第1章 3

 数分後。

 しのぶちゃんはどうにか彼女に正しい鼻血の処理の仕方を教え込み、コンビニでトイレを借りて手についた血を洗い流した。

「うーん、落ちないなぁ」

 制服に彼女の血が飛び散ってしまった。水で湿らせたハンカチで拭いたけど、染みになってしまってる。袖の端で目立つところじゃないけど、新品だっただけに少し悲しかった。

 店員さんにお礼を言ってから外に出ると、彼女は雪玉を作って遊んでいた。ティッシュで押さえてるのに飽きてしまったのか、鼻の穴に突っ込んでいる。あんまりよくない処置なんだけどなぁ。しのぶちゃんはため息をつく。

 と、彼女は手にした雪玉にかじりついた。

「えぇっ!」

「味が薄いですわねぇ。まるでシロップのないカキ氷のようですわ」

「そりゃそうだよ!」

 しのぶちゃんは慌てて駆け寄る。

「何してるの! お腹こわすよ!」

 彼女はしばらく雪玉を見つめて、「あぁ」と納得したようだった。

「これが噂の拾い食い?」

「そうだけどそうじゃない!」

「でも、お腹がすきましたの」

「ならここで何か買えばいいじゃない!」

「そうなのです。たかだか百円ぽっちのパン、ゆずってくれてもよさそうなものなのですがね」

 しのぶちゃんは首をかしげる。微妙に会話がかみ合っていない。

「もしかして、お金持ってないの?」

「ええ。おかげで、昨夜の夕食を食べたきり、何も食べてませんの。でなければ、野生動物や群生植物を採取したりいたしませんわ」

「……猫は野生動物じゃないし雪は植物じゃないし、そもそも昨日の夕食は食べたなら普通だと思う」

 だんだん突っ込むのも疲れてきた。

 と、彼女がなにやら嬉しそうにこちらを見ていることに気づいた。同時に、この人は目を閉じてるように見えるけどそれはものすごく目が細いってだけでちゃんと見えているんだな、と改めて思った。

「あなた、さてはいい人ね?」

 彼女がいきなり言った。

「そんなことはないと思うけど……」

「いいえ。倒れたわたくしを助けてくれたり、倒れた際に負傷したわたくしを介抱してくれたり、腹痛への危機を指摘してくださったり、空腹で倒れそうなわたくしに食べ物を恵み与えてくださるのだから」

「…………はぁ」

 結局、さっき作ってもらったばかりの弁当をあげた。

 彼女の勢いに負けてしまったというのもあるし、どのみちほったらかしにして立ち去ることはできなかった。それをするなら、倒れた彼女に声をかけた時点でするべきだったのだ。

 思い悩むしのぶちゃんの横で、彼女は一心不乱に箸を動かしつづけた。

「とてもおいしいですわ」

 コロッケをほおばる。

「あたかも氷点下で保存されていたところをマイクロ波で加熱されたかのような、のどの渇きを覚えるおかずがご飯を誘います」

 卵焼きをほおばる。

「まるで唯一手作りされたかのような卵焼きは塩気が多くて汗をかく機会の多い春先にはうってつけです」

 あれこれ言いながらたいらげる。

「でも、とてもおいしいですわ」

 しのぶちゃんは顔を引きつらせながら尋ねた。

「……わざと言ってる?」

「ふむん? 何のことですの?」

 弁当箱をなめていた彼女が、首をかしげた。

「……なんでもない」

 どう考えても皮肉にしか聞こえないけど、なめるほど綺麗に食べきったのだから、もしかしたら本当に褒めるつもりで言ってるのかもしれない。というか、いちいち反応していたら疲れるばかりだとようやく気づき始めてきた。

「ごちそう様でした。おかげで救われましたわ。このご恩は必ず返しましてよ。清水の次郎長親分の名に賭けて」

「え? そっち関係の人なの?」

「いいえ。言ってみただけ」

 関係ない人の名前を賭けるのはどうかと思う。

「ほのか様!」

 甲高い声がしたほうを見て、しのぶちゃんは目を疑った。

 いわゆるメイドさんだった。フリルでふわふわした黒い服に白いエプロンをつけ、頭にはフリルつきカチューシャ、いわゆるメイドカチューシャを装着している。その上、着ている少女は見事な銀髪の持ち主だった。

 その子がこちらに駆け寄ってくる。

「あら、ヘル子さん」

 歯に詰まっていたカスを爪で取っていた彼女――どうやらほのか様というらしい――が、メイドさんに言った。

「どこほっつき歩いてたんですか、ヘル子は大いに心配いたしましたですよ……あと人前で歯くそ取るなんて淑女失格です」

 まくし立てて、ヘル子さんというらしいメイドさんが爪楊枝でほのか様の歯を梳いてあげた。

 メイドという、まさに非現実の象徴的な存在が現れたことで、むしろしのぶちゃんは安堵していた。一見普通の女子高生に見える彼女――ほのか様は、日常のまま超日常な行動をするので、ひどく疲れるのだ。でも最初からこんな奇抜な姿で現れてくれれば、ある程度は覚悟できるので――

