第4章 1
しのぶちゃんは電車に座っていた。
「……あれ?」
夕方らしい。窓の外は空が赤く、建物は黒く染まっている。それは車内も同じで、人のシルエットが影になってよく見えなかった。
座席は満員だった。
――どうしてこんなところ座ってるんだろう?
なぜかうまく考えられなかった。
目の前に、重い荷物を持ったおばあちゃんが立った。
しのぶちゃんは周囲を見る。全員とも寝たふりをしていた。おばあちゃんも座席のまん中にこずに、優先席の前に行ったほうがいいのに――となんとなく思った。
――別にいいけどさ。
心の中で、よし、と気合を入れて立ち上がった。
「あの、よかったらどうぞ」
おばあちゃんはしわくちゃの顔でしのぶちゃんのほうを見上げる。
「あら。いいのかねぇ」
と、その表情が一変する。
怒りと侮蔑が入り交ざった表情になった。
「それでいいことしたつもりか、偽善者が」
「えっ」
しのぶちゃんはレジに並んでいた。
「……え?」
周囲を見回す。近所のスーパーのレジだった。夕方らしく、外から赤い光が差してきて、店の中に影ができていた。そのせいか、人が形がよく見えない。
どっと冷や汗をかいていた。
ついさっきまで別の場所にいた気がするのだが、なぜかうまく考えられなかった。
「三千円になります」
レジのおばさんが言ってきた。
手に一万円札を握っていることに気づき、慌ててそれを渡した。
「こちら、お返しが、五、六、七、八、九千円でございます」
おつりとレシートを受け取って進もうとするが、多くもらっていることに気づいた。
が、レジのおばさんはもう次の人の会計をしている。まったく気づいていないようだった。
(別にいっか)
そう思って一歩踏み出しかけるが――踏みとどまった。
――私、今、なんて考えた?
自分のものでない声が、頭の中でささやいた気がした。
ダメだ。レジのお金があとで合わないと、このおばさんはすごく怒られることになるだろう。
「あ、あの、すいません、おつり間違えてましたよ」
おばさんに差額とレシートを渡そうとした。
慌てた様子でおばさんがそれを受け取る。
「ああ、これはどうも――」
と、その表情が一変する。
「ホントはギッちまいたいんだろ? いい子のフリかよ」
「なっ――」
しのぶちゃんは教室の中に立っていた。
「……はあ、はあ、はあ」
なぜか息が荒い。うまく考えられない。
教室が夕焼けに染まり、他のみんなが影に見える。その目の前の光景しかわからなかった。
クラスメイトが集まって、ひとりを囲んでいる。円になって、全員でそのひとりの悪口を浴びせかけているところだった。
――いじめ?
(違うよ。これはそういう遊びなんだよ)
――でも、こんな遊びなんて……。
(バカだなぁ。みんな遊びだと思ってるんだから、いいじゃないか。見なよ。先生だってやってるんだから)
たしかに、人垣の中には大人の姿もあった。
(さあ、私も何かを言わないといけないんだよ)
ふと、円になっているクラスメイトたちが自分のほうを見ていた。
しのぶちゃんは、中心の生徒を見る。
その人も、自分を見ていた。
他のクラスメイトたちと同じように、ひどいことを言えと、目で訴えかけてきた。
――そんな……。
(どうせいい子のフリをしたって誰も喜ばないんだ。やめちゃえよ。ほら、先生も、本人だって、私が罵倒することを望んでる。私が正義を振りかざしたところで、誰も得はしない。だったら流されたほうが楽だろ。なにを意地を張ってるんだ)
――でも……。
(簡単だよ。ちょっと、いえばいいんだ。なにかひとつ。例えば、バカ、とか。それだけで私は楽になれる)
ひどくのどが渇いている。
何もいえない。
いや。ただひとつ、人を傷つける言葉だけは言える気がした。
「……ば……」
そのとき。
窓から一筋だけ、光が見えた。
しのぶちゃんは、なぜか、ほのか様を思い出した。
彼女は正直だった。
そのせいで他人に煙たがられたりしたけど、でも彼女ならこんなとき、なにをいうだろうか。
そう考えたら、少し、胸が熱くなった。
「――こんなの、間違ってる」
つぶやく。
影たちがいっせいに消えた。
しのぶちゃんは一瞬だけ、安堵する。だが――
(バカだね)
心の声が、嘲った。
いつの間にか、しのぶちゃんの周囲に人垣ができていた。
自分を囲むクラスメイトたちが大声で罵声を浴びせてくる。数十人の口から発せられた言葉は個々の意味など聞き取れない。ただその中に込められた悪意だけが、しのぶちゃんを切り刻んでいく。
「お黙りなさい」
凛とした声が教室を叩き伏せた。
教室が静まり返る。そのときになってようやく、しのぶちゃんは自分が耳をふさいでうずくまっていることに気づいた。
おそるおそる顔を上げると、ほのか様がいた。
赤と黒の世界で、鮮明な色をもって、そこに君臨している。
「生者を嘲り死者を冒涜する邪竜よ、控えなさい。今すぐ静まるのです」
黒いクラスメイトたちは異口同音でそれに答える。
『黙れ小娘が! 虚飾の王め! 知っているぞ! お前が王の名を捨てようとしていることを!』
「他者を貶める言葉しか知らないのね。ならば己の宿命に問えばいい。本当にわたくしが偽りの王であるか」
影が、息を呑んだ。しのぶちゃんにはそう見えた。
ほのか様は影に扇子の先を向けた。
「我が名を知れ。世界の不浄を連ねた名を。あまねく世界を覆い尽くす龍の一族。滅びの歌を唱える者、灰さえも灼き尽くす炎の花を咲かす者、すべてを飲み込む大水を呼ぶ者。未だ明るきを見ぬ空の星。
我が名は世界龍・L・ほのか」
『――なっ』
夕焼けが、明ける。
世界が白くなっていく。
「魔王の名において命じる。卑しき邪竜よ、冥府の底で体育座りでもしてなさい」
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