第31章 ジャスミンのノート(その4)
朝9時ごろに、飛行機は、マリムラティ空港に着いた。
キャリーバッグをがらがらと引っぱりながら、小さいけど新しくてきれいな、空港ビルを出たら、油っぽい空気と、エンジンとクラクションの音が、わーっと押しよせてくる。
意外と、暑くないじゃん。
と、思ったのは、一瞬だけ。
すぐに、首すじにじわっと汗が、出てきた。
空港ビルの前の広場は、3輪タクシーとか、バイクとかワゴン車とかでいっぱいで、田舎なのに、びっくりするほど、にぎやかだ。
広場の向こう側には、タバコとか、車とか、携帯会社とかの広告の、ものすごく大きな看板が、立っている。
その足元には、トタン屋根の小さなお店が、ならんでる。ミネラルウォーターやスナック菓子を売ったり、麺類を出したりしてて、たくさんの人が外のテーブルで食事をしたり、ひまそうに座ったりしてる。
キャリーバッグを引いて、空港ビルの正面を歩いてたら、あっちこっちで、おじさんたちが、わたしにしゃべりかけてくる。「ホテル?」とか「タクシー?」とか「ニーハオ」とか。タクシーのキャッチらしい。
その中のひとりは、わたしの胸とか脚をガンガン、見てきた。
こっちはイスラム圏だから、女の人は、たいてい、長そでのブラウスを着て、髪にスカーフをかぶって顔だけ出してる。
わたしは、ポニーテールにストローハット、Tシャツとハーフパンツに素脚だから、もしかしたら、この国では、露出しすぎなのかもしれない。ちょっと不安になる。
◆ ◆ ◆ ◆
スマホをエアポートWI−FIにつないでFBにメッセージを送り、約束の人と会うことが、できた。
「ミナミ・マリさんですね。会いたかったですよ。疲れましたか?」
マリムラティ県伝統文化協会の、アイシャさん。50代くらいの女性で、日本語が上手だ。
こっちの人の中でも、肌の色が濃いから、あざやかな赤の、スカーフがよく似合う。小がらで、顔も体も丸っこいから、マトリョーシカみたいで、かわいい。
とか、想ってたら、逆にアイシャさんに、言われた。
「マリさんはとても、きれいですねえ。お人形みたい。」
たぶん、喜代子おばさんの家にあるような、陶器の日本人形をイメージしてるんだろう、純和風の。
「マリさんこれから、ヌグリグデの村に、案内しますね。」アイシャさんは、すごく感がい深そうに、わたしの手をとって、言った。「わたしは、マリさんに会うの、とても楽しみにしていましたよ。ずっとずっと前から。」
「ずっとずっと前……?」
「後で話しましょうね。乗ってください。これは、アイシャの愛車ですよ。」
そう言って、銀色のワゴン車の前で、アイシャさんは笑った。
◆ ◆ ◆ ◆
車窓から見えるのは、マリムラティ県の県庁所在地、バンダル市の街なみだ。
トタン屋根の連なりと、歩道の屋台の列が、ずっとつづく。トヨタのディーラーとか、ショッピングモールとか、イスラム寺院とか、大きな建物もあるけど、その前にもやっぱり屋台が並んでて、買い食いの学生や、ひまそうなおじさんたちがいる。
「マリさん、あれが、王宮ですよ。」
アイシャさんが指した先を見ると、町並みの向こうの丘の上に、白い、お城みたいな建物が、見えた。きれいだけど、まわりの風景と、なじんでいない。何となく、恐い。
「王様がいるんですか?」
「女王様がいましたよ。今は、博物館ですね。」
大きな茶色い川をわたる、橋をこえたら、人も車も家も少なくなって、空き地やヤシの木が、増えてくる。30分ぐらいで、道の両側はもう、ヤシの木ばかりになった。
「ジャングルって、はじめて見ました。」
「マリさんこれは、ジャングルじゃないですよ。昔は本当の森でした。今は、畑ですよ。」
「畑?」
「そう。ヤシから油を作りますから、森を焼いて畑にしましたね。ここはジャカルタの、大きな会社の土地ですよ。」
昼過ぎに、コタラジャというところで、車をとめた。
昔は、王国の都だったらしいのだけど、今はただ、赤いかわら屋根の小さな家が少しと、市場と、ヤシ油の工場(日本に、輸出してる。)があるだけの、小さな街だ。
