第26章 紅茶を入れよう。そこの敷物に座っててくれ
1
「狭いところだが、遠慮なくくつろいでくれ」
家の主人はそう言ってマッチを擦り、テーブルの上のオイルランプを灯した。
明るくなった部屋を見ると、この孤立した島の、干潟の上に立つ高床式の家の中で、彼ができるだけ西洋風の暮らしをしようとしているのが分かった。
テーブルにはワイングラスが置かれ、マントルピースに見立ててか、壁に造り付けた棚の上には置き時計と、草原に立つケルト十字架のリトグラフが飾られている。窓辺には書き物机があり、インク壺とつけペンが備えてあった。
「紅茶を入れよう。そこの敷物に座っててくれ」
もはやトルコ人に身をやつす必要が無くなったということだろうか、彼は赤茶色の髪を短く切り、鼻の下だけを残してひげも剃ってしまい、服装もサファリスーツのような白い洋服に、緩いボウタイを結んでおり、いくらか英国紳士らしく見えた。
「ミスター・マコーミック。どうもありがとう。あなたのおかげで助かりました」
僕は言った。王女とアディは警戒して身をこわばらせている。
「何もしてないさ」とマコーミック氏は笑った。「君らをお茶に誘っただけだ」
「でも、あなたが通りかからなければ、僕らはあの兵隊に――」連行されてた、と言いかけて、僕は口をつぐんだ。彼をどこまで信用できるかは分からない。
「ただ『この三人は俺の友達だ』と言っただけだ。嘘じゃなかろう、いつだったか、この街で一緒に飲んだ仲だろう?」
僕らはついさっき、マコーミック氏に助けられたばかりだった。
「
街の半ばに及んだ焼失地区は今や建設ラッシュで、そこに建てたばかりの『
壁際の長細い
「君とは前にも会ったな」と、マコーミック氏はアディに言った。アディより訛りが少ないくらいのマラッカ海峡のマレー語だった。「君は武官だろう?」
アディは何も答えない。
マコーミック氏は次に王女を、しばらく興味深そうに見つめていたが、ひょっと眉毛を上げると、冗談めかして片膝を立て、西洋の宮廷風の礼をした。
「こいつは、ジャワから売られて来たみなし子で……」アディが力の無い声で話し始めたが、どう見ても彼自身、自分の言葉を信じているようではなかった。「言葉はできないが……男の子で……」
「そんな座り方では、仮に本当に男の子でも、女の子にしか見えませんよ、
僕らは黙っていた。マコーミック氏は僕に向かって言った。
「それに、肌が滑らか過ぎる。汚してごまかすのはいいが、かえって不自然だ。身長の割に手も小さい。労働していない手だ。しかし指にタコができている。何かテニスのようなスポーツ――いや、この国にスポーツというものは無いから、剣術だろう」
「……シャーロック・ホームズのつもりですか」
僕がつぶやくと、マコーミック氏はぱっと目を輝かせた。
「驚いたな。日本人の君がアーサー・コナン・ドイルを知っているのか。現代最高の作家だよ。政治的には意見が合わないが……」
「で、何が言いたいんです」
「では核心を言おうか。このレディこそ、他でもない、クンボカルノ王子と
ごそごそと武器の準備を始めたらしいアディを目顔で制して、僕はつとめて平静に尋ねた。
「僕らはどうするべきですか、ミスター・マコーミック」
「こちらも核心を聞きたい」マコーミック氏は声をひそめて英語で言った。「なぜこんなところに日本人がいるのか、あの飯屋で君と会ってからずっと考えてた。どこからともなく現れて、港務長官邸に入り込むなんて何者だ? ってね。俺は一つの仮説を立てたんだが、今日、プリンセスのお供をしている君を見て確信に変わった」
どうやらマコーミック氏は楽しくて仕方がないらしく、少年のように頬を輝かせ、人差し指を立てて言った。
「君は、
「ミカド?」
明治天皇の白黒写真が頭に浮かんできて、僕は声を出して笑ってしまった。だが彼は真剣だった。
「ミナミ、俺は一匹狼の冒険商人だ。軍人でもなければ植民地省の役人でもない。君の邪魔をするつもりはないんだ。ただ真実を知りたいだけだ」
要するに、大日本帝国は英国のマレー諸島支配にひそかに揺さぶりをかけようとしており、そのために天皇の密命を受けてクンバンムラティ王国に肩入れするのが僕の任務なのだろうというのがマコーミック氏の推理だった。そもそも僕がこの島にいるのが不自然だから、困ったことに妙に
「僕はただ、いろいろ力になってくれたこの子たちのために、できるだけのことをしてやりたいだけです」
「しかし、彼女はムラティ王女だ。そうだろう?」
「異国のお方」と、王女が口を開いた。「コルミックさんとおっしゃいましたね」
あの力強い瞳で真っすぐに見つめられ、マコーミック氏は虚を突かれたみたいにたじろいだ。
「……マコーミックです。ケネス・マコーミック」
「マコルミックさん、わたくしたちが、あなたに助けられたことも、今あなたの手の中にあることも、認めないわけにはいきません」王女はターバンをするすると解いた。長い髪が肩に流れた。「この上は、道理を尽くしてお話する他ないでしょう。いかにもわたくしは、王妹ラトゥ・ムダ・プトリ・グデ・ムラティ王女です」
