エピローグ

 成田への便は天候のせいで大幅に遅延し、僕らはシンガポール空港で五時間以上つぶさなければならなくなった。

 幸い、空港というより巨大ショッピングモールとしか思えないようなチャンギのターミナルには、レストランやカフェがいくつもある。僕と茉莉は日本のファミレスと変わらない味の親子丼と天ぷらうどんを食べながら、満面の笑みを交わしあった。

 食後にカフェで冷たいものを飲んでいたとき、「わたしちょっとお手洗い行ってこようかな」とトートバックをごそごそし始めた妹は「あ、そうだ。これを忘れてたよ」と、何か薄いものが入った茶封筒を引っ張り出してテーブルに置いた。

「これ、アイシャさんがくれたの。お兄ちゃんに読んでもらったらいい、って」

「空港に見送りに来てくれてた人だね」

「うん。めっちゃいい人だよ。お礼、一円も受け取ってくれなかった。お殿様の孫なんだって」

「お殿様……?」

「これ本なんだけど、英語なんだよね」

「ふうん」

 絶対ここにいてねと言って、茉莉はトイレのサインを目指して行った。

 僕は封筒の中の本を取り出してみた。

 なんだ、茉莉ときたら。英語とインドネシア語の区別くらいつくだろうに。どうせ読めないと思ってろくに見てもないな?

 古そうな本だった。私家版だろうか、簡単なホチキスどめで、表紙は白黒、イラストも写真も無い。タイトルは旧つづりのアルファベットで、こう書いてあった。


 Sedjarah Radja-Radja Kembangmelati


 胸の奥を誰かに掴まれたような気がした。

 クンバンムラティ諸王記。

 いつか、港務長官邸のあの部屋で、ファジャルが僕に読み聞かせてくれた本の題だった。

 奥付にはマリムラティ県伝統文化協会の名と、一九六〇年代の発行年がある。文字はローマ字化され、目次やページ番号もある近代的な本の体裁になってるけど、拾い読みしてみた内容は、記憶にあるものと全く同じだった。

 違うのは、ファジャルが読んでくれたバージョンでは第七代チュンペダック王で終わっていた記事に、第八代と第九代、さらに第十代アングレック・シャー王とその妹、第十一代ムラティ女王の章が加わっていることだった。

 しかしこの四代の王についての記述はごく簡単で、生没年と在位期間以外にはほとんど何の情報もなかった。第九代国王の毒殺についての記述は無く、アングレック王は「英国と屈辱的な条約を締結。きさきなし、在位三年にして病弱のため退位」とあるだけで、他の事績じせきや人となりについては何も書かれていなかった。

 アングレック王は、退位の翌年に崩御していた。すでに玉座にあったとはいえ、ムラティ女王はまだ十六か十七だったはずだ。どんなに悲しんだことだろう。

 最後の国王となった彼女は、オランダ統治下の約四十年間在位し、共和国独立後に退位して、その後六十七歳で亡くなっていた。

 あの子はぎりぎり、僕らの父と同じ時代を生きていたのだ。

 女王の人柄や業績については「今なお島民の記憶に新しい」の一言で片付けられていた。港務長官カシムや、その娘ファジャル、宮中武官アディなどの存在については、一言も触れられていなかった。

 少し落胆しつつ、それでもこの薄い本を愛おしく感じながら最後のページを開いた僕は「あっ」と声を上げた。

 あの子だ。王女だ。白黒で写りも悪く、印刷も粗悪だったけど、そこにあるのは確かに、ムラティ王女その人の写真だった。

 おそらく港務長官邸の一室と思われる室内で椅子に座った彼女は、半ば以上が白くなった髪をひっつめにして結い、金か銀かの花を挿していた。少女のころと変わらないほっそりした体を、レースのついた上着クバヤと、おそらく茶色の古典模様のジャワ更紗バティック巻衣サルンに包み、西洋風のサンダルを履いている。

