第1章 1
「うわぁ」
朝。カーテンを開けた瞬間、しのぶちゃんは小さく歓声をあげた。
真っ白だった。
京の街が雪に包まれていた。
実は京都には、雪はそれほど降らない。写真なんかじゃ京都の冬景色として雪の降り積もった光景なんかが使われているけど、寒いばっかりで、積もるのは年にせいぜい一、二回。今年にいたっては記録的な暖冬なこともあり、雪はおろか氷が張っているのさえ見たことがなかった。
それが、そろそろ桜もかくやというこの時期に、この大雪。どうりで寒かったはずだよ、しのぶちゃんは心の中でうなずいた。本当は布団の中でうずくまっていたいところだが、今日だけはそういうわけにもいかない。
しのぶちゃんはクローゼットを開き制服を取り出す。藍色のブレザーとプリーツスカート。しわはまったくない。
少しだけ惜しい気持ちを感じる。まっさらな雪原に第一歩を踏み出す瞬間のような。
高校生活初日。
実は三日目なのかもしれないけど。
しのぶちゃんは高校の入学式とその次の日、風邪で寝込んでしまったのだ。休日も挟み三日も休んだおかげで快復していたが、新生活にひとりだけ乗り遅れてしまった不安はぬぐいきれなかった。
今日から。そう、今日からだ。
強く念じながら、パジャマを脱ぎ捨てた。
着替えて一階に下りると、お母さんが台所で弁当を詰めていた。
中学までは給食だったので、普段は縁がなかった。けど、これからは毎日お世話になることになるんだ。
そんな些細なところにも、新生活の息吹を感じてうれしはずかしな気持ちになったりした。
しのぶちゃんを見て「早いのね」と少し驚いたように言いながら、朝食を用意してくれた。
お母さんがため息混じりに言った。
「やあねえ、雪なんて。制服新しいのに。転んだりしないでよ」
「うん」
そういいつつも、しのぶちゃんは自分の心が躍るのを止められていなかった。新生活の初日というのもあるだろうけど、雪というのもこの興奮に一役買っている。我ながら子供だなとしのぶちゃんは自分でも思っていたが、雪が降ったことで単純にわくわくしていた。別に、雪合戦や雪だるま作りがしたいわけじゃない。バスや自転車を使わないから、雪に対して嫌な感情があまりないのも手伝ってか、特別なことみたいに感じるのだ。
「そういえば昨日の夜、大丈夫だった?」
「ん?」
お母さんの問いに、しのぶちゃんは生返事で返す。昨日の夜。なにか案じられるようなことあったっけ? 賞味期限ギリギリのヨーグルトを食べたことくらいだろうか。
「地震があったじゃない。夜中の……二時くらい? けっこう大きかったわよ。ほら、ニュースでもやってる」
テレビを見ると、鞍馬寺のほうで本殿が潰れたと言っていた。雪に染まった山の中に、屋根が落ちている大きな瓦葺の建物の映像が出た。本殿、霊宝殿、義経堂、魔王殿と、倒壊した姿が次々と起こった。本当に大きな地震だったらしい。
「気づかなかった」
自分ののん気さに少しだけあきれてしまった。
「地震だの大雪だの、これも温暖化のせいじゃないかしら」
「雪はともかく地震は違うと思うけど……」
朝食を食べ終えて、しのぶちゃんは席を立つ。
「そろそろいくね」
「もういくの? まだ七時すぎよ」
「雪道だし。なにかあるといけないから、念のためだよ」
「一時間前に行くことはないと思うけど、まあいいわ。ついでにマコト起こしてって。そこにいるから」
お母さんが居間のコタツを指差した。弟がうつぶせになって寝てた。耳にはヘッドフォン、手にはコントローラー。
画面の中では、プレイヤーのパーティが洞窟の壁に向かって直進していた。
四日前に買ってきたRPGだった。しのぶちゃんはまだ序盤のダンジョンでつまっているのに、この弟はかなりあとのほうまで進めているらしい。知らない人が仲間になっている。
しのぶちゃんはマコトのヘッドフォンを引ったくった。
「風邪引くよ」
「ねーちゃんじゃないんだから」
起きていたらしい。思ったより明瞭な声が返ってきた。
実はしのぶちゃんが風邪で寝込んでいたのは、マコトと同じようにコタツで寝てしまったからだった。
痛いところ突かれて、しのぶちゃんは一瞬声を詰まらせた。
「そ、それに今日は雪積もってるし、早く着替えないと遅れるよ」
「着替えてるしな」
よく見たら、マコトはコタツの中でなにやらごそごそやっていた。すぐに、反対側からジャージのズボンが吐き出される。マコトが寝巻きがわりにはいてたものだ。
ずぼらなことに、コタツの中で着替えているらしい。寒いからそうしたい気持ちもわからんでもないけど、制服にしわができるからしのぶちゃんはあまりやらなかった。恥ずかしいし。
「あ。ねーちゃん、帰りジャンプよろ」
いきなりマコトが言った。
「なんでよ。だいたい私が買っても、マコトお金出してくれないじゃない」
「そこは年長者の責務ってやつ」
「読むの、あんたのほうが先のくせに」
「そこは年少者の役得」
マコトはずっとうつぶせのまま、コタツで着替えながら受け答えしていた。まだちゃんと顔を見ていない。
しのぶちゃんは、ため息をつく。
昔はお姉ちゃんお姉ちゃんって後ろをついてきて、かわいかったのになぁ。すっかり弟は生意気になってしまった。
「わかったわよ、もう」
このまま言い争っていても不毛なだけだ。しのぶちゃんは玄関に向かう。
「よろしくー」
振り返ると、マコトがようやく顔を上げてこちらを見ていた。左の髪が寝癖になって上にはねていた。
その間が抜けた姿に、しのぶちゃんのむっとした気持ちが少し解けた。
「いってきます」
そう言って、しのぶちゃんは玄関のドアを出た。
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