「姫様、こいつは
「どうして? わたしたちのミナミも、未知の国から来た外国人よ」王女はアディを黙らせ、マコーミック氏に向き直った。
2
「失礼ながら、マコルミックさん、あなたのお国、
マコーミック氏は怒りはしなかった。恥じ入りもしなかった。ただ王女の毅然とした態度に胸を打たれているのが僕らにも分かった。
「彼らのしていることは、キリスト教徒として恥ずべきことです」マコーミック氏は静かな声で言った。「ミナミ、君なら分かるだろうか。俺は、本当は
「アイルランドは、まだ英国の支配下でしたね」この時代は、と言いかけて、僕は口をつぐんだ。
「そうです。王女、私の国アイルランドは、このクンバンムラティ国と同じく島国なのですが、ミナミの言う通り、今は隣の島であるイングリスの王に支配されており、民は貧しく、虐げられています」
王女はうなずいた。
「この海域でも、昔から何度も繰り返されてきたことです」
「ですから、彼らのこの国でのやり方にも、私は反対です。特に、ピピメラ姫やあなたに、望まぬ結婚を強いるようなことには。ただ、たとえどんな王のもとにあっても、俺は一介の商人です。あなたがたのために何ができるわけでもありません」
「
マコーミック氏は顔を赤くした。
「この家は安全です。ドゥルハカ兵も入って来られないし、このあたりの担当の英国兵は俺の友達です。こんなところでよければ、しばらく身を隠してください」
「では明朝、日の出前までここにいさせてください」と王女は言った。「明るくなる前に、私たちは行くべき場所へ行かねばなりません」
マコーミック商会は小さな家だが、遠来の取引相手のために客用の寝室があった。西洋風の固いパンの食事の後で、僕らは王女を寝室で休ませた。
アディはいつでも抜けるように
マコーミック氏は書き物机にランプを置いて、英語で何か仕事の手紙を書いているようだった。
彼が手を休めるタイミングを見計らって、僕は声をかけた。
「ミスター・マコーミック。
「ああ。もちろんかまわんよ。ペンも使うといい」
僕が床にうつ伏せになって字を書いているのを、マコーミック氏は興味深げに見ていた。
「中国の文字に似ているな」
「文法は全く違うけど、文字の一部は基本的に同じものです」
全てを入れた封筒に、僕は英語と日本語で宛名を書いた。
「ミスター・マコーミック。ひとつ頼みがあります。シンガポールに帰ったら、この手紙を郵便で出して欲しいんです。来年でも再来年でもいい。十年後でもいいです。あなたが生きている間に送ってもらえれば」
「そりゃかまわんよ。来年には一旦戻るかもしれない。君もその時いっしょに船に乗ればいい」
「そうします。それまでこれを預かっておいてください」
僕は首にかけた袋から、小さな革袋を出して、手紙と一緒にマコーミック氏に渡した。
「今は切手代が手元に無いから。もしあなたがシンガポールに帰るまでに会えなかったら、これを売るなりしてください」
「中を見てもいいかね」
マコーミック氏は革袋からエメラルドの指輪を出し、驚いた顔でランプの光にかざした。
「インドのものだな。しかし切手代にしては高すぎるぜ」
「いいですよ。あとで返してもらいますから」
「分かった。君が持っているのも危ないだろうし、預かろう」マコーミック氏は指輪を革袋に戻そうとして、ふと変な顔をした。「他にも何か入ってるな」
彼は革袋の中から小さく折りたたまれた紙片をつまみ出して僕に渡した。開くと、アラビア文字に似た、飛び跳ねるようなこの国の文字で、数行の文章らしいものが書かれていた。
「なんだ? 皇帝の秘密司令か?」
「分からない。この国の字は読めないんです」
「見てもいいか?」
紙を受け取ると、マコーミック氏は眉間にしわを寄せながらその文章を読み始めた。
「モナミ……いや、ミナミ、か。君の名だな」
僕は胸が苦しくなるのを感じた。この袋に何かを入れた可能性がある人物は、一人しかいない。
「えーと、『ミナミ様、何もかもが間違いでした』」と彼は読み上げた。「『父はミナミ様を利用することしか考えていません。そのためにわたくしをミナミ様に近づけたのです。ミナミ様もそれをご存じだと思います。どうかお逃げください』」
「お逃げください? そう書いてあるんですか」
「ああ。……だが、俺が読んでいいのか?」
「続けてください」
「分かった。『しかし、それでもなおわたくしを愛してくださるなら、どうか船までお越しください。
マコーミック氏に返してもらった紙片を握って、僕はひとりで
僕はどこかで間違ったのだろうか。
ここでこうしていることは正しいのだろうか。
明日僕がするであろうことは正しいのだろうか。
振り返ると窓の
あちらの暗い窓が客間だろう。その簾の向こうでは、王女がひとときの休息をとっているはずだった。
ベランダの下で、波が跳ねるような音が聞こえた。
「茉莉」と、僕はつぶやいた。
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