第25章 ジャスミンのノート(その1)

 お兄ちゃんが、死んだ。


 わたしの、お兄ちゃんが、死んだ。


 信じられない、そんなこと。

 こんなふうに、いくら、紙に書いてみても、ほんとだと、思えない。

 ボルネオ島の、クンティラナックっていう、小さな町の空港から、シンガポール行きの飛行機が、海の上で消えてしまって、それっきり、見つからない。

 その乗客名簿に、「Hiroshi Minami」って、名前があった。

 確かなのは、それだけだ。


          ◆ ◆ ◆ ◆


 わたしがまだ、小さかったころ、父と、母と、兄と、四人家族で、武蔵野の家に、にゃんすけ、っていう、トラネコといっしょに住んでいた。

 弟や妹がいないわたしは、わたしを、すごくかわいがってくれる両親や兄の、真似をするみたいに、にゃんすけを、すごくかわいがっていた。

(10才をすぎてた、にゃんすけの方が、わたしより、年上だったのだけど。)

 にゃんすけが、病気で死んだ時、7才のわたしは、さいごまで、バスケットの中で円くなった背中が、だんだん冷たくなるまで、ずっとなでていてあげた。

 わたしは、死ぬっていうことが、あの時、はじめて分かったんだと思う。


 母が亡くなったときは、わたしと父と兄が、さいごの刻までいっしょだった。

 わたしは、病院の母のベッドのそばで、ずっと泣いていて、さいごまで母に心配をかけてしまった。

「マリちゃん、泣かないで。」というのが、母がわたしに言ってくれた、一番さいごの言葉だった。

 あれから、わたしはもっと泣き虫になった。


 その半年あとで、父が死んだ。

 自殺、だった。

(兄は、事故だって、いまでも言うけど、ウソだ。お父さんは、独りでお母さんのところへ行ったのだ。わたしには、父が、わたしと、お兄ちゃんを捨てたことが、一番悲しかった。)

 お兄ちゃんは、見るなって言ったけど、わたしはお通夜で、一瞬だけ、喜代子おばさんと、二人きりになった時に、お棺の窓を開けて、お父さんの顔を、見せてもらった。

 お父さんの顔は、お兄ちゃんが言うほどには、ひどく傷ついてなかったと、思う。


 両親は、冷たくなって、人形みたいに、きれいにされて、木の箱に入れられて、焼かれていった。だから、母と父が死んだことは、もう中学生だったわたしには、分かりすぎるくらい、分かった。


 だけど今度は、ちがう。

 お兄ちゃんの会社からの電話とか、航空会社の人に見せられた、乗客リストのプリントアウトとか、軍の飛行機が撮った、海面の油の写真とか、そんなの、見せられたって、分からない。こわれた時計が、帰ってきたって、分からないものは、分からない。


         ◆ ◆ ◆ ◆


「わたし、信じません。お兄ちゃんは、ぜったい、生きてます。」

 もっと探してください、って、シンガポールの航空会社の人にも、大使館の人にも、言った。

 喜代子おばさんにも、お葬式なんかしないで、って頼んだ。

 兄の会社の城戸由美子さんにも、あきらめないでほしいって、お願いした。

(由美子さんは、兄の同期で、優しいお姉さんだ。シンガポールでは、私の手をにぎって、いっしょに泣いてくれた。)

 だけど、親戚の間でも、会社でも、役所でも、メディアでも、世の中ではもう、兄は死んだと言うことに、決めてしまった。わたしの意見なんて、誰も聞かない。


 みんな、わたしに、やさしくしてくれる。

「あなたの気持ちはわかる。」とか「茉莉ちゃん、かわいそうに。」って。

 けど、みんなにとっては、「お兄さんの死を受け入れられない、かわいそうな妹さん。」が、ひとり、いるだけなのだ。


          ◆ ◆ ◆ ◆


 今日から、このノートは、お仏だんの、引出しに、入れておく。

 今は、お兄ちゃんに伝わるように、書いてる。でも、帰ってきても、兄には読ませない。元気に帰ってきたら、もう燃やしちゃっても、いい。誰にも読ませない。

 だからほんとの気持ちを、正直に書く。

 昨日までの書いたのを、後で読んだら、思ったよりもっと感情的で、脚観的じゃないなって、思う。

 けど、昨日の気持を、今日になって消したり、書き直したりしたら、ウソになる。


          ◆ ◆ ◆ ◆


 このノートは、小学生の時お兄ちゃんに、もらった。

 お兄ちゃんは絶対憶えてないと、思う。どこかでもらってきて、「まりちゃんに、やるよ。」って。たぶん、女の子用だから、くれただけだ。

 でも、なんとなく、今まで使わないで、だいじに、机の引き出しに入れてた。

 表紙のイラストは、わたしの名前の、ジャスミンの花だ。


          ◆ ◆ ◆ ◆


   夢


 わたしは、お仏檀に向かって、お経を上げていた。

 ほんとは、わたしは、お経なんて読めない。でも、なぜか読めるのだ。

 お経はだんだん、おんなじ言葉の、くり返しになって来る。「とらやとらや、とらや、とらや。とらや。」って、続く。

 とらや、とらや、とらやとらや。わたしが、自分で読んでるのに、なんか、変な感じがして来る。とらやとらや、とらや。とらやとらやとらや。こんなの、気持ち悪い。嫌なことが起こりそうで、だんだん怖くなって、わたしはお経をやめてしまう。

 しーんと、静かになった。

 お仏だんから、音がする。

 かたっ、かたっ、って、小さく、お仏だんが震えている。

 耳を近づけて、よく聞いてみる。

 かたっ、かたっ。

 とん、とん。

 そして、人の声……?

