第4章 5
自転車が世界でもっとも速くなる場所はどこか?
それは観光シーズンの京都である。
バイクも自動車もバスも地下鉄も、京都市内であるのなら、自転車の速度には及ばない。
観光シーズンの京都の車道は、高濃度コレステロールを蓄えた血管よりも詰まりやすい。道も狭く信号や一方通行も多く、なにより車が多い。
一方、自転車ならどれだけ車道が混雑してようと関係ない。その気になれば信号無視も容易にこなせる。
そして今まさに、その気になったマコトが川端通を南に爆走していた。京都は若干ながら北から南に傾斜ができているので、二人乗りでありながらスピードはかなりのものだった。
荷台にはしのぶちゃんを乗せている。さらにしのぶちゃんの背負うリュックの中からはハネが首を出していた。
夜ということもあり車の量も減ってはいるが、信号の多さは変わらない。そこを平然とスルーしていく。
いつのもしのぶちゃんならありえないことだが、今はこの軽快さが頼もしい。
「……うにゃむ……にゃむ……」
背中でハネが寝言のようなものをつぶやいている。他の神様と交信しているのだろう。
「にしてもねーちゃん、どうすんだよ! よく考えたら、京都タワーとっくに閉まってるぞ!」
風圧に負けない声でマコトが叫んだ。
「わかんない! 行ってから考える!」
マコトの体にしがみつきながら、しのぶちゃんもやっぱり大声で返答した。
強引に入るか、時間稼ぎをしてくれているはずのヘル子さんに手引きしてもらうかだろう。
サイレンが近づいてきた。振り返ると、白バイが近づいてくるのが見えた。
「警察だよ」
「やばいな。こんなときに」
右手――鴨川をはさんだ前方に、ライトアップされた京都タワーが見え始めていた。
「そこの二人乗り、ただちに止まりなさい」
警官が拡声器で命じてきた。
「白バイがチャリ止めるなよ」
マコトがぼやく。
それで、しのぶちゃんがふと気づいた。
このタイミングで警官が現れるなんて、少しできすぎている。
携帯を取り出し、カメラを起動。封印モードに切り替えて、白バイ警官を映してみた。
「――魔物だ」
白バイ警官の体から黒いモヤが出ているのが、カメラの中に映っていた。
「封じるのか?」
「ダメだよ。今封じたら、乗り移られてる人が事故を起こしちゃうし」
少し考えてから、続ける。
「なるべく、魔物も封じたくない」
「わかった、捕まってろ!」
マコトはハンドルを右に切り、道を横断、車道の脇の茂みを突っ切って歩道に乗り上げる。が、ハンドルはそのまま、川のほうに突っ込んだ。
「え!」
鴨川の土手を一気に下る。体が浮かび上がる感覚。土手の斜面にぶつかり、前のめりになりそうになる。ほとんど落下に近い。
「うわぁぁぁぁ!」
ちなみにしのぶちゃんは絶叫系の乗り物は大嫌いだった。
自転車がバラバラになりそうな衝撃とともに、自転車はワンバウンド。どうにか、土手の下の下の小道に着地できた。
しのぶちゃんは落ちてきたところを見上げる。三、四メートルはあった。茂みから落ちた葉っぱがぱらぱらと散っている。
「バカじゃないの!」
しのぶちゃんがマコトの耳元で叫んだ。
「うるせえ。急いでるんだろ」
「死ぬかと思ったよ……」
「死ぬ気で飛んだからな」
マコトがこぐたびに、変な金属音がするようになった。が、一応は走るようだ。
「あとは七条の辺りで上に戻って橋を渡れば、すぐに――」
川の音と風の音の合間に、エンジン音が聞こえた。
「え?」
振り返ると、さっきの白バイが、マコトと同じコースを降りてきていた。さすがに一気に下るような無茶はせずゆっくりと安定した降下。数秒でマコトと同じ道に降り立つ。
「追いかけてきたよ!」
「くそっ」
白バイがどんどん距離を詰めてきた。
「ねーちゃん、泳げるよな!」
「鴨川のこと? む、無理だよ! けっこう流れあるし!」
先日降った雪が今日の暑さで溶けて水になったのか、水量も多かった。泳ぐなんて無理だ。
「じゃあどうすんだよ! 捕まんのか?」
「ぐっ――」
そうだ。
無理なんか承知だ。
「わかった、行く!」
