第22章 夢の中では、人はそれを現実の世界だと思い込みがちだけど

   1


 スマートフォンの緑のランプが見えた。

 僕はまた、茉莉の夢を見ている。

 和室を青白く照らしているのは、机の上にあるノートPCのディスプレイだった。画面はワードで、何かを書きかけたままだった。パソコンの横には、梅酒が半分残ったグラスがある。氷が融けたあとらしく、色の無い水の層ができていた。

 茉莉は肩まで布団をかぶり、体を横向きにして、ニワトリの形のクッションを強く抱きしめて眠っている。

 部屋の隅にある仏壇には、僕と両親が三人で写った写真と、三つの位牌が置かれている。二つは両親のものだが、左端の一つは新しく、「法名 釈眞洋」と金文字で刻まれていた。本名の――いや、南洋志みなみ ひろしから一字を取ったのだろう。自分の位牌を見るなんて変な気分だ。

 仏壇の主人である阿弥陀如来は、僕たち家族のことを気に留めているような、いないような顔で掛け軸の中に立っている。どうしてこんなものが怖かったんだろう。彼の視線の先には、ガラスの割れた僕の腕時計と、リボンをつけてラッピングされたままの細長い箱が置かれていた。

 僕が見ているのは、たしかに夢だ。でもこの部屋は現実だし、そこで眠っている茉莉も現実の茉莉だ。カイヌウェランが言ったとおり、九十八の魂が僕の体を抜け出し、百年の時を越えて二十一世紀の日本に「旅」をしているのだ。

 夢の中では、人はそれを現実の世界だと思い込みがちだけど、現実そのものを夢として見ていることを自覚しているというのは奇妙な感覚だった。

 茉莉の眠りは深く、僕が枕元に座ってじっと顔をのぞきこんでも反応しない。ほのかに赤い頬をして、ときどき少し深く息をしたり、唇がわずかに動いたりするだけだ。

 夢香ドゥパ ミンピの匂いはしない。畳の匂いと、トマトソースのかすかな匂いと、茉莉の匂いしかしなかった。

 パソコンの画面の隅を見ると、時刻は二時前だった。

 明かりがあるので、眠る茉莉の顔がはっきりと見える。特にムラティ王女に似ているとも思えないけど、僕に似ているのも目元くらいだろうか。化粧を落として眠っている彼女は、王女より子どもっぽく見えさえした。

 何かを訴えるようにうめいて、茉莉は枕の上で首を振った。夢を見ているのだろう。

 見守っているうちに、次第に茉莉の表情がゆがんできた。まつ毛が細かく震え、唇の間から苦しそうな吐息が漏れた。

「茉莉、大丈夫?」

 声をかけても妹は目を覚まさず、悪夢を見ているのか、喉の奥から「ん……ん、ん…」とか細く不安げな声を出した。

 僕は見かねて彼女の肩を揺すった。

「大丈夫だよ、茉莉。怖くないよ」

 パジャマ越しの茉莉の肌は、熱があるのかと思うほど温かかったが、額に手を当ててみると、特に熱くはなかった。

 僕の手の冷たさで目を覚ましたのか、茉莉は薄目を開け、布団から腕を伸ばして僕のワイシャツの袖をつかんだ。

「お兄ちゃん……?」

「夢を見てたんだね?」

「ずっと……。すごく長い夢。砂漠みたいなとこを歩いてて……お兄ちゃんは……お兄ちゃんが……」

 何かを思い出そうとするかのように、眉をひそめて天井に目をやった茉莉の頭を、僕はそっと撫でた。

「何も心配することはないよ。夢っていうのは悪いものじゃない」

「うん」

 茉莉は僕の袖から手を離し、鼻の下まで布団を引っ張り上げて、まだ半分眠ったままの目で僕の顔を見た。僕は胸が詰まりそうだった。二十歳を過ぎ、社会に出ながら、この子はどうしてこんなに澄んだ目をすることができるんだろう?