 隣の部屋から?お仏だんの中から?

 小さくて、遠い声。ほとんど聞こえない。

 けど、なにか言ってる。

 わたしに、なにか言ってる。

 わたしは、お仏だんの中に頭を入れて、アミダ様の絵に耳を近づけた

「……に……。…こ……。」

 やっぱり、声は、この奥から聞こえる。


「ま…り…ちゃ…。」


 いま、わたしの名前をよんだ?


 お兄ちゃんの、声だ。

 お兄ちゃんが、この向こうで、わたしを、呼んでる。「まりちゃん」って、呼んでる。

「お兄ちゃん!」わたしは、お仏だんの奥の板を、バンバンとたたいた。「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」

 へんじが、ない。

 お兄ちゃんを、助けなきゃ。

 痛そうだけどグーの手で、奥の壁の板をこわしてしまおうと思ったとき、さっきとぜんぜん、様子がちがうのに、気がついた。

 アミダ様の絵が、五枚、十枚、じゃない、もっと、何十枚にも増えていた。重なり合って、びっしりと、すき間も無く、貼ってあって、

 それが、全員、


 わたしをじっと見ていた。


 わたしは、長い悲鳴を上げて、ベッドから飛び起きた。

 由美子さんが、わたしの部屋のチャイムを押して、ドアをノックした。

「茉莉さん?茉莉さん?だいじょうぶ?茉莉さん?」


 シンガポールのホテルでの、ことだ。


          ◆ ◆ ◆ ◆


 シンガポールでは、兄の夢を見たり、近くにいるのを感じたり、見かけたと、思ったことも、あった。

 たとえば、空港で。

 たとえば、地下鉄で。


 空港では、ゲートの待合室で、ガラスの向こうを、お兄ちゃんが通ったのを見たと、思った。

 そう言ったら、由美子さんは、悲しそうに「ちがうわ、茉莉さん。今のは別の人よ。」と、言って、呼吸の乱れたわたしの、背中をさすってくれた。


 地下鉄では、わたしは何も見なかった。

 ただ、近くにお兄ちゃんがいる、って、理由も無いのに思って、でもどうにもできなくて、由美子さんに、もう、何も言えなくて、ただじっと、暗いトンネルが流れていくのを、窓ガラスに、泣き疲れて、やつれた、わたしの顔が写ってるのを、見てるだけだった。


          ◆ ◆ ◆ ◆


 わたしと兄は、趣味が合うとか、話が合うとかじゃない。

 もし、兄妹じゃなかったら、たぶん友達にも、恋人にも、ならなかったと、思う。


 二十才すぎて、社会人になって、情けない。恥ずかしいけど、わたしは、兄がいないと、わたし自身が、だめなのだ。

 夜の海に投げ出されたみたいに、どこかに流されちゃいそうで、不安で、さびしくて、たまらなくなる。

 お兄ちゃんに、捨てられることが、この世で一番、怖い。

 好きだから、というのとは、ちょっと、ちがう。

 それは、お兄ちゃんが、わたしのお兄ちゃんだからだ。たった独りの、最後の、家族、だからだ。

(もちろん「お兄ちゃん大好き!」って思う、しゅん間も、「死ぬほど、うざい」ときも、ある。人の心だから、動く。)


 ほんとうは、兄は、ちょっと冷たい人だ。

 わたしには、すごい優しいけど、それは、お兄ちゃんにとっても、わたしが、たった独りの、家族だからだ。

 大人になって、分かった。

 お兄ちゃんも、怖いのだ。

 わたしを、失うのが。


 だからわたしは、お兄ちゃんが死んだなんて、ことを、受け入れるわけにいかない。世界に、わたしだけでも、最後まで。


          ◆ ◆ ◆ ◆


 7年間、お兄ちゃんは、自分独りの力で、わたしの面倒を見ようと、一生剣命だった。

 喜代子おばさんに頼るのを、お兄ちゃんは、すごく嫌がった。だからわたしが内所で、ときどき電話して、相談したりしてたことは、言えない。

(父が死んだ時、おばさんが、わたしを引き取ろうか、って兄に提案したらしくて、兄はそのことを、すごく怒っていた。)


