第1章 5
なんとか泣かずに放課後までこれた。
しのぶちゃんは、体育館の裏で胸をなでおろした。なぜ放課後に体育館の裏にいるかというと、一刻も早く人がいない場所にいきたかったからだ。ホームルームが終わったと同時に「ごめん私ちょっとあれだから!」とほのか様が何か言う前に言い残し、走ってきたのだ。
別に一緒に帰ろうとしようとしていたほのか様を避けているわけじゃ……ない、と思おうとしたけど、やっぱり自分には嘘をつけなかった。
いくらごまかせても、自分はごまかせない。
(ほのか様を避けてる)
壁にもたれかかり、ため息をついた。
自分が嫌になる。友達がほしい、と思ってたくせに、いざ自分を慕ってくれる人が現れたら避けてしまっている。
(でも、あれはないよ……)
今までいったいどんな育て方をされてきたのかわからないが、明らかにおかしい。彼女のような人を形容するのに、空気読めてないとか自己中心的とか言うのだろうが、そういうレベルじゃない。
授業中だろうとテスト中だろうと構わず大声で話しかけてくるし、テストの答案用紙の裏には絵とか書いてるし、かと思ったら寝てるし、すぐお腹すいてるし、人に昼食たかりに行ってるし、トイレの個室にまで一緒に入ろうとするし、駄々こねるし、よく見たら朝からさらに数人失踪してるし、クラスメイトの人たちは魔物でも見るような目つきで見てるし、自分まで同類だと思われてるみたいだし。
「はぁぁ」
とにかく疲れた。
壁にもたれたまま、しのぶちゃんはうつらうつらする。
「何かお悩みですかお嬢さん?」
いきなりダンディな声が聞こえた。
「よろしければ我輩が解消いたしましょうか?」
百葉箱が言った。
しのぶちゃんは目をこすりながら思った。
百葉箱って久しぶりに見たなぁ。小学生のとき以来かも。そもそも、百葉箱だっけ? 千葉か、万葉だった気もするけど。たしか湿度計や温度計が入ってるんだよね。
「あれ? 驚かないのでしょうか?」
また百葉箱が言った。扉がパカパカと動き、そのたびに長い舌が見え隠れしている。
「――って、うわぁ!」
眠気が吹き飛ぶ。
少し寝ていたらしい。が、おかげでずっと麻痺していたリアリティが少しだけ復活する。
破天荒なお嬢様がいたっていい。わんこが賽銭ドロもできるかもしれない。メイドさんが消失マジックすることもあるだろう。
けど百葉箱はしゃべらない。
長い舌だって生えてない。
「な、なに?」
「いやまあ、何かを言われますと我輩も困るのですが。名もなき魔物とでもいいましょうか。以前からこの学校を根城に漂っていたのですが。どうも先刻から自由に動けるしものもはっきり考えられるなと気づいた次第であるのですよ」
まったく要領を得ない。
「で、せっかく動けるのだから後悔の残さぬよう生きようと思うのですよ。実は我輩、お嬢さんを拝見したときから、どうもいても立ってもおられぬので。ここはひとつ、単刀直入に申し上げようと参上した次第」
単刀直入と言っておきながら、回りくどい言い方だった。が、しのぶちゃんはだんだんと嫌な予感がしてきた。
百葉箱は言う。
「舐めさせて」
「うわぁぁぁ!」
「いや、正確には左足の指の裏をばひとねぶり」
――変態だ!
実はしのぶちゃん、痴漢にも変質者にも遭遇したことがない。なのでこれが変態との最初の遭遇、ファーストコンタクト・ウィズ・ヘンタイとなるのだが、変態経験の僅少さが悪いほうに作用した。
腰を抜かしてしまった。
「いやいや、勘違いなされるな。少し親指と人差し指の間を舐めさせてもらうだけ」
――何も勘違いしてないよ!
