第23章 キジャン、君にひとつお願いをしてもいいかな

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 アディは正装で神殿の扉に向かって座り、瞑想でもしているみたいに動かない。

 なぜかキジャンもいっしょで、腰布一枚でうつぶせに寝転がり、美しいウエーブのかかった長い髪の先で、僕の足をくすぐって遊んでいる。

 そして僕は、カイヌウェランと囲炉裏を挟んで向かい合っていた。

 王女が眠りについて、もう五日目だったが、カイヌウェランが言うには「心臓は動いておるから心配ないよ。十日ほど戻らない者も珍しくはない」ということで、僕らは今日も朝からただ彼女の目覚めを待っていた。

 大祭司は、滝のように首飾りをつけたいつもの装いで囲炉裏の前に座り、竹の棒に刺した小さな魚をあぶっていた。

「海の魚の匂いがしますね」と僕は言った。

聖なる泉マタアイルスチの魚だよ。この間も言ったが、あの底は海につながっておるからな」

「ここは大地の女神デウィアイヌウェルの聖地タナスチだと聞きましたが、海に通じているのですね」

ルアルの人間は、山と海とを反対のものと思うておるようだが、そうではない。海は全ての根源アサルだよ。大地なんて、ひととき水面の上に現れた干潟のようなものさ」

「だから『連れ帰りの方法ウパヤ』で呼び出された僕は、海から浜辺に現れたのですね。でもいったい僕のこの体はどこから来たのですか。百年後の世界から飛んできたわけではないようですが」

「海からだよ。そう言うより他なんとも言えないねえ」

 そう言うと、カイヌウェランは囲炉裏の灰から竹の棒を抜いて、その先に刺した小魚を頭からぺろりと食べた。

「先日、王女と話していた時に、先王ご夫妻を連れ戻すことはできないのだとおっしゃいましたね?」

「うむ。アレクサンドロスイスカンダルすえである王都コタラジャの支配者たちは、亡骸を墓廟マカムに納め永久に残そうとする」と言ってカイヌウェランは首を振った。「しかし、およそ人であるなら、魂が散ったあとの体は、アイヌウェルに返さねばならんのさ。火に返すか、土に返すか、海に返すか。さもなければ、九十九の魂がそろっても、新たな体を得ることはかなわん」

「では、ご遺体を火葬するなり埋葬するなりすればいいわけですね」

「あるいは水葬にするか、鳥や獣に食うてもらうか……、お前さん、お嬢ちゃんのために一肌脱ぎたいのかい? やめておきなさい。あのときあの子に言わなかったこともあるんだ。まあお食べ」

 カイヌウェランは竹の棒に刺した焼き魚を僕の目の前にひょいと突き出した。僕は魚にかぶりつきながら話の続きを待った。カラフトシシャモにちょっと似た白身の魚だ。小骨は多いがなかなかおいしい。

「そもそも、子が生きておる世界に、親を連れ帰って蘇らせることが禁忌ラランガンなのさ。その逆も同じだ。理由も分からんし、嘘かまことかも分からんが、数年のうちに子どもの方が死ぬと言われておる。試そうとは思わんだろう? しかしあのお嬢ちゃんのことだ、自分は死んでもいいと言い出しかねん」

 僕はうなずきながら、小骨の混じった魚の身を飲み込んだ。

「その他にも、危険や禁忌がありますか?」

「いや、特に危険な方法ウパヤではないが……」カイヌウェランは僕の目を見た。「お前さん、ひとつやってみるかね? どうせ親も子もこの世界にはおらんだろう」

「いえ。どうも無理なようです」

 石室からはまだ何も聞こえてこない。

 アディは神殿に向かって祈りを捧げるような姿で、ずっと王女の目覚めを待ち続けていたが、僕はいったんカイヌウェランの家の外に出た。

 梯子はしごを下り、「聖なる泉」に近づいてのぞき込んでみる。

 正方形の石組に囲われた水は澄んでおり、さざ波一つ立っていなかったけれど、深くなるほど明るい水色から濃いブルーに色を変え、さらにその奥は真っ暗で何も見えない。何匹かの小魚の影がちらついた。本当に海に通じているのだろうか。

「そこ、水の上、お茶碗浮かべるの」と、いつの間にか隣に来ていたキジャンが言った。「お茶碗、みっつ、よっつ、もっとたくさん。お茶碗の中、夢香ドゥパミンピ、火、つけて。あなた、水、入る。それから、夢を見るの」

「君は、やったことがあるの?」

「無い。ダラムの人、この方法ウパヤしない。ルアルの人、する。どうして? 外の人、殺すの好きね。だから戻すのも好きね」

「そうかも知れないね」

 だけどダラムのこの平和もいつまでも続かないだろう。ウトモ王に始まる今の王家も外来王朝のようだけど、おそらくダラムの神秘的な力を畏れ、尊重し、滅ぼすことはしなかったのだろう。だけど近代国家は――イギリスにせよ、オランダにせよ、インドネシアやマレーシアにせよ――天然資源と労働力を求め、容赦なくダラムを併合するだろう。

「でも、わたし、おじさん好き」そう言ってキジャンは、おおげさに両腕を広げて、僕の腰に抱きついてみせた。「トラ殺さないから。わたし、カイヌウェラン様とお父さんに話したよ。もし、トラ殺す、カイヌウェラン様、あなたたち会わない」

 このキジャンが、将来はこのヌグリグデの族長になるのだという。おそらくは、最後の族長に。

「キジャン、君にひとつお願いをしてもいいかな」僕はその場にしゃがんで目の高さをキジャンと合わせた。「無理な頼みかも知れないけど、どうか聞くだけは聞いてほしい。無理なら無理でも構わないよ」