 わたしに、この年まで、彼氏がいないのは、わたしのネガティブな性格と、地味な顔のせいだ。(脚観的に地味だけど、そんなひどい顔では、ないつもりだ。たぶん。かわいいって、言ってくれる、人もいる。諸説あります。)

 お兄ちゃんのせいとは、思ってない。


 けど、夜に男の子と遊んだりは、兄が心配するから(兄は、禁止とは絶対に言わないんだけど、心配されると、罪悪感を感じてしまう。)しにくいっていうのは、ある。それに、わたしを好きだっていう男の子と話しても、遊びに行っても、だれもみんな、兄と比べて、わたしを分かってないし、わたしに興味も無いのに、わたしの表面だけ見て、なのにわたしの内側まで、自分のものにしようとしてるみたいで、抱きしめられても、キスされても、つながらない感じがする。

 だれかがわたしを、欲しがるとか、求められるというのが、分からない。変な言い方だけど、うらぎられたような、気がしてしまう。

 わたしが、そんなふうに感じているのを、Tくんも、分かったのだろう。

「茉莉には、まだ恋愛は無理なんだと思う。」

 なんて言われて、傷ついて、号泣したけど、わたしも、Tくんを、傷つけたのだろう。


 家に帰って、兄と並んでテレビを見てる時、わたしは一番落ちつく。

 そんなとき、わたしも、兄も、それ以上、何も求めていないから。

 二人だけの家族は、なんか、閉じた感じがして、いつまでも、「お兄ちゃんの妹」のままじゃいけない、と思う。けど、あの時間が、どんなに大切なものだったかって、今は分かる。


          ◆ ◆ ◆ ◆


 お仏檀の、写真のお兄ちゃんに、毎朝「おはよう。」を言う。

「ただいま。」も、「おやすみ。」も。

 でもそれは、いつもの出張の時と同じ。

 同じように、わたしは待ってる。

 長い出張。冷蔵庫にはった日程表の、さいごの日付は、ずっと前に、過ぎてしまった。


          ◆ ◆ ◆ ◆


 これ書くの、ちょっと迷ったけど。

 誰も、読むこと無いはずだから、書く。


 父が死んでから、高1くらいまで(Tくんを好きになった時、やめようと思った)、わたしは、時々、兄の布団に入って、一しょに寝ていた。


 もちろん、変な意味は、無い。

 寂しくて、怖くて、寒くて、お兄ちゃんの体が、冷たくなっていないことを、確かめたかったからだ。


 お兄ちゃんは、「茉莉、どうしたの。怖いの?」とか言って、ちょっと横に、動いて、スペースを作るだけで、特に、何もしてくれない。

 わたしは、兄の腕をつかんで、兄の肩に、鼻とかほっぺたを当てて、眠る。兄はじっとしてるけど、温かい。


 朝になったら、いつも、わたしは一人で兄の布団の、まん中に寝てて、兄はどこか、他のとこで寝てた。

 わたしはいつも、少し、兄に悪いことしたような気がした。


 兄の方から、わたしの布団に入ってきたのは、一回だけだ。たしか、高校受験の冬だ。

 もちろん変な意味は、絶対あるはずない。わたしを一番、大切にしてくれるお兄ちゃんだから。


 深夜、わたしが、布団の中で、眠れなかったとき、会社から帰ってきたお兄ちゃんが、スーツの上着だけ、脱いで、ネクタイもしたまま、何も言わないで、わたしの布団に入ってきて、背中から、わたしを強く、思いっきり、ぎゅーっ、と抱きしめた。


 わたしの頭のてっぺんのとこに、顔を押し当ててきた、兄の呼吸は、ふるえていた。ちょっと飲んでたのかも、しれない。

 お兄ちゃん、泣いてるの、とわたしは、思った。


 兄の腕の力が強くて、息が苦しくて、ベルトのバックルが、背中に、強く当たってるのも痛かったけど、わたしは、眠っているふりしてた。

 怖くないし、嫌でもないけど、不安だった。

 いつもは、わたしのために、何かしてくれる兄が、この時だけは、わたしに、何か求めてたから。

 お兄ちゃんも辛くて淋しいんだって、わたしを愛することで、自分を支えてるんだって、分かってしまったから。


 10分くらいで、お兄ちゃんは、腕を離して、わたしの頭をなでて、そっと布団を掛けなおして、行ってしまった。

 わたしを捨てて、どこかに行っちゃうのかな。一瞬、恐くなった。けど、声をかけたりは、なぜか、できなかった。


 朝、兄は普通に起きていた。昨夜のことは何も、兄も、わたしも、言わなかった。今日まで、何も言わないままだ。


          ◆ ◆ ◆ ◆


 シンガポールは、素適な街だ。

 わたしは、英語は苦手だから、いつか、連れて行ってもらおう。美味しいものも、教えてもらおう。いろいろ、可愛いものを、買ってもらおう。ドレスアップして、カジノにも行っちゃおう。

 お兄ちゃんが、もう飛行機に乗りたくなかったら、船で行こう。にぎやかな通りを、子どものときみたいに、手をつないで、歩こう。

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