第3章 3

 しのぶちゃんは神宮道を小走りにしていた。

「百合原しのぶ」

 交差点を渡った、平安神宮の由緒の書かれた案内板の前で呼ばれる。

 立ち止まって辺りを見回すが、それらしい人影はいない。

 今の繊細そうで発音のしっかりした声は――。

「ハネさん?」

「きょろきょろするな。そのまま話せ」

「は、はい」

 通行人が変な目で見てくるのが気になるが、なんとか我慢した。

「トツカを忘れるとは、愚かとしか言いようがないな」

「す、すいません」

「手短に状況を説明する。まず、魔力値の上昇が止まらない。先ほど、十万を突破した。このままでは霊的地殻が崩壊して、途方もない災害が起こる」

「え? で、でも――」

「君は魔王を懐柔したつもりだろうが、完璧ではなかったということだ。昨晩、魔界との扉が《三重に縛られし神喰狼》によって破壊された。すぐには修復は不可能。向こうから力が垂れ流しにされている。それが指数増加の原因だ」

 先ほどヘル子さんが言っていた、結界が破られたとはこのことだったのか。

「速やかに魔王を封じるのだ」

「なっ――」

 しのぶちゃんは振り返る。由緒の前には家に置いてきたはずの携帯電話があった。

「だって、前は私のやることを許していてくれたじゃないですか! なんでいまさら」

「許していたわけではない、放置していただけだ。個人的には、封じることばかりがすべてではないと思っている。他の可能性があるのならば、それでもいい。が、悠長なことを言っていられなくなった」

「でも、ほのか様はもう魔王にはならないって――」

「現実を教えてやろう。魔界の扉が開かれてから、傷害事件が六件、交通事故が十一件、火災が二件報告されている。幸いまだ死者は出ていないが、恐らく指数が上がっていることで不幸の起こる確率が増加しているのだ」

「そんな――」

 と、しのぶちゃんをちらりと見た通行人が、電柱にぶつかりそうになった。幸い直前で気づいて避けることができたが、本人は驚いたことだろう。

「今のもそうだ。ああいう小さな不幸の積み重ねが、大きな不幸を呼び寄せ、大きな不幸が連鎖して大災害につながる。すべての元凶が、魔王にある」

 しのぶちゃんは、ぐっと拳を握り締める。

「わ、私のほうだって、聞きたいことがあります」

 どこを見ればいいかわからなかったが、とりあえず案内板をにらみつけた。

「その指数を最初に上げたのは、あなたたちだって聞きました。そんな説明、聞いてません」

「そうだな。言っていない」

「よくも平然といえますね。その不幸の原因の一部はあなたたちのせいでもあるんじゃないですか」

「我々は、我々が活動しやすい程度にあげただけだ。そこから致命的な災害に至る可能性は少ない。問題はないといえる。むしろ魔物に対抗するのに、必要な処置と言える」

「でも、私を騙したことは変わらないじゃないですか」

「言っていないだけだ。嘘をついた覚えはない」

「そんなの、詭弁です」

「そうだな。だが、君だってやっていることだ。君は、自分が魔王の討伐者に選ばれたことを、魔王に伝えたのか?」

 しのぶちゃんは、言葉が出てこなかった。

「だが、それで正しいのだ。それでうまくいくのだから。君が動きやすいように、我々は君に与える情報を制限した。第一、最初からすべてを明らかにしていたとしたら、君はどうした? 迷わなかったか? その迷いがあっては、ここまでの結果は出なかっただろう」

 たしかに、そうかもしれない。

「すべてを相手に伝えるなど、愚かなだけだ」

「でも、ほのか様はすべてを話してくれました。だからこそ、信用できます」

「ならば、我々は彼女を知らない。だから信じることはできない」

「知ろうともしないくせに――」

 以前思ったことを、しのぶちゃんは考えた。世界中の国が「いっせいのせ」で核爆弾を全部捨てれば、核戦争の危機なんてないのに。けど実際には、できない。相手を信じず、知ろうともしないからだ。

「とにかく、我々が君に望むことはずっと変わらずただひとつだ。魔王を封印すること。それに期限ができた。それだけだ。

 期限までにできなければ、我々は実働部隊を動かす。開戦されるだろう。やむをえない。最悪から二番目のカードを引かせてもらう」

 急に腹が立った。

 ハネは、見えないところから一方的に言いつけるだけなのだ。

「姿くらい、見せてください!」

 由緒書きの後ろに回りこむ。

 誰もいなかった。

 ただ、屋根の上に黒猫がいた。

 しのぶちゃんの携帯の中にも写真が入っている猫だ。出会った日の朝、ほのか様が追いかけてもいた。

「我々が信じるのは、結果だけだ。健闘を祈っている」

 猫がしゃべった――ように見えた。

 正確には猫が口を動かしたら人の声がした。口を閉じると声も消える。あくびをしたが、そっちは「くかか」と猫の声だった。

「ぼさっとしている暇はなかろう?」

「うく……」

 しのぶちゃんは、携帯を手にきた道を戻った。

 覚悟を決めなければなかった。

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