「なんで……わたしの顔、見てるの?」

「茉莉が僕の顔を見るから」

「だって、夢を……何度も見たんだもん。お兄ちゃん、帰ってきたと思ったのに、目が覚めたら夢だったの。そんな夢。お兄ちゃんは、外国に出張行って、飛行機で……」

「僕はちゃんと、ここにいるよ」

「うん……」

 茉莉はしばらくの間ぼんやりと遠い目をしていたが、突然はっと何事かに気づき、布団とクッションを跳ねのけるように上体を起こして仏壇を振り返り、また僕の顔を見た。

「帰ってきたのね?」

 茉莉はそう叫ぶと、飛びつくような勢いで僕に抱きついてきた。僕はバランスを崩してもう少しで押し倒されるところだった。

「やっぱり生きてたんじゃない。なんでもっと早く連絡くれなかったの? ひどいよ。わたし何ヶ月も、ずっと……」

「ごめん。すごく遠いところにいたんだ」

 茉莉は両腕に力をこめ、僕の肩に顔を埋めて、小学生みたいに「うわあーん」と泣きだした。冷たい髪が僕の頬に触れ、彼女の肌とシャンプーの甘ったるく懐かしい匂いが胸に広がった。

「わたし、死んじゃったって……お兄ちゃん、死んじゃったって思って……ううっ……うぐっ……」

 下着をつけていないらしい胸のふくらみがパジャマを通して腕に当たるのを感じて、僕は身体をよじって体勢を変え、腕を彼女の背中に回した。

 茉莉はそれからずいぶん長い間、時々体を震わせたり、息をつまらせてあえいだりしなから、何も言わずに僕の胸で泣き続けた。僕は背中をさすってやった。

「……シンガポールまで行ったんだよ、わたし」と、やがて口を開いた茉莉は言った。「お兄ちゃんの会社の、ユミコさんて人と一緒に。でも、航空会社も、分からない、見つからないって言って、分からないのに、全員絶望だって言って、時計だけ見つかったって……。みんな、お兄ちゃんは死んじゃったって……」

「そうか」僕は茉莉の背中をぽんぽんとたたいた。「大変だったね。心配かけたね」

「わたし、絶対死んでないって、お兄ちゃんが茉莉をひとりにするはずないって、言ったのよ。言ったのに、でも、諏訪の喜代子おばさんが……お葬式して、お仏壇におまつりしないと、お兄ちゃん、海の底でひとりぼっちだって……そんなの……ごめんなさい、わたし、そんなの信じてないけど……」

 亡き祖母の妹にあたる喜代子おばさんは、ずっと僕らのことを気にかけてくれていたけど、なにしろ昔の人なので、考え方が合わないことも多々あって僕は敬遠していた。だけど、今回のことは感謝したほうがいいのだろう。

「喜代子おばさんは悪い人じゃないよ」

「分かってる。でもやっぱりお兄ちゃんは生きてた。生きてたじゃない」

「帰って来れたのは、茉莉がお仏壇に祈ってくれてたおかげかもしれない。そんな夢を見たよ。茉莉が僕のために祈ってくれる夢を」

「わたしも、何度も、何度も何度も夢を見たんだよ。お兄ちゃんを探す夢とか、お兄ちゃんがわたしを探してる夢とか、お兄ちゃんが帰ってくる夢とか。今度こそ夢じゃなかったと思って、でもやっぱり夢だった夢とか、夢だと思ったら夢じゃなかったっていう夢とか……」

「でも夢が本当のことを教えてくれることもある。茉莉が僕の夢を見るときは、僕は本当に茉莉のそばにいるんだ。そのことは忘れないでね」

「……夢じゃないよね? これは」

「もちろん夢じゃないよ。これは現実だ。でも、茉莉はたぶん、このあとでもう一度目を覚ますことになると思う。その時、茉莉は、今のこのことを夢だったと思うかもしれない」

「……何それ? 分かんないよ」茉莉は顔を上げて、すがるような目をして言った。「これも夢なの? ねえ、違うよね?」

「夢じゃない。でも僕はまだ、100パーセント帰ってきたわけじゃないんだ」

「何言ってるの。お兄ちゃん今ここにいるじゃない……」

 茉莉は両腕にさらにぐっと力をこめ、涙と息で熱く湿った僕の右肩に、強く顔を押し当てた。

「茉莉、よく聞いて。僕は必ず帰る。約束するよ。そのために、今から大事なことを言うから、絶対忘れないで、目が覚めたらすぐに、そのことを確認してほしい」

「やだ。このままずっと起きない」

 頭を振る茉莉の両肩をつかんで体を引き離し、僕は彼女の赤い目に語りかけた。

「お願いだから、お兄ちゃんが今から言うことをよく聞くんだ、まりちゃん。いいかい?」


   2


 後で聞くと、僕は神殿の石室で三日間眠り続けていたということだった。

 魂のほとんどが一旦抜けて、また帰ってくるというのは、肉体に随分負担をかけることだったようだ。目覚めたあと僕は歩くことも立つこともできず、アディとキジャンによって村に運ばれ、翌朝まで部屋で寝転がったままだった。