 キジャンはうなずいた。だけどその時、カイヌウェランの家の中から物音と、鋭い悲鳴のような人の声が聞こえた。

 僕とキジャンが梯子を駆け上がって部屋に飛び込むと、アディに後ろから抱きすくめられた赤い巻衣サルン姿の王女が、ほどけた髪を振り乱し、白い太ももをあらわにしてもがきながら、喉が張り裂けそうな声で泣きわめいていた。

 膝を蹴られ、腕を引っかかれて血を流しながらも、アディは辛抱強く王女の体を抱いて放さない。

 身軽なキジャンがアディの足下から小さな壺を取って来てカイヌウェランに渡すと、老女はマントラらしきものを唱えながら、壺に入ったハッカ油のような匂いの液体を頭から王女に振りかけた。

 途端に膝から崩れ落ち、それでもなお身をよじって血を吐くような声で号泣し続ける王女を、アディはいつまでも抱きしめていた。


   2


 ダラムの出口まで、キジャンに送ってもらったおかげで安全な最短ルートでたどりつくことができた。

 王都コタラジャ地方ダエラとの境界の川のほとりで、僕らは彼と別れた。

「キジャン、ありがとう。あなたにはいくらお礼を言っても足りないわ」

 王女は黄金の花を一輪、キジャンの髪に差した。

「ダラムの人、『ありがとう』言わない」とキジャンは言った。「ダラムの人、『忘れない』言うの」

 そして王女とアディに順番に抱きついて「忘れない」と言い、最後に僕に抱きついて「忘れない」と言った。「百年、だいじょうぶ。忘れない」

 崖の上のキジャンに見送られつつ、僕らは来たときと同じように手をつないで川を渡った。


 チュマラの茂る尾根を越えて西を目指し、その日の夕方には王都の地方の最初の集落に着いた。山あいの斜面にある辺境の小さな村。アディの故郷だ。

 彼の両親は息子と僕らの無事を喜び、家に迎え入れてくれた。夕食には久しぶりに、内陸ダラムには無かった白米のご飯が出た。野菜の塩漬と蝦醤トラシを少し合わせると、ほんのちょっとだけ日本食を思い出させる味になった。

 これから王都に戻るという決意を告げた王女に、アディの両親は口々に「どうかお止めください」と引き留めようとした。

「この辺境にすら、ドゥルハカ兵が見回りに来ます」とアディの父親である村長プンフルは言った。「姫様が何者かによってさらわれたというので、クンボカルノ王子が躍起になって探しているそうです。どうかしばしこの家に留まって身をお隠しください」

「父上、それは不忠だぞ」とアディが怒鳴った。「姫様が行くと言ったら行くんだ。俺とミナミがお守りする。危なくなんかねえよ」

 それからしばらくアディと父親は島の言葉で何か言い合いをしていたけれど、王女が「村長、聞いてください」と口を開くと、二人とも黙って頭を下げた。

「村長、わたくしの身を案じての言葉、うれしく思います」と王女は静かに言った。「しかしわたくしは、道理を正し、国を守るために、王都に帰って務めを果たさなければなりません。アディの言うとおりです。彼らさえいれば、わたくしは何も恐れません」

「まことに光栄なお言葉です」と言って村長は平伏した。「しかしこのアディに、そのような過分な……」

「いいえ。あなたがたの息子さんは、わたしが最も信用し、頼みとする臣下です。彼の支えがなければ、わたしは王族としての務めを果たすことはおろか、今日まで生きながらえることさえできなかったでしょう。アディがそばにいてくれないと、わたしの心は折れてしまっていたでしょう。明日からも……」王女は身をかがめ、ひざまずいて頭を下げた村長と村長夫人の肩に触れた。「わたくしは王都に帰ります。そして為すべきことをします。どうか、息子さんを、わたくしと王国に捧げてください」

 夫妻はもう何も言わなかった。アディは感激に輝く瞳で王女を見上げていた。


 夜明けとともに僕らはアディの実家を後にした。

 アディは王都への街道を西へ向かわず、夕べ来た道を引き返して内陸ダラムとの境界の川に出た。その理由はすぐに分かった。

 川には、布製の雨覆いのついた小さな船が浮かび、見覚えのある五十過ぎの男が僕らに手を振り、合掌してお辞儀をした。

「これで三度目になりますかね、旦那」そして王女の姿に気づくと、船べりに膝をついて深々と頭を下げた。「このようにみすぼらしい舟に神聖な姫様をお迎えできるとは、光栄の至りです」

「いいえ。素敵な舟だわ。どんな舟よりも速そう」

「もちろんです。姫様のような美人が乗ると、舟も喜んでいつにも増して速く走りますよ」

「余計な事言うな、おっさん」アディは船頭の肩を小突いた。「黙って舟を出せよ」

 王女を雨覆いの下に隠し、僕とアディは船の舳先へさき近くに乗った。朝日を背後に浴びながら、船が走り出す。流れは速い。

 この川が王都を経て港市までつながっていることは前に聞いたことがあった。王都から内陸を目指した時と逆に今度は下りだから、船を使えばかなり時間が短縮できる。

 王都まで川は森の中を流れており、人目に付くことはなかった。途中で漁師や商人の舟を何隻か追い越した。

 一度だけ、かいを手にした十人ほどのドゥルハカ兵と黒人のイギリス水兵が乗った軍船が流れを遡って来るのとすれ違って緊張したが、彼らは前ばかり見て僕らに目もくれなかった。

 僕らの船は、昼過ぎに目的地に着いた。

 すっかり変わり果てた、王都に。

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