第4章 7
しのぶちゃんは、気づいたら京都タワービルの屋上――京都タワーの根っこの部分にいた。
「ヘル子さん……」
「急げ。大丈夫だ。やつはあれぐらいでは死なぬ」
背中のハネが言った。
「……わかった」
しのぶちゃんは携帯を開く。十一時四十五分。ここから展望室までは、七十メートル近くある。エレベーターに乗れば一分足らずでつくはずだ。
――なんとか間に合うかな。
しのぶちゃんは屋上から、建物の中に入った。幸い、鍵は掛かっていなかった。
階段を上り、タワーのエントランスに出た。
そこに、三人の巫女がいた。
しのぶちゃんは身をこわばらせる。
「……あなたは?」
彼女たちのほうは、突然現れたしのぶちゃんに驚きはしたが、特に攻撃的な態度は見せなかった。
「まさか、魔物? 強い凶の気が近づいていましたが」
「いえ、そんな気配はありません。むしろこれは――」
しのぶちゃんのリュックにいたハネが言葉を発した。
「ご苦労。あとのことは、この者が引き継ごう」
巫女のひとりが目を丸くした。
「あなたは……賀茂建角身命【かもたけつぬみのみこと】? ではこの方が、正式な征夷を取り仕切る者?」
何のことかよくわからなかったが、とりあえず自信満々にうなずいてみた。
「では、ついに魔王を討伐に――」
「まあ……そんな感じです」
「しかし、先発隊が行ったきり、エレベーターは両方とも上で止められています。上に行くには、非常階段で行くしか……」
「……わかりました」
ここからなら、六十メートル近く。たしか、二八五段、と聞いたことがあった。気が重いが、行くしかない。
そのとき、後ろでエレベーターの扉が開いた。
息を切らせて、巫女が走ってきた。
「先ほど魔物が――」
彼女は言いかけた言葉を、止めた。見開いた目で、しのぶちゃんを見ている。
「そ、そいつ!」
――まずい。
さっき、このビルの前で弓矢を放ってきたうちのひとりなのだろう。しのぶちゃんの風貌を覚えていたらしい。
しのぶちゃんは階段のほうに向かおうとするが、反射的に周囲の巫女が取り押さえた。
「そいつ、魔物の後ろにいた人です!」
しのぶちゃんはうつぶせに床に組み伏せられ、両手足を巫女たちに押さえつけられる。
「……今ひとつ状況がわかりませんが、どうやら、あなたをこのまま通すわけにはいかなくなったようですね」
戸惑いながら巫女が言う。押さえ込む力にはためらいはなく、振りほどくことはできなかった。
ハネが言う。
「待て。離してやれ」
「なりません。まず説明をしてください」
「そんな時間――」
しのぶちゃんはうめくが、力が緩む気配はない。
――こんなところで捕まるなんて。
もう少しなのに。
こんなところでおしまいなのか。
そう思ったとき――大きな影が動いた。
それは、京都タワーのマスコットのとわわちゃんだった。京都タワーをデフォルメしたかたどった、どこかとぼけた表情がチャーミングなキャラの着ぐるみだ。
そのとわわちゃんが、メイド服を着ていた。
「な、なんで?」
巫女たちがあっけに取られる。
その一瞬の隙をついて、とわわちゃんがタックル。しのぶちゃんを押さえつけていた巫女たちが転がされた。
しのぶちゃんは立ち上がり、階段を駆け上る。
「ま、待て!」
「なっ――ちょ、とわわちゃん、強い!」
エントランスから悲鳴がこだまするが、しのぶちゃんは気にせず階段を二段飛ばしで登っていく。
展望食堂の階を抜けると、本格的に非常階段になった。薄暗い明かりの中、延々と螺旋階段が続いている。壁には、展望室まで五十メートル、という表示。
ラストスパート。
しのぶちゃんはコートを脱ぎ捨て、リュックを背負いなおすと、最後の階段を登り始めた。
手すりを使って、一気に駆け上る。最近、走ってばかりだな、と思った。
これだけ走っているのだから、少しは体力がついたかもしれない。
「……はあ、はあ……」
すぐに自分の考えが浅はかだったことに気づく。そんなに簡単に体力がつくはずがない。
苦しい。
息をしても楽にならない。どんどん苦しくなっていく。
息が上がり、唾液がのどに粘りつく。不規則な息で唾液が肺に入り、むせた。咳をした勢いで歩調が乱れ、段を踏み外した。
「――うあっ」
倒れる。
段に打ち付けたすねが痛い。靴下の中で温かいものが広がっていく感触がする。血が出たのかもしれない。
「なにをへばっている。ここで自分に負けるつもりか」
ハネがリュックの中から飛び出した。
体が軽くなった。
――あんたのせいじゃない。
文句を言いたかったが、乾いた息しか吐けなかった。
そんな気持ちなど露知らず、ハネは階段を軽快に駆け上っていく。階段にこすれそうなほど蓄えたお腹の肉が、たぷたぷと横に揺れる。
――そんな身軽なら先に下りときなさいよ!
表に出せない怒りが体の中で燃え上がって、変な活力になってきた。
――ああ、もうっ!
こうなったら使えるものはなんでも使う。
ハネへの苛立ちを燃料に、しのぶちゃんは立ち上がり、階段登りを再開した。
――こっちは、病み上がりなんだってば。
くらくらする。
手すりに文字通りすがりながら、階段を上る。壁に『展望室まであと二十メートル』の表示。まだ半分くらい残っている。
「急げ。時間がないぞ」
ハネがせかす。
もう怒りも沸いてこない。ただひたすら、足を動かすことだけ考えた。
――ほのか様。
「しのぶ!」
ハネの叫ぶ声。
「……え?」
見あげると、竜がいた。冗談じゃない。狭い階段に無理やりねじ込んだ状態で、大きな顎を持った黒い爬虫類がしのぶちゃんを見下ろしていた。
動けない。
ほとんど反射的に携帯を持ち上げる。重い。めちゃくちゃ重い。
竜の顎が開く。黄色く染まった牙が見える。恐ろしいな、と思うより、汚いな、と思った。
――ダメだ。
しのぶちゃんが目を閉じる寸前。
竜が、花に変化した。
「僕はやることやってきたよ」
チルが、花の中心に立っていた。
へばっているしのぶちゃんを見下ろす。
「はっきり言って、僕のほうが疲れている。ドローミを破ったら、グレイプニルが思いっきり締め付けてくるんだ。そのまま京都中を走らせやがって。お前だけ楽な思いするなんて、許さない」
「……わかってるわよ」
しのぶちゃんは思い出した。
マコト。
ヘル子さん。
ハネ。
そしてチル。
自分がここにいるのは、いろんな人たちのおかげだということ。
ここで自分が、日頃の運動不足なんて間が抜けた理由でへまをしてしまったら、そのまま京都タワーから飛び降りるしかない。
なにより――ほのか様をこのまま返すわけにはいかなかった。
しのぶちゃんは階段を三段飛ばしで駆け上がる。
苦痛なんか無理やり頭の外に押し出してやる。息がつらければ吸わなければいい。足が動かないなら腕で持ち上げる。
やがて――視界が広がった。
「……ついた」
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