第28章 半分崩れた赤茶色の石造りの円塔を探した

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 夜明け前に、僕らは舟を出した。

 王女は男装をやめて、赤茶の格子縞の巻衣サルンを膝丈に着て、帯に象牙の柄の短剣クリスを差して、髪はまとめて結わえていた。身を飾るものはジャスミンの花だけだ。白み始めた東の空からの光に、花はほのかに映えていた。

 アディは普段通りの服装だったが、更紗バティックの巻衣の腰に差した短剣を、いつでも抜けるように神経を張り詰めているのが傍目はためにも分かった。

 僕らは舟の上で、布製の雨覆いの中に体を寄せあって身を隠していた。船尾近くに座ってオールをいでいるのは、マコーミック氏だった。

 王女に惚れ込んだのか、騎士道的ロマンなのか、冒険心なのか知らないが、出発直前になって、もし王宮に乗り込むつもりなら自分もお供したいと、このアイルランド人は自分から言い出した。

 僕は強く反対したが、王女は快諾し、意外なことにアディまでが「いいんじゃないのか」と言い出した。

「こいつがいれば、港務長官シャーバンダルもドゥルハカ国も手出ししにくくなる」というのが彼の意見だった。

 そういうわけで僕らは、マコーミック氏の漕ぐボートで身を潜めながら、川下へ向かっていた。暗くて狭いところで王女と並んでうつ伏せになっていると、茉莉と遊んだ十年前を思い出す。

 だけどこれは遊びではない。

 王女は内陸ダラム花園の神殿チャンディ・タマンサリで、亡き先代国王夫妻に会って何を聞いたのか。

 誰が、彼女の両親を殺したのか。

 王女は話してくれなかった。ただ道理を正し、兄王と王国を救うために、行かねばならないのだと言うだけだった。

 僕は王女の横顔を眺めた。

 薄暗いけれど、二十センチくらいの至近距離で、眉や口元にみなぎる緊張が見て取れる。小さな耳や細い首が、彼女がまだ子どもに過ぎないことを感じさせた。

 王女は急に、くるっとこちらに顔を向けた。

「なに? ミナミ。どうかした?」

「いいえ」

「わたし、顔色が悪いかしら?」

「そんなことはありません」

 僕は最後まで、この子のために力を尽くすだけだ。それでいい。それが、僕がこの国に留まっている意味なのだから。

 丘が近づいてくる。白い城館が、暗い中にも浮かび上がって見える。

 ファジャルと何日間かを過ごした、かつての港務長官邸だ。今は仮王宮となっているが、港務長官一家はそのまま住み続け、その一部を間借りするように、アングレック・シャー国王と、その婚約者であるドゥルハカ国のピピメラ姫が暮らしているらしい。

 丘のふもとに沿って曲がり、海へつながる派流はりゅうを進むと、川面はヒルギやあしの茂みに覆われて、川面と岸辺の見分けがつかなくなった。

 僕は雨覆いの隙間から、水面に立つ、半分崩れた赤茶色の石造りの円塔を探した。それが目印だ。その対岸に、館につながるあの地下水路があるはずだ。

「見えたぞ。あれだろう」とマコーミック氏が言った。「あの塔なら知っている。十六世紀にポルトガル人が建てたんだ」

 地下水路の入り口もすぐにみつかった。中から見たときに思ったほどヒルギは茂っていなくて、注意深く見ていれば、赤茶色のラテライトの崖に開いた真っ暗な半円形の入り口を見つけることができた。もっとも、事前に知らなければ、ただの岩陰としか思わなかったかもしれない。

 警備は思った以上に手薄で、トンネルを入ってすぐのところにつながれた丸木舟に、やりを持った衛士プンジャガが一人いるだけ。しかも横になって熟睡していた。

 アディは短剣を抜いて縄を切り、丸木舟を足でゆっくりと押した。眠った男を載せたまま、舟は川へと流れていった。

 トンネルの中に、あの港務長官家の屋形船は無かった。

 マコーミック氏が小さなランプにマッチで火をつけて、僕に渡した。そして自分はポケットから小型拳銃を出して片手に握った。

 道を知っている僕が先頭を行った。左手にランプをさげ、右手には王女から授かった短剣を抜身で持ち、暗闇を切り開くように。

 地下水路に沿った道をしばらく歩き、さらに階段を登りきったところに隠し扉があり、衣装箱の中に出るはずだ。

 やがて階段は終わった。頭の上は木の板で塞がれている。これが、衣装箱の底だ。

 上の部屋には人がいるかもしれない。気づかれたら、すぐにでも口を塞ぐ必要が生じるかもしれない。僕にそれができるだろうか。この剣で? もし顔見知りだったら?

