第3章 5
円山公園に戻ってみたが、鳩と観光客ばかりでほのか様たちの姿はなくなっていた。
しのぶちゃんは安堵する。
いまだに決めかねていた。
三つ目の選択肢を作ることはできなかった。
ほのか様を封じなければ、自分に未来はない。
だからって封じたとしても、絶対に後味が悪い。
どちらにしたって、自分は後悔するのだ。
「……はぁ」
自分はどちらにしたってひどいことになる。なら、ほのか様を助ける道を取るか?
ダメだ。ほのか様を助けると、そのまま最終戦争になだれ込む。そうなるとこの世界は甚大な被害を負うといっていた。
「そんなの、選べないよ」
しのぶちゃんは携帯を開いた。
指数は十五万を越えていた、
カメラ機能を立ち上げ、封印モードに切り替える。
円山公園の空に、何体か魔物らしきモノが見えた。また、京都市街の空には全体的にどんよりとした色のモヤがかかっているのが見える。
なぜこんなことになったのか。
ほのか様が魔王でなければよかった。そういう運命でなければよかった。
だけど、運命とはなんなのだ。
このカメラでも映らない。ただ魔物たちが感じているだけのもの。
でも、それを感じられない自分もまた、ほのか様が魔王だと思っている。
――なんでだっけ?
そのとき、カメラの中に赤いモヤがかかった。
そのモヤは巨大な獣の形を帯びていた。
「え?」
カメラでなく、肉眼で見てみる。
チルだった。
しのぶちゃんのほうへ、正面からゆっくりと近づいてくる。
しのぶちゃんは携帯を閉じた。
「どうしたの? ほのか様、ここにはいないよ」
話しかけてみるが、彼は何も反応しない。そりゃそうか、としのぶちゃんは思った。
携帯電話が鳴った。
見てみると、公衆電話から。
なぜ公衆電話からかかってくるのか、身に覚えがないが、とりあえず出てみる。
「もしもし?」
『あ、ねーちゃん』
「マコト? なんでこの番号知ってるの?」
『おとといの夜、一応チェックしておいた――って、それはいいとして』
おとといの夜といったら、しのぶちゃんが初めて魔物を封じたあとか。油断ならないやつだ、としのぶちゃんは思う。
『今どこにいる!』
「どこって、円山公園だけど」
マコトはなんだか焦っていた。
「どうしたの、そんな急いで? ほのか様も一緒?」
『今すぐそこ行くから隠れてろ! あと、チルを見たら逃げろ!』
「チル? それなら――」
すぐ目の前に立って、こちらを見あげている。
その目がすっと細くなる。
その瞬間、チルのほうから、金属が引きちぎられる高い音がした。
「――っ」
風が巻き起こり、チルの姿が消えた。
ぶつ、という音とともにマコトの声が聞こえなくなる。イヤフォンのケーブルが切れていた。
切断面から、なぜか花が咲いている。
「ばれちゃったんだね」
背後から、少年の声がした。
とっさにそちらに向こうとするが、
「振り返らないで」
「……チル?」
「質問するのは僕のほうだ。おかしな動きをしたら、殺す。嘘をついたら、殺す。お前は僕に生かされている。別にすぐ殺してもいいんだけど、そしたらやつらは警戒してしまうから」
「やつら?」
「お前にその力を与えたやつだ。そいつはどこにいる?」
しのぶちゃんは、迷う。
言えば、チルはそちらを殺すだろう。ほのか様の身に害を及ぼそうとしているものを殺していくはずだ。
そうすれば、しのぶちゃんは助かる。
だが、そのまま戦争の火ぶたが切られることになる。
ここで教えるというのは、そういう選択なのだ。
「怖くて何もいえなくなった?」
それもある。
だから、しのぶちゃんは言った。
「……かわいい声だね」
人生最大に勇気がいった世辞だった。
沈黙が痛い。
今すぐ首を噛み砕かれるかもしれない。
だから、賭けだ。ここで食われるか、応じてくるか。
「どうやら腕の一本もなくならないと、本気で考えてくれないみたいだね」
「私が傷ついたら、騒ぎになるよ。そしたら彼らは動く。君が向かうより先にほのか様に手がかかる」
落ち着いた声で言葉を返すことができた。先の沈黙を乗り切ったことで度胸がついた。
しのぶちゃんは振り向く。
チルと向かい合った。
柔らかかった毛並みが硬質を帯びている。さっきの金属音が関係するのだろう。恐らく、戦闘体勢。その気になったら、しのぶちゃんは一秒未満でバラバラにされる。
「一応言っておくけど、私はほのか様を封印するつもりはなかったんだよ」
「僕の仕事はほのか様を守ることだ。あのお方に危害が及ぶ可能性があるなら、排除する」
「……じゃあ、なんで魔界の扉まで開いたの?」
「お前を始末したら、やつらが反撃に打ってくる。その前にほのか様の身の安全を確保しなければいらない」
だから仲間を呼んだ、ということか。
それがほのか様の望むものとは逆の結果を呼び寄せてしまった。
「こんなこと、ほのか様は望んじゃいないよ」
「関係ない。僕は、ほのか様が無事ならば、憎まれたって構わない」
魔物って言うのはみんな身勝手なのか。
劣情に忠実だった百葉箱。
ほのか様の幸せのために暴走できるヘル子さん。
そして、ほのか様の身の安全のためにその他を破滅させるチル。
そんな連中がたむろする世界――その中心にいる、ほのか様。だけど、もしそんな自己中心的な魔物たちが唯一認めている存在が魔王だけだとしたら。
