第30章 ファジャルたち姉妹とともに不安な夜を過ごした、あの広間だった

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 リニに案内されたのは、ファジャルたち姉妹とともに不安な夜を過ごした、あの広間だった。今日はそこに絨毯じゅうたんが敷かれ、金色の日傘の下にえられたロココ風の玉座に、三人の年嵩としかさの男たちに囲まれて、アングレック・シャー国王が座していた。

 玉座の隣のベッドのような台は、ピピメラ姫の席だろう。金色の大きなクッションが置かれている。しかしその他には花弁を浮かべた真鍮しんちゅうの水盤があるだけで、国王の婚約式にしては質素なしつらえだった。

 王の体が弱っているのは一目で分かった。美しい頬には衰弱の影があり、やや傾いた姿勢で玉座のひじ掛けにぐったりと体重を預けていた。

「お兄さま!」

 王女は王の足元に駆け寄り、ひざまずいて合掌した。

「ムラティか。帰ってきたのだね。お前は安全な場所にいるものと思っていたが」

「アディとミナミに助けられて、ここまで参りました」と答えてから、王女はためらいがちに尋ねた。「もしかして、お兄さまは、何もかもご存じで、わたしをお試しになったのではありませんか?」

「いや、お前に、委ねたのだよ。病んだわたくしがいつまてもこの玉座タハタに座っているわけにはいかない。ムラティ、こちらにおいで。お前の為すべきことをしなさい」

「はい、お兄さま」

 王女は玉座の傍らに立って、背筋を伸ばし、彼女を注視している三人の男たちを見た。

 一人は、僕もよく知っている。黒いベルベットの上着バジュ更紗バティック巻衣サルンで正装した、かつての港務長官シャーバンダルであり、現在の副王ラジャムダである、ファジャルの父、カシムだった。

 あとの二人は、僕の知らない人物だった。

 一人は、一五〇キロはありそうな巨体の中年男だった。黒のトルコ帽ソンコをかぶり、紫地の金襴織ソンケットの上着と巻衣に身を包んでいる。

 もう一人は長身の、白髪の西洋人だった。金モールのついた軍服を着て、ナポレオン帽ビコーンを小脇に抱えている。マコーミック氏とは知り合いらしく、目顔であいさつを交わしていた。

 王女は眼を閉じて大きく息を吸い、硬い、よく通る声で言った。

「わたくしが、王妹、ラトゥ・ムダ・プトリ・グデ・ムラティ王女です」

「ドゥルハカ国、クンボカルノ王子だ」と巨漢が名乗った。「ようやく会えましたな、王女。うわさ通り、なかなかお美しい。体つきはまだ幼いようだが……」

「キャプテン・ベイジル・ダニエルソンです」と白髪の軍人も名乗って、最敬礼した。

 王女は、二人には軽く黙礼だけを返し、港務長官に向き直った。

「カシム・ビン・アルイスカンダリー。今日わたしがここに来たのは、あなたに裁きを下すためです」

「裁き、とおっしゃいましたか」港務長官は僕に、そしてリニに肩を抱かれてうつむいているファジャルに目をやった。「副王の私とて無論臣下の身です。何らかのとががあったとすれば、罪に服することにやぶさかではありません。しかし王妹殿下、おそれながら、今日、ここは王家の慶事よろこびごとの場です。異国からの賓客もおいでです。お気を確かにお持ちいただきたい」

「いいえ。ここは裁きの場です。婚約式は行われません」

 王女の言葉に国王は口を挟まず、宙を見つめて耳を傾けていた。

 異議を唱えたのはクンボカルノ王子だった。

「待ちなさい、ムラティ王女よ。私はこの国のまつりごとに口を出す立場にないが、年端もゆかぬ姫君のあなたが、殿下を差し置いて取り仕切るというのは理解に苦しむ。ましてや式をやめるなど、正気とも思えない。異国のご客人に対しても非礼です」

「あなたの指図は受けません、王子」

「指図などしません。だがあなたを正しく導くことは私の務めだ。私はあなたの夫になるのだから」

「いいえ、いいえ。あなたがわたしの夫となることなどありません。わたくしは、この者に」と、王女は強張こわばった顔で、アディを指さした。「グスティ・アディスリヤに、すでに、心も、も捧げているからです」