「俺が先に出る」

 アディが、そう言い終わらないうちに木の板を押し上げ、そのままの勢いで衣装箱のふたも跳ね上げて部屋へ躍り出た。

 アディに続いて上がってきた僕らが見たのは、夜明けの光がすだれ越しに差し込む部屋に、何十個も吊られた色とりどりのガラスのランプと、螺鈿や金箔貼りのいくつもの衣装箱と、中央に置かれた、五人くらい寝られそうな大きなベッドだった。

 ベッドの真ん中では、小学生くらいの小さな女の子が、肩から上をシーツから出して、僕らをじっと見ていた。

 眉の整った、美しい顔の子どもだった。似ているとまでは言えないにせよ、力強い瞳はムラティ王女と同じ血を感じさせる。肌は日本でも色白で通りそうな明るい色で、血色がいいのか、それとも薄いあざなのか、左右の頬が赤みを帯びているのが、彼女をより子どもらしく、愛らしく見せていた。

 僕もアディもマコーミック氏も、あどけない少女を前に気勢をそがれて、言葉も何も出なかった。

「あなたたちは、誰?」と少女は言った。

「わたしは、ラトゥ・ムダ・プトリ・グデ・ムラティ王女よ」王女の口調は優しかった。「この三人はお友だち」

「あなたがムラティ王女? わたし、アナック・アユ・ピピメラ公女」姫は嬉しそうに言った。「わたし、あなたのお姉さまになるのよ」

「でも今はまだ、わたしのほうがお姉さまよ。そうでしょ?」

「……うん」

「お兄様は――殿下ヤン・ムリアは、あなたにお優しい?」

「殿下はご病気なの。それで、まだいちどしかお会いしたことがないの。でも今日、婚約式があるから会えるのよ」

「あら、知らなかった? 婚約式は明日になったのよ」と王女は言った。「今日は、お邸の中は式の準備でみんな忙しくて、怖いお顔をしてるから、どんなに騒がしくても、決してこの部屋から出てきちゃだめよ」

「……うん」

 王女はベッドに上がり、ピピメラ姫の紅い頬をなでた。

「いい子ね。わたし、あなたにお姉さまになってもらうより、あなたのお姉さまでいたいわ」

「うん。わたし、どっちでもいいよ」とピピメラ姫はお菓子でも選ぶみたいに言った。「わたし、この国が好き。ここの人は、伯父さまみたいに怒鳴ったり、棒でぶったりしないもの」

 王女はランプの森のような屋根裏を見上げて、ため息をついた。

「クンボカルノ王子のことね。あとでわたしからきつく言っておくわ」

「ありがとう。お姉さま」

「ねえ、ピピメラ公女、あなた、ファジャルさんっていうお姉さんを知ってる?」

「ファジャルは副王ラジャムダさまの娘よ。優しくて、きれいで、いい匂いがするわ。わたしに文字を教えてくれるの」

「ファジャルさんのお部屋はどこかしら? お姉さまは、ファジャルさんに大事なお話があるの」

「えーと、ひとつ、ふたつ……」ピピメラ姫はシーツから両手を出して、右手と左手を交互に見ながら指を折った。「このお部屋から、ななつ? やっつ? お隣。赤いとびらに、お日様の絵が描いてあるわ」

夜明ファジャルけの太陽マタ・ハリね。ありがとう、ピピメラ公女」王女は両腕で姫の肩を抱き寄せた。「きょう一日、絶対にこの部屋から出ちゃだめ。だれもこの部屋に入れちゃだめ。いいこと? お姉さまと約束して」


   2


 金泥塗りの太陽と草花の浮き彫りが施された赤いドアを、王女は無言で蹴り開けた。

 椅子に座ったファジャルが、驚きと恐怖に目を見開いた。

 後ろに立った侍女のリニに、礼装の着付けをしてもらっていたところらしい。腰には黄色の金襴織ソンケットの巻衣を着て、高く結い上げた髪には銀と貴石の花飾りをつけていたが、上半身は裸で、豊かな胸と引き締まった腰があらわに見えた。マコーミック氏は何かつぶやいて顔をそむけた。

「ファジャル・ビンティ・アルイスカンダリー」と、王女は硬い声で言い、すらりと短剣を抜いた。「そこに直りなさい」

 ファジャルは一瞬、溶け落ちそうな瞳で僕を見つめた。そして王女に頭を下げると、両腕で胸を隠しながら、椅子を降りて床にひざまずいた。リニがすぐに、更紗の布をファジャルの肩に掛け、自分も女主人の隣に立て膝をついて頭を下げた。

「姫様、お久しゅうございます」とファジャルは震える声で言った。そして顔を上げ、王女ではなく、その隣の僕の顔を見つめた。

「ファジャル、幼い頃、あなたには世話になりましたね」と王女は言った。「あなたのことは好きだった。姉のように思っていました」

「おそれ多いお言葉です、姫様」

「先日わたしは内陸ダラムへ行ってきました。それがどんな意味か、分かるわね?」

 ファジャルは不思議そうな顔で王女を見上げた。

「……いいえ、わたくしには分かりません。何でしょうか?」

花園の神殿チャンディ タマンサリで、亡き父上と母上にお目にかかりました」

「そうでしたか、それは……」

「全てお話しくださったわ。コーヒーに毒を入れて、父上と母上にお出ししたのは、ファジャル、あなたね?」

「そう……なのでしょうか」ファジャルはぼんやりとした顔と声で言い、僕たちの顔を見わたした。口元にはうっすらと、微笑みのようなものさえ浮かべていた。「わたくしにも、わからないのです。たしかに、父から、黒い粒のような、薬のようなものを渡されたのを覚えています。でもわたくしは、それが何なのか存じませんでした」

