第27章 ジャスミンのノート(その2)

 兄のお葬式の、喪主は、わたしだった。

 だけど、わたしは何もできなくて、由美子さんたち、兄の会社の人が、ほとんどやってくれた。

 由美子さんは、兄と仲が良かったらしい(恋愛関係、とかじゃなさそうだ。)けど、お兄ちゃんはもう帰って来ないって、最初から、あきらめてるみたいだった。


 わたしと由美子さんが、結局、何も分からないままシンガポールから、帰ってきた後で、インドネシアの、コーストガードの船が、荷物とか衣類とか、海に浮かんでいるものを見つけたって連絡が、あった。

 その中に、わたしが、一昨年の誕生日にお兄ちゃんにあげた、腕時計があった。

 腕時計は、ガラスが割れてた。

 ライフジャケットのひもに引っかかって、海に、浮かんでたそうだ。何日も。

 それでみんな、もうお兄ちゃんは死んだって、決めつけてしまった。

 びっくりするくらい、あっさりと。


 喜代子おばさんは、49日までにお葬式をしなきゃいけないって、すごい必死で、言い張った。

 そうしないと、お兄ちゃんは、ずっと海の底で泣いてるって。


         ◆ ◆ ◆ ◆


 わたしは、兄のために、新しい時計を、買った。

 ラッピングしてもらって、お仏だんに、置いてある。兄が帰って来たら、まっ先にこれを、あげるつもりだ。


         ◆ ◆ ◆ ◆


 お葬式で、喪主のわたしはみんなの前で、

「今日は、兄のために、ありがとうございます。でも、お兄ちゃんは、死んでません。ぜったい、帰ってきます。」

 と言い切って、わあわあ泣いてしまった。


 お寺さんも、親せきも、兄の会社の人も、みんな、もう死んだと思ってるお兄ちゃんのことより、わたしのことを、気にかけてくれた。

 年上の女の人たちは、かわるがわる、わたしの肩を抱いたり、頭をなでたり、背中をぽんぽんしたり、何か言ったりしてから、帰っていった。

 最後に由美子さんが帰ったあと、喜代子おばさんが、タクシーでわたしをアパートに送ってくれて、「明日また来るからね。気持ちをしっかり持つのよ。」って、ホテルに帰って行った。

 

 独りになったわたしは、ふらふらと玄関を入ったとこで、もう1歩も動けなくなった。

 喪服も着たまま、靴もストッキングも、はいたままで、ずるずる、その場に座りこんでしまった。

 ちらばった、わたしと兄の靴の間に座って、うとうとして、わたしは、夢を見た。


         ◆ ◆ ◆ ◆


 それは、サイの川原、みたいなところだった。

 なにも無い。だれもいない。どこまでも、ずっと灰色の石と、灰色の空ばかりの、荒れ野。

 ところどころに、大人の身長より高い、三角コーンみたく石を積み上げた、塔みたいなのが、ある。


 夢の中の、わたしは、何才だろう? まだ小さい。

 足が傷くて、歩けなくて、男の人の、背中に、おんぶされていた。


 お兄ちゃん?

 やっぱり、生きてたのね?

 帰って来てくれたのね?

 おうちに帰ろうよ。


 でも男の人は、何も言わずに、歩いて行く。

 砂漠みたいな、灰色の平原を、どこまでも、どこまでも。


         ◆ ◆ ◆ ◆


 目がさめたら、喪服のそでも、顔も、涙でぐしょぐしょだった。かみの毛が、ほっぺたに、ひっついてる。

 狭い玄関で、壁にもたれて、靴をはいたまま、眠てたから、足がしびれて、痛くて、立てなかった。

 靴とストッキングを、なんとか脱ぎすてて、四つんばいで、和室まで行って、へなへなと、くずれそうになりながら、やっとの思いで背中のファスナーを下げて、ホックを外して胸元を楽にしたところで、わたしは、もう、力つきてしまった。


 タタミの上に、ひっくり返って、お仏だんに向かって、つぶやく。

「お兄ちゃん……。」

 白い虹みたいな光の線が、カーテンのすき間から、まっすぐに、部屋に入ってくる。もう、朝なのだ。

「ねえ、お兄ちゃん、聞こえる?」

 わたしは上半身だけ起こして、光に照らされた、お仏だんのお兄ちゃんの写真を、見つめた。

「お願い。聞こえてるなら、答えて。夢の中でも、いいから。」

 ぽつぽつぽつぽつ、と、雨みたいに、タタミに涙が落ちる。

 お葬式から、何時間たつだろう。まだこんなに、たくさんの涙が出るなんて。

「夢……夢を、見たの。帰って、きてくれたって、思ったのに……。」

 急に、うまく、息ができなくなって、わたしは、げほげほげほ、って、吐きそうなくらい、むせた。がくがくする胸を、手で押さえて、ゆっくり深呼吸をする。

 

 お兄ちゃん、あたし、ほんとにひとりになっちゃったの?