 アディは顔を真っ赤にして、僕に向かって何度も小刻みにぶるぶると首を振った。そうだろう。「心も」は本心だろうけど、「身も」というのは婚約を破談にするための、王女の一世一代の嘘にちがいなかった。

下賤げせんの者と……。その幼さで、なんという女だ」

 侮辱されたと感じたらしく、クンボカルノ王子は、赤黒い顔でそう言ったきり口をつぐんだ。

 王女は、ひじ掛けに置かれた兄王の手を握って、震える声で言った。

「殿下に代わってわたくしが申し伝えます。カシム・ビン・イスカンダリー。そなたの副王就任は取り消されます。そなたは、宮中の侍女であった娘、ファジャル・ビンティ・アルイスカンダリーの地位を利用し、先代国王・王妃両殿下のお飲み物に毒を混ぜさせ、弑逆しいぎゃくし奉りました。よって大逆の罪により、港務長官の職を解いた上で、そなたを死罪とし、この場で直ちに刑を執行します。アディ!」

 アディは、ファジャルの手首を縛った絹布の先を、戸惑うマコーミック氏に無言で押し付け、短剣を抜き、大股で港務長官に歩み寄った。クンボカルノ王子とキャプテン・ダニエルソンはそそくさと二人から離れていった。

「我が娘がそのようなことを……?」港務長官は驚愕の眼差しを末娘に向けた。「いえ、たとえ王妹殿下のお言葉でも、信じられません。あの子は私に似ず、心のこまやかな優しい子です。仮に私が命じても、そのような恐ろしいことは決してできない」

「黙れ。姫様のお言葉に間違いはない」

 アディは港務長官の肩口に短剣の一突きを入れようとした。が、港務長官も素早く短剣を抜いて跳ねのけた。

「姫様、どうかお調べ直し下さい」港務長官は短剣を構えてあとずさりしながら訴えた。「ファジャルがそのようなことができる娘ではないことは、姫様もご存じのはずです。ミナミ君、君も知っているだろう? あれは愛情の深い女だ」

「あの女は貴様の人形だ」とアディが吐き捨てた。「貴様が命じれば人も殺す。男も惑わす」

 アディが首筋を狙って水平に振った剣を、長官は跳び退いて避けた。

「我が一族への侮辱は許さんぞ。ファジャル、本当のことを言いなさい。お前はそのようなことをしなかった。そうだな?」

「お父さま、申し訳ございません。お父さま、わたくしは……」

 紫色の絹布で手首を縛られたファジャルの二つの眼から、涙があふれて化粧を溶かした。

「……わたくしはもう、ミナミ様の前で嘘をつきたくありません。ミナミ様、姫様のおっしゃることは、本当です。薬を渡され、お飲み物に入れ、お出ししました。わたくしには分かっていました、全てはお父さまのご意志だと」

「嘘だ。私は命じていない。ファジャル、お前は正気を失ってアモックいるのだ。誰かが内陸ダラム呪術グナグナを用いて、娘を操って――」

 その時、鳥のようにほっそりした小さな影が風を切って、視野に飛び込んできた。

 影は僕の目の前で跳躍し、天井の梁に片手でつかまって港務長官の頭に蹴りを食らわせると、半回転しながら床に舞い降り、重心を崩した港務長官の背中に、獰猛どうもうな四足獣のように襲いかかり、後ろへ引き倒した。

 全てが一瞬だった。僕の目が追いついたときには、港務長官は仰向けに倒れ、その背後からリニが、両脚で彼の腰を、片腕で首を締めつけ、喉元に短剣の切先を当てていた。

「副王閣下」とリニは言った。「いえ、これがお目にかかる最後ですから、お父さまとお呼びさせてください。お父さま、卑しい身分の母から生まれたわたくしを、長くお側に置いて下さり、貴き血を受けた妹たちと共に過ごさせていただいたこと、心から感謝しております」

