第4部 ジャスミンの島から

第24章  船頭は王都の船着き場に舟を寄せず、ずっと手前で岸に着けた

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 船頭は王都コタラジャの船着き場に舟を寄せず、ずっと手前で岸に着けた。王都にはドゥルハカ兵や英国兵が入り込んでおり、これ以上近づくのは危険だという。

「どうかお元気で」

 帝釈天インドラとアッラーに僕らの無事を祈ると、船頭は舟を流れに戻した。

 僕らはアディを先頭に、椰子の間の細道を王宮へ向かう。ドゥルハカ兵の目をあざむくため、三人ともできるだけ王女の一行と気づかれにくい格好をしていた。

 アディは特に問題ない。普通の更紗バティック巻衣サルンで、短剣クリスを荷物の中に隠すだけでよかった。

 見た目で外国人と分かってしまう僕は、港市バンダルの華僑商人が使うとう行李こうりを背負い、商品に見せかけるつもりで王女の衣装や装身具をその中に入れていた。

 そして王女は、アディの母親による念の入った着付けで、イスラム教徒の少年に変装していた。

 アディの母親は、王女の長い髪を白いターバンで覆い、この国の人にしては色白の肌が目立たないように、顔に煤を塗った。そしてまだ子どもっぽさの残るすらっとした身体には、カインを胸に巻きつけ、大きめの長衣トーブ上着バジュを重ね着させることで、女性らしさを隠していた。僕の目からは一見男の子とも女の子ともつかず、かえって秘密めいた美しさが際立っているようにも思えたけど、少なくとも王女だとは分からないだろう。

 こうして人目を避けながら、とりあえず王宮までたどり着こうというのが王女の考えだった。王宮に着いてからどうするつもりなのか、そもそも花園の神殿チャンディ タマンサリでどんな夢を見たのか、王女ははっきりとは教えてくれなかった。とにかく僕は運命が許す限り、アディといっしょに王女の力になろうと心に決めていた。

 森の中から、王都のはずれの庶民の集落カンポンに近づき、椰子の木々の間から家々の様子を垣間見ていると、高床式の家屋の床下や柱の周りに、いつもなら見かける子どもたちの姿が見当たらなかった。ベランダスランビや軒下でおしゃべりに興じる老人や女性たちも見えない。一度だけ、果物の籠を抱えた若い女が、足早に家に駆け込むのが見えただけだった。煮炊きの煙はあちこちで上がっている。住民はいるらしい。

「夕方まで待ちましょう」とアディが言った。「暗くなれば、王都に慣れている俺たちに利があります」

 日が沈むのを待って人気ひとけのない王都の街に足を踏み入れ、高床式の家並をくぐり抜けるようにして王宮を目指した。

 家々には生活の気配はあるけど、誰にも出会わない。声もしない。それでもなお慎重に、宮中武官長邸の裏から、辺りに人がいないことを確かめながら表に回り、石畳の広場に出た。

 月に照らされた広場の風景が目に入った瞬間、王女が足を止め、両手で自分の口を覆った。

 僕もアディも、しばらく言葉を発することも身動きすることもできなかった。

「お兄さまは……?」と王女が消え入りそうな声で言った。

 広場は何も変わらない。子どもたちがいつも剣の稽古をしていたテーブル型の岩も、周りを囲む王族たちの邸も変わらない。しかし、最も重要なものがそこには無かった。王宮だ。ニッパ椰子葺きの三層の屋根をいただき、隅々にまで彫刻がほどこされた、あの巨大な工芸品のような王宮が姿を消していた。

「お兄さま!」

 自制を忘れた王女が叫びを上げて駆け出した。僕とアディは慌てて後を追った。

 王宮は別棟に至るまで全て焼け落ち、柱一本すらもとの形では残っていなかった。柱とも梁とも分からない炭化した木材が、奇妙なくらいつやつやとして月の光を反射していた。

 焼け焦げた木材の山を前に立ち尽くす王女に、僕らはかける言葉もなかった。

 あれだけの建物が焼け落ちたのだから、火災のときは焦熱地獄のようだったに違いない。よく王都全体に燃え広がらなかったものだ。しかしそれだけに、失火などではなく人為的に焼かれたのではないかと思われた。

