼろぼろに、破れそうだから、ハサミで開けると、中から金色のものが、ころん、と出てきた。
エメラルドをはめこんだ、金の指輪だった。
昔のもので、石は今みたいにカットされていない。でもアンティークの、いいものみたい。
そしてもう一つ、シナモンスティックみたいなものも、出てきた。
お香だ。なつかしい、においがする。
あの、熱帯植物園で、におったみたいな。
中の手紙は、ふつうの日本語だった。
「茉莉へ ありがとう。この手紙をみつけてくれたんだね。不思議だろ? でも茉莉なら見つけてくれると信じてたよ。この手紙を書いたのは、君に頼みたいことがあるからなんだ。本当はいつでも僕が妹の君を助けてあげたいのに、申し訳ないけど、今は僕が君に助けを頼まなきゃならない―――」
◆ ◆ ◆ ◆
次の週に、わたしは休みをとって、手紙の指示の通りに、兄が卒業した、外国語大学の、高石教授に会いに行った。
教授は白髪の、ちょっと変わった、おじさんだったけど、声とか話し方は、優しかった。研究室の、壁いっぱいの、本棚には、外国語の本がならんでいて、刀とか、きれいな布とか、アジアの民芸品があっちこっちに、飾ってあった。
インドネシアの地図を染めた、テーブルクロスに、教授はコーヒーを置いてくれた。
「トラジャコーヒーですよ。トラジャはご存じでしょう?」
「すみません、わたし、あんまりくわしくなくて……。」
「いやいや。」
と教授は言った。なにが、いやいや、なのか、分からない。
「お兄さんは、とんだことになりましたね。」と、教授は残念そうに、言った。「大学院に残ってれば、今ごろ、ねえ。」
何て答えたらいいのか、分からなかった。教授も、困ってるみたいだった。なんとなく、子どもみたいな人だ。
「あなたのことは、お兄さんから、よく聞いてましたよ。妹には苦労させたくないので、って、いつも言っててね。」
「そうですか……。」
「メールに書いとられた件ですが。」と言って、教授はコーヒーをずるずると、吸った。「クンバンムラティ島という島は、今は存在しません。」
「今は――?」
「しかし、インドネシア、北ヌサ・トゥンガラ州に、マリムラティ島という島があります。このあたりです。」
と、教授はテーブルクロスの一点を、指さした。
「その島が、むかしクンバンムラティ島と呼ばれていたんですか?」
「そういう記述は、調べた限りでは、ないのですよ。しかしここに、20世紀初めまで、カンバンマラティ王国という国があったと、イギリスの記録にあります。表記は少し違うが、同じ名と言っていいでしょう。ムラユ語、すなわちいわゆるマレー語ですが、この言語では、あいまい母音のeは、しばしばaに通じます。」
と言って、教授はホワイトボードに字を、書きだした。
「すみません、わたし、語学は、苦手で……。」
「それは残念。でも妹さんも、大学進学をお考えなら――。」
「あの、わたし、もう短大卒業して、社会人なので。」
「いやいや。とにかく、このマリムラティ島が、あなたが言うクンバンムラティ島である可能性は高いですな。『クンバン』は『花』、『ムラティ』は『ジャスミン』という意味です。『マリムラティ』の由来は分かりませんが、中国語でジャスミンは『
「わたしの名前です、それ。」
「は?」
「
「そうですか。いやいや。」
と答えたけど、教授はあんまり、興味がなさそうだった。
「北ヌサ・トゥンガラ州立大学に友人がいますから、マリムラティ県庁の観光担当者に声をかけてもらいます。案内してくれるでしょう。まあいくらか謝礼はお渡ししてください。」
「ありがとうございます。」
「どうぞ飲んでくださいよ。」と言って、教授はまた、コーヒーをすすった。「いやいや、お兄さんの手がかりがあればいいですな。今のままでは、妹さんを残して彼も無念でしょう。」
◆ ◆ ◆ ◆
シンガポールで乗り換えて、2時間で、クンティラナック空港に、着いた。大きめの駅くらいの、ほこりっぽいターミナルに、スタバっぽいカフェがあったので、そこで4時間、時間をつぶして、お兄ちゃんの手紙を何回も、読み返した。
マリムラティ島行きの便は、バスに、つばさとプロペラをつけたみたいな、ちっちゃい飛行機だった。熱い地面から階段を上って、中に入ったら、シートは破れてるし、窓も汚い。ちゃんと飛ぶのか、ちょっと心配になった。
化粧の濃い、美人のCAさんが、ものすごい早口の英語(ぜんぜん、分からない)で安全説明をしながら通路を歩いてきて、わたしのシートベルトを、乱ぼうに、ぐいぐいひっぱってから、100点のかわいい笑顔で、「OK!」って言った。
プロペラが、回りはじめる。
ものすごい音。
お兄ちゃんが乗ったのも、こんなのだったんだろうか。
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