ただ、街のまんなかの、芝生の広場の前に、心をひかれる建物が、あった。
大きな木の家で、わらぶき屋根がお寺みたいに、3段になっている。そのてっぺんに、お花の飾りがある。柱や壁にも、草とか花とか鳥とか、素朴でかわいいレリーフが彫ってある。まるごと小さくして、部屋に飾りたいくらい。
「昔の王宮ですよ。2008年に、古い絵の通りに、作りました。」
それから、アイシャさんは、王宮の前の、大きなテーブルみたいな石の上に立っている、女の人の銅像を、わたしに見せた。
「これは、マリムラティの、最後の女王様です。わたしのおじいさんの時代です。」
今日のわたしみたいな、ポニーテールで、肩と腕を出した民族衣装を着た、すらっとした女の人だけど、剣を持っている。土台の石には、『1890-1958』と、彫ってあった。
「この島は、1910年からイギリスに支配されて、それから、他の島と、交換されて、オランダの支配に、なりました。島の土地を、イギリスとオランダの会社がほとんど買いましたよ。でもひどいこと、残酷のこと、なかったですよ。女王様は、話し合いを、あきらめませんでした。無理なこと、ひどいことも言われます。でも絶対に戦争しない。ボディガードするサトリア、サムライみたいな人も、誰も殺してはいけません。」
「大変な歴史だったんですね……。」
「日本の軍隊も来ましたね。1942年。」
「あっ、……わたし……。」
「マリさん、女王様は、勇気がある日本人に尊敬しましたよ。でも日本の軍隊は、食べるものが足りなかったですね。おなかがすいたら、男の人は乱暴になるでしょう?小さい島です。タピオカ、お米、あまり、たくさんありませんよ。女王様は、また話し合いして、分けました。島の人みんな、ちょっと足りないけど、がまんしましたね。軍隊の道作る、空港作る、しごとは手分けしました。それで、この島はひどいこと、ありませんでしたよ。」
銅像は、目力のある、りりしい顔をしていて、静かな街を、じっと見つめてるみたいだった。
「戦争が終わって、インドネシアが独立しました。それで、女王様はふつうの女の人になりました。」
「ご子孫の方は、いらっしゃるんですか?」
「いいえ。女王様は、年を取るまで、独身でしたから。」
◆ ◆ ◆ ◆
わたしたちは、王宮の見えるカフェで、ナシゴレンと、チキンのスープのランチを食べた。ちょっと油が多いけど、美味しい。そんなに、辛くもない。
お店は、ちょっと昔の、おしゃれなオープンカフェの感じで、洋楽が流れてて、以外な感じだった。
「実はマリさん、あの女王様の時代と、マリさんのこと、関係があるんですよ。」
食後に、ココナッツアイスを食べているときに、アイシャさんが、言った。
「そうなんですね。」と、わたしは答えた。
もっとびっくりしたほうが、よかったかな。
「マリさん、今から、ダラム地方の、ヌグリグデの村に行きますよ。わたしの父の、ふるさとです。わたしのおじいさんは、ずっと前に、亡くなりましたが、名前はキジャンといいます。ヌグリグデの、村長でした。村長、ちょっとちがいますね。村の、小さい王様みたいな。日本語で、『オヤカタ様』と言いますか?『ショーヤ様』ですか?」
「えーと、大体、分かります。」
「わたし、おじいさんから、小さいころよく言われましたよ。『50年あとで、日本からマリという女の子が来る。マリは女王様の娘さんだから、何でも願いをきいてあげなさい。』わたし、意味が分かりませんでした。おじいさんは、ネイティブの、ダラム族ですから、不思議なこと、多く言いました。私は、それで日本に興味もって、日本語勉強しましたよ。」
「それが、わたしだっていうことですか?」
「県庁から、だれか日本人案内してあげて、と言われました。どんなひと?聞いたら、ミナミ・マリさんですよ。それで、びっくりしました。ああ、おじいちゃんの話、本当でしたね!わたし、案内しますよ!」
と、アイシャさんは、胸に手を当てて、感激したようすで、言った。