 ようやく動けるようになり、昼前に村の沐浴場に行くと、先日の早朝と違って人の姿はまばらだった。

 濡れた巻衣サルンを腰に巻いたアディが水際の石段に座って、ぼんやりと水面を眺めていた。王女と同じくらいの年代の村の娘が、女神像の手から流れ落ちる水を頭から浴びている。下半身は石の塀で隠れているけど、腰から上はチョコレート色の肌を隠そうともしていなかった。

「おい、アディ」僕は後ろから彼の肩を叩いた。「女の子の水浴びをじろじろ見るんじゃないよ」

「馬鹿。見てねえよ。ただ座ってるだけだ。あんたと姫様が夢を見ている間、俺はすることがないからな」

「今は王女が石室にいるのかい?」

「ああ。昨晩からだ。どんな夢をご覧になってるのか……」

 僕はアディの隣に座った。

「アディ、王女を支えて差し上げてくれよ」

 村の女の子が沐浴場を出ていくのを横目でちらっと見てから、アディはため息をついた。

「そのつもりだ。だが、俺は姫様のために何もできなかった。姫様が火傷をなさるのも止められなかった。虎を倒したのも俺じゃない。あんただ」

「倒してないだろう」僕は苦笑した。「そもそも君がいなければ、僕も王女もここまでたどり着けなかった」

「最近、姫様は……姫様は、俺よりあんたのことを頼りにしているんじゃないか」アディは恨めしげな目で僕を見た。「ここに来た最初の晩、夜中に姫様と何か話してたろう?」

 なんだ。やきもちじゃないか。僕は思わず笑ってしまった。

「馬鹿言うな。王女を守れるのは君だけだし、王女がいちばん頼りにしてるのも君だよ。これから五十年間、君が王女をお助けするんだ」

「五十年?」

「君には言っとくよ。いずれこの島は、異人フランキの支配下に置かれる。この海域の島々のすべてが、今後十数年のうちに英国イングリス阿蘭陀ブランダ国の手に落ちるはずだ。彼らの知識の力には、僕らは勝てない。彼らと島の人々との間に立って民衆を守るのが、王族や君たち廷臣アブディの務めになる」

 アディは途中までぽかんとした顔で聞いていたが、だんだん真剣な顔になった。

「それは……夢の予言か?」

「百年の夢の予言だ。山川の世界史にも書いてある。確かなことだよ」

「俺は、何をすればいい」

「絶対に、ドゥルハカ国に王女を渡しちゃだめだ。君がそばでお守りするんだ。彼らはお体の弱いアングレック王を思うままにして、この島の富を異人に渡し、自分たちは異人の帝国クマハラジャアンの中で安泰な地位を占めるつもりだろう」

「ああ」アディは目を伏せてうなずいた。「その通りだろう」

「こんなことは言いたくないが、もし仮に――仮にだぞ。クンボカルノ王子とムラティ王女の間に生まれた王子が、この国の次の王になったとしたら、君はその王に仕えることができるか?」

 アディは顔色を変えて何か言おうとしたが、僕は話し続けた。

「属国の属国になってはいけない。クンバンムラティ王国として、異人と直接交渉すべきだ。異人が求めるのはつまるところ実利だ。実利と引き換えに、できる限り島人の命と暮らしを守るんだ。今から四十年後には大きないくさがあって、異人たちは国に帰るだろう。そして五十年後には新しい世界が来て、新しい国々が立つ。それまで君は、おそばで王女を支え続けてくれ」

「もちろん俺は姫様のためなら何でもする」アディは頭を抱えて、苦しげに絞り出すように言った。「だがあんたと姫様の間にあるような特別なごタリアンが、俺には無いんだ……」

「あるさ。君は王女を愛しているんだろう?」

 アディは顔を上げて、泣きそうな目で僕を見た。

 僕は沐浴場の澄んだ水に、どぼんと跳び込んだ。

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