 六十歳を過ぎているのだろう。顔や手に年相応のしわがあるのが見て取れはしたが、ピントが甘いせいもあってか、面差おもざしは驚くほど変わっていない。口もとには笑みをたたえながら、あの強い意志を感じさせる視線を真っ直ぐにカメラに向けていた。

 そしてその隣で、椅子の背もたれに片手をかけて立っている、白っぽいジャケットにネクタイと巻衣サルンという姿の年配の男性は、髪が白く薄くなり、体型も変わっているが、見間違えようもない、わが友アディだった。背中に差した短剣クリスつかの一部が見えているだけだったが、僕が王女からもらったあの短剣のように見えてしかたがなかった。

 写真の下には「退位後のムラティ女王と、晩年に結婚した夫」とだけ書いてあった。

 二人の間にある空気は、少年少女だった頃のままに見える。ここに至るまでになにがあったかは分からないけど、アディは最後まで王女を支えて役割を果たしたのだ。

 茉莉が帰ってきたときにまた泣いているのは嫌だから、僕は本を茶封筒に戻してショルダーバッグにしまって膝の上に抱き、顔を上げて遠くに目を向けた。

 カフェの外はムービングウォークのある広い通路で、欧米やアジアのブランドのきらきらしたショップが並び、見上げても見えないくらい高いガラスの天井の下を、多くの人が行き交っていた。チャドルで顔を隠したアラブ女性、インド系らしい老夫婦、中国系のビジネスマンの一団、大荷物のマレー人の家族連れ。その中に、僕は彼女を見つけた。

 髪を下ろしてしまい、サマードレスの上にパーカを羽織り、寄り道して買ったらしいTWGの紅茶の紙袋を腕にかけて、肩をきゅっと上げた彼女は、ずらっと並んだショップをきょろきょろ見ながら、僕のほうに向かって歩いてくる。王女でも女王でもない、ただトイレから戻ってくるだけの妹のその姿が、僕にとっては何よりもとうとく、得難いものに思えた。

「おまたせー」テーブルに戻ってきた茉莉は、さっきまでよりちゃんとメイクをしていた。「これ買っちゃったよ。このフレーバー、日本では売ってないんじゃないかなあ。有給使い切っちゃったのに無駄遣いしてる場合じゃないんだけどね」

「茉莉……」

 僕の真剣な顔に気圧けおされて、茉莉も真顔になった。

「えっ? なあに?」

「ねえ、うちの子になってくれて、僕の妹に生まれてくれて、ありがとう」

「あ……うん? どういたしまして……。うん……?」

「いや、ちょっと思ったんだ。茉莉は自分の意志で、僕を兄に選んで生まれてきてくれのかもしれないな、って……」

「お兄さま?」茉莉は眉をひそめた。「お言葉ですが、それちょっとキモいです……」

「そうだね」僕は頬が赤くなるのを感じた。「ごめん」

「でもね、たしかにわたしも、ちょっと考えたの、今度のことで。わたしがお兄ちゃんと兄妹に生まれてきたのには、何か意味? みたいなのがあるんじゃないかって。ママが死んで、パパも死んで、お兄ちゃんがいなかったらわたしはだめだっただろうけど、わたしもお兄ちゃんに……」

 茉莉はまた僕の手に左手を重ねようとして、指先が触れたところで照れ笑いして引っ込めた。

「じゃあさ、お兄ちゃん、そろそろ話してくれる? あの手紙は何? いったいぜんたいお兄ちゃんに何が起こったの?」

「話はまず、一一五年前にまでさかのぼるんだけど」

「うわっ」妹は目をまるくした。「その話、長くなるわね。茉莉、ちょっとチョコフラペチーノたのんでくる……」

 くるりと席を立ってカウンターに向かう茉莉の後ろ姿に、僕は本人の耳に聞こえないような小さな声で、もういちど言った。

私の妹に生まれてくださってトゥリマカシ トゥラ ラヒルありがとうございますスバガイ アディッ サヤ



(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ジャスミンの島の物語 猫村まぬる @nkdmnr

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説