「でも、わたし、お姫様じゃないですよ。」
「わたしはマリさんを、お姫様に、思いますよ。うふふふ。わたしはイスラム教徒ですけど、4分の1、ダラム族ですから、不思議のことも、ちょっと信じます。神様が、秘密、こっそり、ちょっとだけ教えてくださったと、思っていますよ。」
それから、アイシャさんは「ちょっと待ってくださいね。礼拝してきますね。」と言って、しばらく戻ってこなかった。
わたしは、コーヒーを飲みながら、広場をながめた。
白いシャツに赤いズボンやスカートの制服の、たぶん小学生たちが、おしゃべりしながら、よこぎっていく。
ひとりの女の子が、外人のわたしに気づいて、「ハロー!」と手をふった。
わたしがちょっと手をふったら、他の子たちも、口々に、「ハロー」「ハロー」って、さわぎはじめた。
いちばん太った男の子が、わたしの前に、進み出てきて、「ユー・アー・ビューティフル!」と叫んだので、みんなが、わーっ、と笑った。
わたしも、笑った。
◆ ◆ ◆ ◆
田舎に行くほど、道はすいている。
わたしたちは、田んぼがきれいな村を走り抜け、高原にのぼり、温泉施設のある遺跡公園(恐いくらい熱そうな、湯気が見えた)を通り過ぎた。
そして、ダラム地方がひと目で見渡せる高い場所で、いったん車をとめて、外の空気を、吸った。
火山の、噴火口の跡だろうか、お鍋の底みたいな、広い土地、いっぱいに、牧場や、田んぼが広がっていて、点々と、村がある。ところどころに、森と湖もあった。
これから行く道が、灰色の石と砂の斜面を、お鍋の底に向かって、ジグザグに下りていくのが、見える。
ちょっと、温泉のにおいが、した。
「これがダラムですよ。ヌグリグデは、もうすぐですよ、マリさん。」
この小さな世界のどこかに、お兄ちゃんが手紙で書いてた、「聖なる泉」があるのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
ヌグリグデは、ガジュマルと田んぼに囲まれた、小さな村だった。
村の真ん中に、びっくりするほど細長い、古い大きな家がある。昔は村の人が全員そこに、住んでいたらしい。今はゲストハウスとして、村人(みんな、アイシャさんの親戚だ。)で、共同経営しているそうだ。わたしもそこに、泊まることになっていた。
村のイスラム寺院の前には、石でできた古い水浴び場があって、村の女の人たちは、Tシャツと巻きスカートを着たままで、そこで水浴びをしていた。スカーフをかぶっている人は、ここには少ない。
明るいうちに、アイシャさんに、目的の場所を案内してもらった。
そこは、古代の遺跡で、公園になっている。
村にあったのよりも、少し小さな水浴び場があって、入れないように鉄のフェンスで囲んであった。でもそんなに、高くはない。
のぞいてみると、深い、深い、水。
いちばん底は、見えない。
澄んだ青が、暗やみの中に、とけこんでゆく。
「これが、聖なる泉ですよ。そして、あっちが、花園の神殿。」
泉から、コンクリートの階段を、あがった、小さな丘の上には、アンコール・ワットを小さくしたみたいな、石の神殿があった。
中は、8畳くらいの石の部屋で、仏像も何もなくて、大きな石のベッドみたいな台があるだけだった。
甘い、においがする。
知っている、におい。
熱帯植物園で、かいだにおい。
お兄ちゃんの手紙に、入っていた、あのお香のにおい。
カユドゥパミンピ。
頭がすうっと、して、めまいみたいなものを、感じた。
わたし、ここを、知ってる。
あの夜、リョウ君と熱帯植物園に行った日の夜、夢に出てきた場所だ。
この神殿の前、今はさら地になっているところに、あの、イロリのある部屋があったのだ。
「アイシャさん、ここに、昔、家があって、カイヌウェランという人がいたんじゃありませんか?」
アイシャさんは大きな目をまるくして、両手を上にむけた。
「あらまあ!マリさん、やっぱりあなたは不思議な女の子ですね!」
「いえ、そんなのじゃ……。」