「知らなかっただと?」

 ファジャルに詰め寄ろうとしたアディを、王女が手で制した。

 ファジャルは眉にしわを寄せ、うるんだ目をして、しかし唇にはまだかすかに、弁解を試みるかのような笑みを残していた。

「知らなかったのです。父は何も申しませんでした。たしかに、わたくしはそれを、コーヒーに入れました。なぜかしら、そうするものだと思って……。誰かがわたくしに、そうするように言ったのでしょうか……? でも父は何も命じなかったと思うのです」

「それを、お父さまとお母さまに飲ませたの?」

「お出ししたと……思います。……はい。お出ししました。王妃殿下が、コーヒーを持てとおっしゃったからです。しばらく後で、お二人ともお倒れになって、わたくしは急いで侍従を呼びに走りました。でも、どうしてそうなったのか……。わたくしには、分からないのです」

「あなたは、罪を認めないの?」

「いいえ……。わたくしは……罪人つみびとです。それだけは確かなことです」

 そう言うと、ファジャルは僕の顔を見上げ、また頭を下げた。

「顔をお上げなさい、ファジャル・ビンティ・アルイスカンダリー」王女の目から、細い筋になって涙がつうっと頬を流れた。「目を閉じなさい。そしてあなたの神に祈りなさい」

「……はい、姫様…」

 ファジャルは眼を閉じ、顔を上に向けて首筋をさらし、かすかな声で祈りの言葉を唱え始めた。

「……主は、いとも偉大にましますアッラーフ アクバル……主は、いとも偉大に……」

 王女はファジャルの前に進み、片手で彼女の肩を押さえ、祈りながらあえぐ彼女の喉に、短剣の切先を近づけた。

「お父さま、お母さま」

 と王女は真っ青な顔で小さく言った。そして柄を握った右手に力を込めた。

「NO!」

 とマコーミック氏が叫ぶのと、僕が「王女!」と声を上げたのは、ほとんど同時だった。

「お待ちください。どうか」

 素肌に触れるのが不敬なのは分っていたが、僕は王女の肩に手を伸ばした。王女は振り返り、きっ、と僕をにらんだ。

 僕は負けずにその目を見つめ返し、王女の左手をファジャルの肩から引き離し、両手で包むように握って彼女の足元にひざまずいた。

「どうか、王女、命だけはお救いください。悪いのは彼女じゃありません。父親です。それは誰の目にも明らかです」

「ミナミ、あなたがファジャルをかばうことは分かっていたわ。気持ちは察します。だけど彼女の罪は普通の罪ではない、大逆の罪です。外国人のあなたが口を出せることではありません」

「いいえ、王女。私が危険を賭して救った命です。私が拾って彼女に与えた命です。黙っているわけにはいきません。王女もそれをお認めになって、この短剣を下さったではありませんか。今さら外国人などとおっしゃるのですか」

 僕らが言い合っている間に、リニが放心したファジャルを後ろに引きずって行き、さすがに短剣を抜きはしなかったが、王女と女主人との間に立ちはだかった。マコーミック氏は拳銃を持った手でしきりに十字を切っている。

 僕は王女の左手を頭上にいただくようにして、理屈ぬきの嘆願たんがんを続けた。

「彼女の生命は僕のものです。活かすも殺すも僕に決める権利ハックがあります。それを奪おうとおっしゃるのなら、代わりに僕の頸を刺してください。どちらでも同じことです」

「姫様、ミナミの言うことにも一理あります」と、アディが言った。「この女はただの木偶人形ゴレックだ。父親の言うとおりに罪も犯し、男も愛するんです。こんな女の血で、姫様の神聖なお手を汚すことはありません」

 アディは、象牙の柄を握った王女の右手をその上から握り、王女の目をのぞき込んだ。

「姫様」

 王女は蒼白そうはくな顔で小さく首を振って、僕らの手を振り払い、短剣を鞘に納めた。そしてファジャルが座っていた椅子にぐったりと座った。

「……リニ」

「はい、姫様」

「港務長官はどこです。隠し立ては無用よ。わたしたちは彼をちゅうしなければなりません」

 リニは、床に座り込んだファジャルの肩を抱いてしばらく黙っていたが、ファジャルがすすり泣き始めると、深いため息をついて言った。

「副王様は、広間で婚約式の準備を指揮されています。国王殿下も、クンボカルノ王子様もご一緒です。英国イングリス公使ドゥタ殿もいます。皆様武器をお持ちです」

「広間に案内なさい」

「はい、姫様」

「ファジャルも連れて行くのよ」

「……はい、姫様」

 リニはファジャルを部屋の隅に連れて行って胸布トゥトゥップダダを巻いてやった。そしてアディがシルクの布で両手首を縛った。

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