「露骨に嫌な顔しなさるな。我輩に舐められればたいがいの悩みなど吹き飛ぶものだよ。それにで満足なのだ。というのもお嬢さんから芳しい香りが立ち上っているわけで、ああ、いかん、辛抱たまらん――靴下の上からでもいいと思うたがやはりナマに敵うものは――」
百葉箱の息はどんどん荒くなり、こころなしかペンキの白も赤く染まってきた。ガコガコと全身を震わして崩れ落ちたしのぶちゃんに近づいてく。長い舌はもう隠そうとさえしていない。
――もうダメだ。
しのぶちゃんがあきらめかけたそのとき。
「あら、ようやく見つけましたわ」
救いの主が現れた。
ほのか様とチルだった。
「ほ、ほのか様――」
このときの様づけは惰性で使っていた呼称でなく、心の底からの敬称だった。
体育館の角から現れたほのか様はこの状況を観察する。尻餅をついたしのぶちゃんに今にも飛びかかろうとしている舌つき百葉箱。なんとも混沌極まる光景だが、ほのか様は扇子を口元に当てて小首をかしげる。
「跳び箱失敗?」
「絶対誤解すると思ったよ!」
しかもやたらひねくれた解釈してくれた。
しかし突っ込んだことで、しのぶちゃんに活力が戻る。立ち上がって、ほのか様のほうに走った。
「ほのか様も逃げて!」
ほのか様は小首をかしげる。
「鬼なし鬼ごっこ?」
「あれ見えないの!」
しのぶちゃんは百葉箱を指差す。
「ほほぉ、これはまた芳醇な匂い漂うお嬢さんが現れたものですな。足を、足を、密閉された革靴での中で甘くそしてすっぱく熟成されたおみ足を、我輩のベロベロで――って、ほのか様?」
バコ、という音がして百葉箱の前足が折れた。口になっている部分が地面に落ちて、土下座してるようにも見える。
「まままままま魔王様にあらせられますか!」
百葉箱の表情はわからなかったが、さっきまで赤らめいていた体は、今はわずかに青くなっている。
「ま、魔王?」
しのぶちゃんはほのか様を仰ぎ見る。
ほのか様はつまらなそうに耳をほじっていた。しのぶちゃんは、少し意外に思う。今まで何があっても楽しそうなほほ笑みを浮かべていたのに、こんな表情もするんだ。
「まあ、そうとも呼ばれてますわね」
「せせせ先刻から活力があふれていたのですがこれで納得至極、魔王様がご降臨あそばれたことで大気に魔力が満ち満ちた影響でございましたのですね! いやはや、さすがは人外魔境の統べる長!」
ほのか様は、小さくため息。
「ようするに、あなたは動けるようになったのをいいことに、わたくしのクラスメイトに不埒な真似をしようとなさったわけね?」
ひぃぃ、と百葉箱がさらにこうべを下げる。あまりにこすりつけるものだから、雪と土がえぐれてきた。
「まあいいわ。もうこのようなことはしないこと。あと、わたくしの前に二度と姿を現さないで」
百葉箱の動きは早かった。
立ち上がったかと思うと、一目散に逃げていく。三秒かからずに、視界から消えてしまった。
「ご無事でしょうか、しのぶちゃん?」
「え? あ、うん……」
「それは重畳」
近づいてきたチルがしのぶちゃんの袖を噛んだ。
「え? な、なに?」
「ああ。あの方は、これに反応してしまったのですのね」
袖には血がついていた。今朝のほのか様の鼻血だ。洗っても落ちなかったのだ。
チルがそれを何度か舐めた。
見ると、袖の血が消えていた。なぜか花の香りがする。
「これで大丈夫」
ほのか様は穏やかに笑った。
その勢いのない表情に、しのぶちゃんはなぜか嫌な予感がした。
「あの、魔王って、何のこと?」
「あの方がおっしゃった通りですわよ」
そう言い残して、ほのか様は立ち去った。
ふと視線を感じる。チルがしのぶちゃんのほうを見ていた。
心の奥まで見透かそうとする、まっすぐな、それでいて試すような視線。しのぶちゃんは、そう感じた。
それもつかの間、チルは尾を振ってほのか様のあとを追った。
誰もいなくなった体育館の裏に、一筋の風が吹いた。
四月とは思えない凍てついた風に、しのぶちゃんは身を震わせる。
いつの間にか、日が暮れかけていた。
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