第1章 2

 平安神宮から南に伸びる神宮道をしのぶちゃんはひとりで歩いていた。

 神宮道は平安神宮から円山公園まで南北に伸びる一キロ少々の短い通りだ。しかし府立図書館や美術館が林立し、三条通をまたいで青蓮院や知恩院につながる京都観光の要所が詰まっている。平安神宮の大鳥居もこの通りにかかっていた。

 普段は観光バスが行き交い、人力車やタクシーが客待ちで並ぶ、わりとにぎやかな通りなのだが、早朝なのと積雪のせいか、今は驚くほど静かだ。雪を踏む足音しか聞こえなかった。

 大鳥居を抜けて、慶流橋に出る。下には琵琶湖から引いた水が川となって流れていた。

 この川は今の時期は十石舟を出して、川沿いに咲く桜が見れるのだが、今年の桜は異常なほど咲くのが遅れて、まだ枯れ木同然だった。

 橋を渡り、しのぶちゃんは赤信号で立ち止まる。車はまったく通っていない。しのぶちゃんは左右を見て少しだけ迷うが、結局渡らない。車が通らなくても信号無視は気持ちが悪かった。

 待ってる間、左手に連なる東山の峰峯を見やった。京都にきて二年。見慣れたはずの山並みは、雪に染まって少し変わって見える。

 ――私も、変われるだろうか。

 二年前。中学に転校して卒業するまで、しのぶちゃんはこの雪景色の中で立っているのと同じようなものだった。誰もいない景色。色のない風景のなかで、ただひとり立つ異邦人。

 二年もの間、ずっとあだ名は「転校生」のままだった。

 いじめられるようなことはなかった。みんな親切にしてくれたし、よくしゃべる相手だって何人もできた。

 けど、最後までしのぶちゃんは敬語で話すのをやめられなかった。

 みんな親切にしてくれるが、それはお客さんに対する親切さみたいなものだった。楽しくはなすことはするけど、誰かと一緒にどこかに遊びに行くようなことはほとんどしなかった。

 雪合戦はしないんじゃない、できないんだ。

 足元の雪を掴み、玉を作る。わりと水気の多い雪で簡単に丸くなった。それを手に、周りを見る。人影はない。

 思い切って、雪球を道の向かいに投げつけた。

 雪玉はしのぶちゃんのわだかまりを推進力に孤を描く。やがてエネルギーは霧散して、重力にしたがい高度を落とし、コンビニの駐輪場の前に転がった。

 その先に猫がいた。

 でっぷりした黒猫だ。左の前足だけ白いので、一瞬、三本足に見えた。コンビニの軒下にちょこんとすわり、口に魚の骨をくわえている。自分のほうに転がってきた雪玉を目で追って、次に投げてきたしのぶちゃんのほうを見た。

 猫が目を細める。

 「人間様のやることはわからんにゃあ」とか言われてる気がして、しのぶちゃんは急に恥ずかしくなってきた。

「お待ちなさい!」

 そんな声が聞こえた。

 コンビニの影から、髪の長い女の子が姿を現した。背はわりと高く、目を閉じてるように見えた。しのぶちゃんと同じ制服を着ている。

「ヘル子さんに調理されてわたくしのお腹のなかに収まりなさい!」

 そう言って、猫に飛びかかった。捕まえようとしているらしい。猫はひょいとたやすく彼女の手から逃れ、そのまま走り去って行く。

「お待ちな――ぶっ」

 すぐさま追いかけようとしたが、雪で滑って、地面に顔面からダイブしてしまった。

 猫が走り去り、一瞬の静寂が甦った。

 ――なんなんだ。

 ――なんなんだ、あの途方もなく恥ずかしい人は。

 猫に向かって叫び散らして、追いかけまわして、それはどうやら食べるためで、最後にはすっ転んでいる。

 ひとり雪合戦も恥ずかしいが、まだ衝動的なものだった。だが、あの子の行動からは本気の臭いがぷんぷんする。

 見てるだけで耳が熱くなってきた。

 彼女はずっと動かない。少し嫌な予感がした。雪の上とはいえ、その下は硬いアスファルト。顔面から突っ込んで、もしかしたら打ち所が悪かったりしたのかもしれない。

 と、後ろから足音がした。スーツ姿の男の人がしのぶちゃんの横を小走りですり抜け、赤信号を渡っていった。雪に突っ伏す彼女をちらりと見るが、何事もなかったかのようにコンビニの中に消えていった。

 見て見ぬふり。

 しのぶちゃんの中に、怒りに似た感情が湧いてきた。いくら恥ずかしい人だからって、倒れてるのをそのまま放置していいわけがない。

 しのぶちゃんは赤のままの信号を渡る。

 すぐさま彼女に駆け寄って、肩をゆすろうとした。

「あの、だいじょ……」

 だが、

「捕まえましたわ!」

 彼女はいきなり起き上がり、しのぶちゃんを抱きしめてくる。彼女の体は雪で冷たくなっていたけど、その奥には冷めやらぬ熱の塊があるのがわかった。

「さっきの猫よりお肉は少なそうですけれど、たまらなく愛くるしい子が罠にかかったものですわね。きっとわたくしの舌を満足させてくださること間違いないですわ」

「ちょ――えっ?」

「さて、差し当たっては味見をば」

 耳を噛まれた。

「ひゃっ!」

 さすがに驚いて、しのぶちゃんは彼女を体を突き飛ばした。

 思ったよりあっけなく離れて、彼女はぺたんと雪の上に座り込んだ。

「な、何するの!」

「あら。冗談ですわよ?」

「冗談って――実際に耳噛んでるから!」

「ええ。ぷっくりした素敵なお耳ですわ。食べはいたしませんが愛でたいところではありますわね。別の意味で舌で堪能できますわ」

 妙な口調だった。関西の言葉にもようやく慣れてきたが、それとも違う。お嬢様めいた言葉だ。むしろあまりにもお嬢様めいているので、実際にそんな口調でしゃべるお嬢様なんかいないんじゃないか、とさえ思う。例えば、「ラーメンおいしいアルよ」としゃべる中国人がいないように。

 なんかバカにされてる感じがした。

「あのですね――」

 ちょっと文句を言おうとしのぶちゃんは改めて彼女のほうを見た。が、その言葉は止まってしまう。

「ち!」

 彼女の鼻から血が出ていた。

 真っ赤な鼻血は顎から垂れて、雪を赤く染めていく。

「ふぇ?」

 当人は何のことかわかってないようで首をかしげる。自分の鼻の下に手をやってようやく鼻血を流してることに気づいた。が、「おぉ」と一種感動の息を吐く。赤く染まった自分の指を日にかざして、興味深げに見入っていた。

「えっと、はい、ティッシュ」

 しのぶちゃんは慌ててティッシュを鞄から出して、彼女に渡す。しかし彼女は押し付けられたそれを不思議そうに眺めるばかり。

 その間もボタボタ血が流れていた。

「ああ、もう!」

 しのぶちゃんは彼女の手からティッシュを奪い返して、二、三枚引き抜き、血があふれる彼女の鼻を押さえてあげた。

 と、なにを勘違いしたが、彼女は思いっきり「ちーん」。

「うわぁっ!」

 もはや血みどろ。

 阿鼻叫喚とはこのことか……。

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