「で、このちんちくりんはなんなんですか?」

 やっぱり腹が立つものは立った。

「いい人ですわ」

「自分からいい人なんて名乗るなんて、偽善もここに極まれりですねっ」

「わ、私はそんな風に名乗ってないから!」

「あら。そういえばお名前を伺ってませんでしたわね。わたくしは――」

「こちらが名乗る前に相手を名乗らせるのが戦略的駆け引きというものですからっ、ほのか様!」

「――と申します。こちらが、黄泉坂ヘル子さんですわ」

「えぇ、ヘル子の名前ばらすなんて!」

「えっと、百合原しのぶです」

「ふふっ、まんまと引っかったわね百合原しのぶ! ほのか様を歯くそまみれにした恨み、その身をもって晴らしてもらいますからねっ!」

「ほのか様、でいいのかな?」

「ああ、ほのか様の名前までばれてる!」

「ヘル子さん、うるさいですわ」

 ぺちん、とヘル子さんを後ろから扇子ではたいた。結構上等そうな扇子だった。

「これ、拾ったにしてはいいですわね」

 ほのか様は扇子を見て、感心する。

 拾い物ですか。

「くぅん」

「うわっ!」

 下から聞こえた鳴き声にしのぶちゃんは飛びのいた。

 大きな犬がいた。真っ白い毛並みで、鋭い目は青みがかっている。むしろ、体毛も白さが際立って青くさえ見える。全体的に鋭い印象で、狼のようにも見えた。

「あら、チル。お帰りなさい」

 ほのか様が言った。チルはくわえていた皮袋をほのか様に預ける。

「この子はチル。わたくしのボディガード。お花を咲かせるのが得意なのよ」

 チルはほのか様の足元に座った。お花を咲かせる、の意味がわからない。が、ほのか様の持った皮袋を見て、わかった。小さな花がついていた。どこかに咲いてきたのを詰んできたのかもしれない。小粋なことを仕込んだものだ。

 しのぶちゃんは動物好きだ。チルの顔を覗き込もうとする。が、チルの鋭い目を合わせた瞬間、冷たいものを背中に突っ込まれたような悪寒がした。

 すぐにチルのほうが興味をなくしたように、そっぽを向いてしまう。それでしのぶちゃんの感じた寒気が止まった。

「あ、う……」

 絶句するしのぶちゃんをよそに、ほのか様はチルが持ってきた皮袋から中身を覗き込んだ。ジャラ、という金属の重い音が聞こえた。

「五円玉ばかりですわね。これじゃお腹がふくれませんわ」

「五円玉には御縁が宿るという駄洒落た信仰がありますからねぇ。残念ながら」

「――え? それ、もしかして」

 しのぶちゃんは嫌な予感がした。

「お賽銭?」

「ふん? そうなの?」

 ほのか様がヘル子さんに聞く。と、ヘル子さんは顔を真っ赤にして首を振った。

「ちちち違いますよ! ヘル子はただ『フードつきの服で初詣にいけば臨時収入が入るんだから、ちょっとその順番を入れ換えてみるだけ』って思っただけですよ! だからチルにトリモチと糸を渡してですね」

 しのぶちゃんはため息をついた。

「……それ泥棒だよ」

「う、うるさいです! あんたに何がわかるって言うんですか! ヘル子は、ヘル子は――」

 目に涙をためてヘル子さんは抗議してきた。泣きそうな女の子は解体途中の時限爆弾より危なっかしい。しのぶちゃんが困っていると、ほのか様がつぶやいた。

「つまり、これは人のものなのですわよね。じゃあ、それをいただいてしまうのは、よくないことのはずです」

「で、でもでも、これがないと育ち盛りのほのか様を養うことはできないのですよぉ」

「その点は大丈夫。しのぶちゃんからお弁当をいただきましたから、あと二時間程度は持ちますわ」

 二時間だけですか。

「というわけで、チル。これ、もとにあった場所に戻してきなさい。ついでだから願い事もしてらっしゃい。友だち百人できますように、とか」

 ちゃっかり願掛けはしておくのか。

 チルに皮袋を返す。チルはそれをくわえて、平安神宮のほうに走っていった。おりこうさんだ。

 と、信号のところでチルとすれ違った少年にしのぶちゃんは気づいた。

 雪の中でも果敢に自転車に乗る彼は、マコトだった。

 彼は走り去るチルのほうを振り返り、しのぶちゃんのほうを怪訝そうに見る。

「ねーちゃん、何してんの?」

「なにって――」

 自分でもよくわからなかった。

 女の子を助けたら鼻血を出して弁当食べられてメイドさんに絡まれて――ほんと、なにをしてたんだか。

 一方、ヘル子さんはマコトを見て嬉しそうにほのか様の肘をつついた。

「ほ、ほのか様、イケメンですよぉ」

「イケメン? そうなの?」

 興奮するヘル子さんをよそに、ほのか様は興味なさげだった。カボチャでも見るようにマコトを見る。いや、きっと彼女ならカボチャのほうにこそ熱っぽい視線を送るのだろう。

「しのぶちゃんの弟さんですの?」

「はぁ。まあ、そうっすけど」

 マコトはまだ怪訝そうだった。特に、メイド服を着てるヘル子さんのほうが。ヘル子さんはマコトに見られているのを何か勘違いしたようで、「きゃー」とか言いながらほのか様の後ろに隠れた。

 マコトは触れないことに決めたらしい。しのぶちゃんに向き直る。

「で、ねーちゃん、のんびりしてていいの?」

「え? 今何時!」

「もう八時すぎてるけど」

 しのぶちゃんは軽くパニックになった。余裕をもって行動したつもりが、気づいたら少しやばいくらいになっている。実は「余裕を使い切っただけ」でまだ焦ることはないのだが、しのぶちゃんは気づけなかった。

「あら。お急ぎなら、わたくしに構うことはありませんわよ」

 というかあなたは慌てなくていいのか。しかし突っ込む余裕が今のしのぶちゃんにはなかった。

「そ、それじゃ!」

 しのぶちゃんは慌てて、その場をあとにした。

 あとで「それじゃといっても、名前だけしか知らないんじゃ再会できるとは限らないよね」と思ったけど。

 しかし、その後悔は、わずかの間しか続かなかった。

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