「やめ……お前……」

「わたくしは今まで、お父さまの命ずるままに、多くの命を奪って参りました。それが役割だと心得ておりました」

 リニは腕に力を込めた。港務長官は赤い顔になり、もう「うぐ」としか声が出なかった。

「しかしお父さま、妹に、それも末のファジャル様に、大逆の罪を負わせるようなことは、どうしても耐えられません。わたくしにお命じくだされば、お言葉のままにいかなる罪でも背負い、地獄ジャハンナムにでも、黄泉ナラカにでもご一緒いたしましたものを」

 意識が薄れ、動かぬ体で、それでも男は落とした短剣に手を伸ばそうと抗っていた。

「姫様、ご下命を!」

 リニが叫んだ。だが王女は青ざめた顔いっぱいに汗をかいて、すがるように兄王の腕を掴んだまま、何も言わなかった。

 しばしの時が流れ、言葉を発したのは国王だった。

「王命である。副王府武官リニ・ビンティ・アルイスカンダリー、フクムを執行せよ」


   2


 血しぶきが吹き上がったりはしなかった。

 リニはまるで父親を抱きしめるかのように、腕で頸動脈と気管を絞めて国王のめいを執行した。

 かつて港務長官カシム・ビン・アルイスカンダリーであった肉体は、今や九十九の魂が飛び去った単なる物体となって床に転がっていた。

 誰ひとり、声ひとつ上げなかった。

 王女は国王のかたわらに棒立ちのまま、ファジャルは床に倒れ伏したまま、身動きひとつしない。

 クンボカルノ王子が「この国はおしまいですな」とつぶやいて、巨体を揺すって広間を出ていった。

 アディはリニの隣にしゃがみ、「ねえさん……」と声をかけて彼女の肩に手を置いた。リニは振り向かず、亡骸に向かい、両掌りょうてのひらを天に向けて祈りを唱え始めた。

「……主はいとも偉大なりアッラーフ・アクバル主より他に主なる者なしライッラーハ・イッラッラー……」

 僕は、肩を震わせているファジャルのそばまで行った。でも言葉をかけることも、手を伸ばして肩や髪に触れることもできなかった。

 国王の声が聞こえた。

キャプテンカピタン、本日はまことに申し訳ないが、いったんお引取り願えまいか。貴国との条約プルジャンジアンについては後日、新たに摂政となる妹から改めて話をさせましょう」

 王の言葉がよく分からなかったキャプテンに、マコーミック氏が英語で説明して、「大佐、私の日本人の友人は、王女プリンセスの側近です」と付け加えた。「わが帝国にも、この島にも、双方に利益をもたらす道が、必ずあると思います」

「後で聞こう」

 キャプテンは出て行き、またリニの祈りの声だけが響いた。

「ムラティ、ファジャルに裁きを申し渡しなさい」

「……はい、お兄さま」

 王女はファジャルのそばに立って、静かに言った。

「ファジャル。あなたから、臣民としての地位を剥奪し、奴隷身分とします」

「王女」僕は声を上げた。「それでは、あまりにも――」

「かわいそうなファジャル」と王女はつぶやいた。「女奴隷ファジャル。あなたの身柄を、王室から、日本国人ミナミに下げ渡します。あとはあなたの主人の命に従いなさい」

 それだけ言うと、王女は玉座に戻り、王の膝に顔を埋めてすすり泣き始めた。

「ミナミ様」泣き疲れた声で言って、ファジャルは顔を上げた。「形は違えど、ようやくわたくしは、ミナミ様のものになることができましたね」

 僕は彼女を抱き起こし、手首のいましめをほどいた。

「ファジャルさん、あなたを自由の身にします。僕があなたの主人なら、その権利があるはずです」

「いいえ。わたくしを手放すならば、ワニたちの顎門あぎとに戻してください。それがわたくしの本来の運命だったのです」

 僕はやりきれなくて、腹が立って、僕の所有物になってしまった、熱帯の果実の匂いのする甘やかな体を抱きしめた。

 ファジャルは、僕の耳のそばでささやいた。

「……ミナミ様、わたくしを、あなたのお国へ連れて帰ってください。一緒に来いとお命じになってください……」

 熱い息が、そして冷たく濡れた唇が、僕の耳に触れた。彼女の左手の五本の指が、一本一本、僕の髪の毛の間に分け入ってくる。

 かきっ、と金属の音がした。

「ファジャル様、おやめください!」

「ミナミ、馬鹿、何やってる!」

 リニとアディの声を聞いて、僕はファジャルから体を離した。いつの間に奪ったのか、ファジャルの右手にはマコーミック氏の拳銃があった。僕に抱かれながら彼女は、撃鉄を上げ、引き金に指をかけていたのだ。