 ひとりは、やだよ。


 ねえ。


         ◆ ◆ ◆ ◆


 有給を、全部使い切ってしまわないうちに、わたしは仕事に、もどった。

 先ぱいも、上司も、ちょっとパワハラ気味で苦手な、その上の上司も、気を使って、くれる。残業も、あまり、振ってこない。みんな、すごく、優しい。


 でも、わたしは自分が、触わっちゃいけないものに、なってしまったような、気がした。


         ◆ ◆ ◆ ◆


 毎朝、出勤前に、お仏だんのお兄ちゃんに、話しかける。

 ご飯をあげて、お線香を、燃やす。

 ごはんを、あげるのは、お兄ちゃんが生きてると、思ってるから。

 お線香を、あげるのは、お線香の匂いがする方が、お兄ちゃんの夢が見れるような気が、するから。


         ◆ ◆ ◆ ◆


 お昼休みに、お兄ちゃんに、スマホから、メッセージを送る。

 ひょっとして、わたしがいない間に、アパートに帰ってきてるかも、しれない。

 最初のうちは、「鍵、持ってる?」とか、「冷ぞう庫のサラダ、食べていいよ。」とか、「通販の荷物、届くかもしれない。」とか送ってたんだけど、一度も、既読にならない。

 最近は、「いい天気だよ。」とか、「わたしは、元気だよ。」とか「プリンたべたよ。」とか、そんなことしか、書くことがなくなってしまった。


 お兄ちゃんがいないことには、慣れない。

 でも、ひとりの生活には、慣れ始めてる。


         ◆ ◆ ◆ ◆


 深夜、布団の中で、目がさめた。

 さめたのに、体が、動かない。

 全然。

 1ミリも。

 耳の奥で、ひいいいぃぃん、って聞こえる。

 貧血のときみたく、視界が、狭い。


 ああ、あの感じだ。

 中、高のころはよく、これが、あった。

 金しばり、っていう、やつだ。


 目だけは、動く。

 だから、動かせるところだけでも、動かして、何とか、金しばりを、ほどこうとして、右を見たり、左見たり、必死でやるんだけど、だめ。手も足も首も、動きそうなのに、動かない。


 人の影みたいなものが、ぼんやりと、見えてくる。

 天井に、ふわりと、ただよってる。

 これも、いつもと、同じ。


 昔は、こんなとき、すごい、恐かった。

「お兄ちゃん! 来て! 助けて!」って、必死で、さけぼうとしても、金しばりのときは、少しだけ、「んーっ」て、小さな声が、のどから、もれるだけだ。でも、そうやって呼び続けてたら、必ず、お兄ちゃんは、気づいてくれた。

 お兄ちゃんが、わたしの肩を、ゆり起こしてくれたら、金しばりは、うそみたいに、とけるのだ。

 そんな時、よく、わたしは赤ちゃんみたいに、お兄ちゃんの、温かい胸に、しがみついて、頭をなでて、もらったりした。

 でもなぜだろう、布団の上で、汗だくの体を、お兄ちゃんに、抱きしめてもらってるとき、いつも、うすうす分かってる当たり前の、ことを、いちばん強く、感じたのだ。

 いつかは、お兄ちゃんと、離れなければならないと、いうことを。


 でも今は、恐くない。

 天井でゆらゆらしてる、その影が、何なのか、誰なのか、わたしには、分かったから。

 わたしは、その影を、一生剣命、見つめて、声は出ないけど、うったえかけた。


 どこも行かないで。

 ここにいて。

 おねがい。


 でも、影は、ゆらゆらして、近づいてきたり、天井に離れて行ったり、しながら、だんだん、うすく、なって行く。

 わたしは、なんとか、金しばりをほどいて、お兄ちゃんに、「行かないで」って、言おうと思って、何度も深く、息をすって、はいた。


 のどが、ほどけて、やっと、声が出た。

「……お、……に、……いちゃ……。」

 そして、こんな言葉が、胸からこみ上げて、こぼれた。

「なんで……死んじゃった…の?」


 影は、ふっと消えてしまった。


 なによりも、わたしは、自分の言葉が、ショックだった。

 自分がやっぱりもう、お兄ちゃんは死んだと、本心では思ってるらしいことが、悲しくて、悔しくて、金しばりがとけても、くたくたになった体で、横になったまま、ぼう然と天井を、見つめていた。


「行かないで。」って、言うつもりだったのに。

「大好きだよ。」って、言えばよかったのに。


         ◆ ◆ ◆ ◆


 土曜の昼、レモンとツナ缶のサラダパスタを、作った。

 自分で食事を作ったのは、久しぶりだ。

 料理ってほどじゃ、ないけど。

 小さなお茶碗に、少し分けて、お仏だんにも、あげた。

 お兄ちゃんは、ずっと海外だから、和食のほうが、よかったかな。


 お昼のあと、洗い物をしてたら、リョウ君から電話があった。


         ◆ ◆ ◆ ◆


 リョウ君と、熱帯植物園に行った。


 リョウ君は、今のわたしにとって、たぶんたった1人の、男の子の友だちだ。高校の時の、同級生で、今は大学生。

 彼には、新藤君という彼氏がいるから、2人で会っても、デートとかのカウントには、入らない。

 けど、お兄ちゃんが出張に行っちゃって以来、久しぶりに、男の人(リョウ君だけど)と、2人で歩いてると、すごく安心感を、(リョウ君なのに)感じてる自分がいて、ちょっと困った。