「そういう人を、日本語で、『マホーショージョ』と言いますか?」
「うーん、それは違うと思います。」
◆ ◆ ◆ ◆
髪は、シニヨンに結っておく。
脱ぎ着しやすいように、スウェットのゆるいワンピース一枚だけを着て、素足にスニーカーをはく。
エコバッグの中には、100均で買ったお茶わんとか、ライターとか、ペンライトとか、ぜんぶそろっている。
お兄ちゃんの手紙も、もう一度読んだ。
そして、左手の親指に、エメラルドの指輪をはめた。手紙に入っていた、あの指輪だ。わたしは、手が小さいから、親指でもゆるゆるなのだけど、お守りに、持ってきた。
わたしがインドネシアに来てることは、高石教授とリョウ君しか、知らない。リョウ君に「生きてるよ」って伝えたかったけど、木と竹でできた、古くて長いゲストハウスには、WI−FIが、無かった。
午前、2時。
他の部屋の人を、起こさないように、静かに、部屋を出る。
木でできた、長い、広い廊下は、真っ暗だ。ペンライトで足もとを、照らしながら、歩く。ゆっくりそっと、歩いても、スノコみたいな廊下はギシギシ鳴った。
階段を、下りて、外に出る。
星も、月も無い。真っ暗闇の中で、ペンライトだけを、たよりに、草のしげった村の道を、下りてゆく。
いろんな生き物の声が、前からも、横からも、後ろからも、聞こえる。鳥か、虫か、カエルか、トカゲか、サルか、なんだか分からない、日本できいたことない、びっくりするほど、大きな声だ。ときどき人の声みたいに聞こえて、背中がざわざわする。
遺跡公園の門は、開いていた。アイシャさんが手を回してくれたのだ。
丘の上の、神殿のシルエットが見える。
その下が、聖なる泉。
フェンスの外から、ペンライトで水を照らしてみる。
水面から数十センチくらいが、青く照らし出されたけど、それより下には、透き通った真っ暗闇の厚い層が、どこまでも、深く、続いているのがわかった。
わたしは、つけたままのペンライトをゴムでフェンスにくくりつけて、水面を照らすようにした。
さあ、魔法少女まりちゃん(成人済み)、変身タイムよ。
わたしは、スウェットのワンピースを頭から、脱いだ。
下は水着だ。高3のときに、いちどだけT君と海に行ったときの、黒のワンピースのやつ。
エコバッグを肩にかけて、靴を脱いで、フェンスをのぼる。てっぺんを乗り越えて、反対側に降りる。昔バレエをやってたから、脚はけっこう、上がるのだ。
石づくりの、へりにすわって、水に足をつけてみる。ちょっと、冷たいけど、がまんできそう。
100均のお茶碗を8つ、エコバッグから出して、小さく切っておいたお香を、1つづつ入れる。お兄ちゃんの手紙に、入ってた、あのお香だ。
ひとつひとつ、火をつけて、そっと水に、浮かべた。
煙が、ただよい始める。甘い、懐かしい、恐ろしい、あの香り。
わたしは、泉に向かい、合わせた両手を、ひたいにつけて、お祈りした。
泉の神さま仏さま、お母さん、……お父さん、ついでにリョウ君、おねがい、わたしを見守って。
鼻の頭に、小さな、硬いものが、当たった。
左手の親指の、指輪だった。
自分でも、なんでか分かんないけど、誰も見たことのない、この儀式を始めるための、まるで、定められた、しきたりみたいに、わたしは指輪に、軽くくちびるを当てた。
恐くない。
わたしはもう、恐くない。
◆ ◆ ◆ ◆
お茶碗をひっくり返さないように、ゆっくり水に入る。
そして少しずつ、手足を伸ばして、あおむけに、大の字になって浮かんだ。
紫の煙の中を、線になって走る、ペンライトの光。
煙の層と、青く照らされた水の層。
二つの間に、わたしは、ただよう。
生き物の声も、もう聞こえない。
耳を洗うのは、さざ波と、泡の音だけ。
胸の奥まで深く、深く、煙をいっぱいに吸い込んで、わたしは固く、目を閉じる。
お兄ちゃん。
わたしは、ここだよ。
深く暗い、海の底で、100年の夢の指先が、わたしの手に触れた。
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