「俺はあいつを押さえる。ちょっとくらい時間稼ぎはできるから、急げよ」
マコトは自転車を横に滑らせ、バイクの進行を妨げるようにして止める。
だが――。
「止まれッ!」
しのぶちゃんはそちらを見て、凍りついた。
通りの外灯の光でおぼろげにしか見えないが、バイクを降りた警官は両手をこちらに向けている。
黒い何かをにぎっていた。
しのぶちゃんはとっさに携帯を出そうとするが、
「動くなッ!」
再度の忠告に、動けなくなった。
ようやく気づく。
彼が握っているのは拳銃だった。
――そりゃ反則だよ。
携帯カメラなんてものより、よっぽどおっかない武器だ。
マコトも動けないでいた。というか、動かないでほしいと思った。下手に動いて、傷ついてほしくない。
急に――背中が軽くなった。
「なっ――」
警官の銃口が動く。その先にすばやく動く黒い影があった。
「ハネさん!」
超ぽっちゃり体型のくせにすばやい。稲妻のようにジグザグに駆け抜け、警官の腕に爪を立てた。
「ぎゃ」
警官は悲鳴をあげる。拳銃こそ落とさなかったが、体勢が崩れた。
マコトが動く。腰を落とし警官の足元にタックル。警官は地面に叩きつけられる。そのまま押さえつけたかに見えた。
が――
「うお――」
マコトの声が遠のく。水飛沫の音が続く。
「マコト!」
川に落とされた。圧倒的体勢から、警官がマコトの体を巴投げのように足で投げ飛ばしたのだ。五、六メートル近くは吹き飛ばされていた。
立ち上がった警官の体は筋肉が隆起し、制服がはちきれそうになっている。携帯なんか見なくてもわかる。こいつは、魔物だ。
とっさに携帯を振り上げる。
が、警官が発砲するほうが先だった。
「ですっ!」
カン、という甲高い音が響く。
闇夜に翻るメイド服。
しのぶちゃんの前に立ちはだかったヘル子さんが、手にしたフライパンで警官の銃弾を弾き飛ばした。
「フライパンは鉄製に限るです。油のなじみよく熱の通りもよく、銃弾さえも弾き飛ばしますです」
「ヘル子さん!」
「夜のヘル子は向かうところ敵なしですよ」
「じゃあ俺も助けてくれよ……」
下流のほうで岸にたどり着いたマコトがぼやくが、ヘル子さんには届かない。ヘル子さんは地獄耳だが、自分に都合が悪いことは全スルーなのだ。高機能。
魔物が突然の闖入者にたじろいだ。
「ヘル子殿……魔王様が立派な魔王となることを誰よりも喜んでいたあなたが、なぜ妨害する人間を助けるのだ」
「別にヘル子はほのか様に魔王になってほしいわけじゃないです。ほのか様が幸せになっていただくことこそ、ヘル子の望みなのです」
フライパンを警官に向ける。
「さっさとその体を解放して、魔界に帰るです。それとも、冥土に叩き込まれたいですか?」
「――ぐぬぅ」
一言うめいた瞬間、警官はその場に崩れ落ちた。体も元に戻っている。魔物が抜けたらしい。
「お姉様、だいじょぶですか?」
ヘル子さんが振り返った。
「大丈夫だけど……時間稼ぎのほうは?」
「あっちは別にヘル子がやらなくてもよさそうだったです。それより、お姉様の到着を急がないといけんのですよ」
ヘル子さんはエンジンのかかったままの白バイにまたがる。
「お姉さま、後ろに乗るです」
「う、うん」
しのぶちゃんはハネをリュックに詰めなおす。ハネが言った。
「明かりのほうはなんとかなりそうだ。が、別のほうが難しい。たしかに我々にもメリットがあるが、リスクも大きいからな。まあ、説得は続けるが」
「ありがとう」
「それと、急進派が動いたらしい。バカな連中だが――うまくすればやつらにも貸しを作れるかもしれん」
警官のヘルメットを拝借して、ヘル子さんの後ろにまたがった。
ずぶ濡れのマコトが自転車を立ち上げ、進行方向を空ける。が、自転車の前の車輪が外れて落ちた。舌打ちをして、マコトは車輪を蹴飛ばした。
「ねーちゃん。がんばれよ」
「うんっ」
力強く答えると同時に、ヘル子さんがスロットルを開く。
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