 何が起こったのか分からないまま、王女にとって叔母や又従兄にあたる何人かの王族の邸に行って様子をうかがってみたが、どの屋敷も静まり返って、誰もいないようだった。

「おそらく、殿下ヤン・ムリア宮廷クラトンも、ドゥルハカ国によって港市バンダルに移されたのでしょう」と肩を落とした王女に僕は言った。「それが和平条件の一つだったようですから」

 王女はうなずいて、感情を抑えた声で言った。

「港市へ行かなきゃ」

「ええ。行きましょう」

「どちらにしても行かなければならなかったのよ」

 港市へは陸路でも行けるが、できれば船が欲しかった。背の高い椰子の木が立ち並ぶ道を、僕らは川辺に向かって歩いた。白い砂地の道に大きな木の影が落ちているのを見て、いつだったか、アディと二人で、今とは反対の向きに歩いたことがあったのを僕は思い出した。

 道の終わりが近づき、川辺に立つ港務長官シャーバンダルの別邸の影が見えた。そうだ。僕はあそこで初めてファジャルに出会ったのだ。ファジャルは今どうしてるんだろう。この世でまた会うことがあるだろうか。僕の荷物の中にはまだ、チェスの駒とエメラルドの指輪がある。だけどファジャルとのことは全て、百年よりももっと遠い世界のことだったような気がする。

 港務長官邸に近づかないように大きく迂回して、僕らは船着場に向かった。ドゥルハカ軍はもはや完全に警戒を解いているのか、見張り一人いなかった。

 ここまで乗って来たのとよく似た、布の雨覆いのついた舟が何艘か、荒縄で杭につないであった。僕らは一番小さな舟に乗り、アディが短剣で縄を切った。

 素人が夜に川を下るのが危険なのは分かっていたから、王都から少し離れた森でいったん舟を岸につけて砂の上に押し上げ、朝までその中に潜んでいることにした。

 アディを真ん中に、それぞれの短剣を手に、船底に並んで横になると夜空が見えた。

 工場も自動車も電気の明かりもないこの島の空には、月の光に邪魔されていてさえ、二十一世紀にはとても考えられないほどたくさんの星が、霧吹きで吹き付けたみたいに散らばって青白く光っていた。じっと見ているうちに僕は、僕たちを乗せた舟がゆっくりと宙に浮かび上がっていくような錯覚に襲われた。いっそ本当にそうなってしまえば、アディと王女だけでもこの世界の過酷さから離脱することができるのに。

「お兄さまは、きっとご無事よ」

 誰に問われもしないのに、王女が言った。自分自身の問いに答えるみたいに


   2


 明け方に舟を出して王都を離れ、以前僕がファジャルを助けた急流部の手前で舟を捨て、そこからは陸路で港市を目指した。熟練した船頭ならともかく、僕やアディの技術で小舟を操ってあの流れを越えるのは危険すぎる。ワニだっている。猛獣は僕の得意分野だと思われているらしいけど、冗談じゃない。

 森の中の街道を港市に近づくにつれて、普段通りに暮らす村人や行商人の姿を見かけることが多くなった。この辺りは戦場になったはずなのにと思うと不思議な気がした。

 少し森が開けたところに、竹の縁台を並べて旅人相手に食事を出す茶店のような小屋があったので、僕らはそこに寄って食事がてら話を聞いてみた。

いくさですかい? すぐに終わりましたよ」と、この国には珍しい見事な禿げ頭の亭主が言った。「今は和睦わぼくがなって、港市が新しい都になったんです。王様とドゥルハカ国の姫様のご婚礼があるとかで、この商売も景気がよくなってきました。旦那も都へ商売に行くんでしょう?」

「まあね」と、僕は縁台に腰かけて鶏の串焼きを食べながら答えた。「しかしドゥルハカ国の姫様というのはずいぶん年若いそうじゃないか」

「若いも何も、まだ七つだってんだから、閨房ねやに招いて抱いて寝たところで、子守歌でも歌う他にすることもないでしょうな。へっへっへ」と亭主は笑って、声を潜めた。「なんでもクンボカルノ王子は、自分の花嫁のムラティ王女様に逃げられたものだから、この縁組をずいぶん急いだそうですよ」

 アディは亭主にちらっと険しい目を向け、王女は僕の隣で下を向いて唇を噛んでいた。

 アングレック王は、七歳のピピメラ姫との結婚を受け入れたのだろうか? あるいは幽閉されて、外に向かって意志表示ができない状況に置かれているのだろうか。

「おーい、おやじ、アラクを出してくれ!」

 少し離れたところから若い男の声がした。この島の人々とは少し違う訛りだった。

 黒い上着バジュ頭巾カインクパラを着けた二人のドゥルハカ兵が、ぶらぶらと道を歩いてきて、僕らの目の前の縁台に座った。腰にプダンを帯びた若い大きな男と、マスケット銃を担いだ年長の痩せた男だった。