 銃口を玉座に向けるつもりなのか、僕に、あるいは彼女自身に向けるつもりなのか。分からなかったけど、僕は反射的に叫んでいだ。

「茉莉! あぶない!」

 アディとリニが走ってくる。僕は夢中で、拳銃を持ったファジャルの腕を捕えてねじ伏せようとした。


 僕とファジャルの間で、ぽん、と何かが弾けた。


 そして静かになった。

 胸がものすごく熱くて、息が苦しい。

 そんな場合ではないのは分かっていたけれど、ちょっと休まなければと思い、僕は床にあおむけになった。

 頭だけは冷たくて、ぼんやりとする。

 でも不安や恐怖もすべて泡のように消えていた。

 静寂を破ったのは、地の底から響くようなファジャルの声だった。

「あ、ああ、あああああああああ!」ファジャルは絶叫した。「ミナミ様、ミナミ様、ミナミ様! ああああああああ!」

 そんな大声を出さないで、と言おうとしたけど、声が出ない。息がひゅーひゅー漏れただけだった。

 いつの間にか、僕はみんなに囲まれていた。

 アディ、王女、頭をかきむしるマコーミック氏、魂を失ったかのようなファジャル、彼女を後ろから抱きかかえているリニ。誰もが、こちらを見ている。

 僕の手を握ってくれたのは、髪にジャスミンの花を飾った妹だった。

「ミナミ、うそ……。いやよ、こんなの……」

 妹は泣いていた。

 さっきはあんなに熱かったのに、今度は急に猛烈な寒さが襲ってきた。この島に来てから、一度も経験したことのなかった寒さだった。

 青い顔をしたマコーミック氏が英語で何か言っている。手紙がどうとか、条約がどうとか言っているようだったけど、もう僕には彼の低い声が聞き取れなかった。

 死ぬのは、いい。

 いずれそうなるのは決まっていた。

 でもせめてあと数ヶ月は、王女とアディと島の先行きを見届けたかった。

 僕は王女から賜った腰の短剣に、この先何十年か激動の時代を生きることになる彼女の人生が、できるかぎり平穏であることを念じた。

 王女が叫んでいる。

「アディ! お願い、なんとかして。ミナミを助けて。お兄さま、どうして何もしてくださらないの? お兄さまは全てをべる国王なのでしょう?」

 アディは布を持ってきて、なんとか止血を試みようとしているようだったが、体を動かされるとめまいと痛みが強くなるばかりだった。

「アディ、ありが…もう、いい……」

 何にでもコツがあるものだ。首を上に向ければ、まだかすかに声が出るようだ。

 もう王女の顔もアディの顔も見えないけど、二人が僕の手を片方ずつ握ってくれているのは分かった。

 王女の髪が、僕の頬を撫でた。温もりと香りとで、王女が僕の口元に耳を寄せて、最後の言葉を聞こうとしているのが分かった。

「ファ…ジャ……」と、僕は言った。これだけは、どうしても伝えておかなければならなかった。「殺さ……ない……苦しめないで……。お願い…王女……」

「分かったわ。ファジャルは殺させない。苦しませない。だから行かないで、ミナミ、お願いよ。ねえ、わたし、いやよ……」

「茉莉……ムラティ……。また、会えます…。百…年……」

 そして僕が最後に聞いたのは、聞く者の心を引き裂くような、ファジャルの嘆きの声だった。

 許してください、ファジャルさん。

 約束を何も果たせませんでした。

 そう言いたかったけど、もうその力は無かった。

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