 熱帯植物園の、大きなガラスのハウスの中は、もわっとあったかくて、熟しすぎた、フルーツみたいな、エギゾチックな、エジプトの香水みたいな、熱帯の甘い匂いがした。

 わたしとリョウ君は、あんまり、しゃべらないで、その中を、ぶらぶら歩いた。

 見たことない、いろんな植物が、あった。

 いっぱい、根が垂れ下がってる恐い形の、木とか、まん中から、何か、ぴょろ、って伸びてる、変な花とか。

 みんな「何とかビウム」とか「何とかアピアピ」みたいな、カタカナの、ふしぎな名前で、タイとかマレーシアとかインドネシアとか、お兄ちゃんが得意な方面の、国の言葉らしかった。


 ゆっくり、回ってると、ひとつひとつの、木や花に、それぞれの、においがあるのが分かる。

 中に一つ、なんとなく、なつかしい、においがする木があった。

 カユドゥパミンピっていう、舌をかみそうな名前の、小さな木だ。


 カユドゥパミンピ、

 カユドゥパミンピ。


 枝に、鼻を近づけて、くんくん、においを吸ってみる。

 子どものころに、知ってたにおい、なのかな。武蔵野の家を思い出す。

 もっとたくさん、もっと胸の奥まで、吸いこんでみると、もっと小さなときのことも、赤ちゃんのときのことも、もっと前のことも、思い出せそうな気がする。


「どしたの、茉莉?」

「ううん。いいにおいだよ。リョウ君も、におってみて。」

「そっかな。線香みたいなにおいだけど。」


 説明板には、「インドネシア・北ヌサトゥンガラ州・マリムラティ島内陸盆地にのみ分布。現地では原住民が儀式の際に香料として用いた。」って、書いてあった。


 マリムラティ……?

 マリ……ムラティ?


 なんだろう。

 すごく、ひっかかる。

 お兄ちゃんなら、こんなカタカナの、意味がぜんぶ分かるんだろうか。

 やっぱり今度、いっしょに来ないと。


 暑くなってきたからパーカを脱いで、作りものの川が流れてる横の、ベンチに座って、ガラスの向こうの青空を、ながめてたら、リョウ君が、隣に座って、言った。


「ここ、いいでしょ。」

「うん。べつの世界みたい。」

「ひとりで来るんだ。時々。あいつ、こういうの興味ないから。」

「さそってくれて、ありがとう、リョウ君。」

「ううん。」リョウ君は、いつもすぐに、照れくさそうな、顔をする。「僕のほうが、茉莉に会いたかったんだ。」


 わたしはまた、涙が出そうになって、リョウ君のカットソーの袖の、二の腕のところを、思わずつかんで、甘えちゃいけない、リョウ君に悪いと、思いながら、つい、言ってしまう。


「……ねえリョウ君。お兄ちゃん、帰ってくると思う?」

「僕、高校の時、ちょっと好きっていうか、タイプだった。」

「え?」

「茉莉のお兄さん。帰ってきたら、3人で、ここ来よう。」

「……うん。」

「でも茉莉は、仕事忙しかったら、無理に来なくていいよ。お兄さんと2人で来るから。」

「何、それ。」わたしは、ひさしぶりに、ちょっと笑った。「だめよ。新藤君に言うよ。」


 植物園の出口に、新藤君が、車でむかえに来てくれて、わたしのアパートまで、送ってくれた。


 わかれるとき、新藤君の目の前だから、逆にかまわないかな、と思って、わたしは、車の窓から、助手席のリョウ君に、軽くハグをして、彼の背中で、

「ありがとう。」

 って言った。

「茉莉、やめて、緊張する。」とリョウ君が、言った。

「こら、茉莉、リョウから離れろ。」と、新藤君が運転席から、言う。

「いいじゃん。わたし、女だし。」

「茉莉はだめだ。なんか、イヤだ。」

「なんでよ。ひどい。」

「よろこぶとこじゃない?」

「あはは。」

「じゃあ、またな。」


 2人が手をふって、車が、行っちゃうと、わたしは、アパートの前の、人通りの少ない、夕方の道の上に、ぽつんと残された。

 パーカの前を合わせて、バッグの中の鍵を探してたら、ひとりの部屋に帰るのが、急につらくなった。

 今日あったこと、見たものを、すぐにお兄ちゃんに話すことは、できないのだ。


         ◆ ◆ ◆ ◆


 カイヌウェランが夢に出てきたのは、その夜だった。

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