「ほら、酒だよ。早くしろ」と若い方がいら立ちながら言った。

「あのう、武人サトリア様、まず今までのツケを支払ってもらうわけにはいきませんかねえ?」

「けちけちすんなよ。ほら、繁盛してるんじゃないか。あいつは華僑チナの商人だろう。あいつら金持ってるぞ」若い兵士は僕の方を見た。「おい、お前、チナ、いっしょに飲もうや」

「わたしは……旅の商人でして……」と、練習してあったとおりに僕は言った。「これから、都の王族方に商品をお見せしに行こうと思っているところで、まだ金はないんですよ」

「商品とは何か」と暗い目をした年上の方の兵士が尋ねた。「宝石か。衣服か」

「あ、そういうものもございます。お見せしましょうか」

「いや、いい」行李を開けようとした僕を制止して、彼はアディと王女を指さした。「この子どもたちは何だ。これも商品か。お前は奴隷商人プダガン ブダックだな」

「滅相もない。ただこの子たちに、王族方のお屋敷でご奉公の口がないものかと」

「歳はいくつだ」

「大きいほうが十七、貧弱な方が十五です」僕は心の中でびながら、隣りに座った王女の背中をばんばんと叩いた。「こいつはジャワ人です。まあ言葉も通じませんし、力仕事の足しにもなりゃしませんが」

「いやあ、寂しがってる奥方たちに売れるんじゃねえか? こっちの王族は戦で随分死んだそうだからな」若い兵士は下品に口元を崩し、王女の顔にぐいっと顔を近づけてのぞき込んだ。「こいつなんか、女みたいに可愛い顔してるぜ」

 王女は体を固くして相手をにらみつけた。隣の縁台に座ったアディは、怒りをこらえているのか、荷物の布袋を抱えて、もぞもぞと身じろぎしていた。

「手が小さいな」年上の兵士は何かに思い当たったらしく、王女の全身をじろじろと眺め、いぶかしげに目を細めた。「その子、本当に女なんじゃないか?」

「ご冗談を」僕の笑いは引きつっていたはずだ。「いくら落ちぶれてもそんな商売はいたしません」

「調べろ」

 年上の兵士が命じると、若い兵士は素早く王女の背後に回って片腕をねじ上げ、服の上から身体を確かめるつもりか、彼女の下腹部に手を伸ばそうとした。

「てめぇぶっ殺すぞ!」アディが縁台から跳び上がり、布袋を胸の前で持ったまま、若い兵士の背中に体当たりした。

 驚いた兵士は王女を突き放してアディの方を向き、抜刀して振り上げようとしたが、急に勢いを失ってその場にしゃがみこんだ。

「痛てぇ……何しやがった、この餓鬼……」

 アディが手にした袋からは、中から布を突き破って短剣クリスの刃が飛び出していた。波打った鋭い刃から赤黒い血が滴ってぽたりと落ちた。

 年上の兵士は慌ててマスケット銃をアディに向けたが、近すぎた。そして遅すぎた。アディの回し蹴りを食らってバランスを崩し、彼は宙に向かって発砲した。銃声が鳴り響き、店の亭主は草食動物のように道ばたの茂みに飛び込んだ。

 アディは兵士の顔に蹴りを二発入れ、マスケット銃を奪うと、倒れた持ち主の頭にその台尻を何度も振り下ろし、血で汚れた銃を忌まわしげに道の上に放り投げた。

「禿げのおっさん聞こえるか? お前もこの国の人間だろう。戦は終わってねえぞ!」

「アディ、逃げるぞ」

 僕は青い顔をしたアディの肩を叩き、王女の手を引いて走り出した。

 刺された兵士は死ぬだろう、と走りながら僕は思った。もう一人も死ぬかもしれない。

 死に値する罪が彼らにあっただろうか?

 いや、無かっただろう。

 でもそんな考えには意味が無かった。アディは僕の仲間で、王女は僕の妹なのだ。僕は二人のために出来る限りのことをしてから死ななければならない。それだけだ。

 王女は小さな硬い手で、僕の手をしっかりと握っていた。アディはすぐに追いついてきた。

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