今まで魔王が何のために存在するのかわからなかった。が、今ならなんとなくわかる。彼らが一応まとまっているのは、魔王という共通の象徴がいるからだ。それが運命という、人間にはわからない感覚だとしても、共通しているのなら一体感は生まれるはずだ。
「私に力を与えてくれた人も、言ってた。あなたたちを信じられない、だから先に攻撃するって。あなたたちも同じ。信じれば、いちばんいい解決が生まれるのに、どうして信じてあげないの?」
「僕は縛られている」
いきなりチルが言った。
「肉体、魔力、運命――この三重の束縛がある。肉体と魔力の束縛は、自力で破ることができる。けれど、運命を縛る束縛は、世界の終末が訪れるときまで外れることはない。
そのいちばん強い束縛は、かつて神に騙された結果だ。彼らは裏切った」
「……フェンリル?」
チルはうつむく。
北欧神話の狼の怪物の名だ。神々の黄昏に主神オーディンを殺すとされている。
その運命を知った神々は、フェンリルを縛ろうとした。二度試したが、そのたびに破られてしまった。三度目を試そうとしたが、警戒したフェンリルは束縛を許さない。
そこで軍神チュールの利き腕をフェンリルの口の中に入れた。いわば人質だ。
結果、フェンリルは束縛される。絶大な拘束力に破られることはなく、終末のときまで縛られつづけることになった。
軍神の腕を犠牲にして。
これは軍神チュールの勇敢さを描くエピソードとして紹介されていた。神々は最初からフェンリルを騙すつもりだった、つまり食いちぎられる覚悟をもってフェンリルの口に腕を入れたのだ。
だが、フェンリルからすれば、それは裏切りに他ならない。
それまで、凶暴な狼にエサを与えていたのは勇敢な神チュールだった。もしかしたら、それなりの信頼関係があったかもしれない。
その相手によって裏切られたのだ。
「でも、ほのか様は信じているんでしょう?」
「……そういうわけでもない」
どこかさみしそうに答えた。
「ほのか様は僕を殺せる。僕もほのか様を殺せる。だけどほのか様は僕を気に入ってくれて、僕もまた彼女を守りたいと思う。それだけだ」
「なんで、体だけを守るのよ。心は守ってあげられないのよ。あなた、神様も殺せるんでしょ。なら、どうして運命なんてものからほのか様を助けてやらないのよ!」
「……お前にはわからないよ」
風が、吹いた。
強い北風だ。
ぴくり、とチルの鼻が反応した。
「話は終わりだ。今、ほのか様の匂いを感じた。君を殺す。この場にいる人間も殺す。それから僕が天界に察知される前に魔界に連れて帰る」
「まって!」
チルが地面を蹴る。
爪がめり込んだアスファルトから花びらが散ったのが、スローモーションで見えた。
次の瞬間、何も見えなくなる。
「やめるです!」
それはヘル子さんが前に立ちはだかったからだ。
「ちぇい!」
メイドさんの必須道具、モップで殴りつける。なぜか、爆発。チルの体は左方向に吹っ飛んだ。
「なにボーっとしてるですか! チルを撮るです!」
「え? で、でも……」
そうこうしているうちに、体中から煙を上げ、チルが言った。
「お前はそっちに行くのか」
「当たり前です。ほのか様の幸せが、ヘル子の望みですから」
その幸せがちょっと前までひとりよがりだったくせに、ヘル子さんが堂々と言ってのけた。
チルはうめく。
「幸せでも死んでしまったら意味がないよ」
「生きていたって不幸なままじゃ生き地獄です」
くぅん、と狼の声でチルが鳴いた。
しのぶちゃんにそれは、同僚を歯牙にかけることになった運命へのわずかな嘆きに聞こえた。
辺りに、金属を打ち砕く重い音が響き渡る。
「ドローミも引きちぎったですか!」
三重の束縛。そのふたつ目までは自分でも破れる、と言った。
そのふたつ目の縛めが解かれた、らしい。
チルの体が肥大し、ベンチを踏み潰した。
潰れたベンチが花に変化し、巻き起こる疾風に散っていく。
あたりから悲鳴が聞こえた。チルの姿を見た観光客が、走り去って行った。
その気持ちがしのぶちゃんはよくわかった。
人の中に残された本能の部分が叫んでいる。
こいつはやばい。
「出でよ、白亜の世を支配せし恐れの竜の王よ!」
ヘル子さんが叫ぶ。彼女の影が大きく広がり、そこから巨大な岩色の何かが出現した。
爬虫類特有の縦に割れた瞳孔が、ぎょろりとしのぶちゃんを見る。
「う、うそ」
ティラノサウルスだった。
死んだものを呼び寄せるのは知っていたけど、人の世の以前のものまで範疇に含まれるとは思わなかった。
頭にはメイドカチューシャ。メイドティラノ。
なんじゃそりゃ。
「ゆくのです、チルをガブっと――」
ティラノサウルスの首が消えた。
なくなった首から大量の血が――違う、赤い花が吹き出していく。ティラノサウルスの巨体はゆっくりと傾き、すさまじい砂煙を上げて地面に倒れる。
同時に、巨体がすべて同じ質量の花々に変じた。
「――花?」
「チルは《破壊の杖》とも呼ばれる破滅の権化です。噛み千切ったもの、引き裂いたもの、すべて花に変化させて世界を滅ぼすのです」
滅びた世界には花だけがあふれる。
不謹慎ながら少しだけ、奇麗だな、と思った。
チルはティラノサウルスの首を奪ったっきり姿を現さない。まさかあのまま逃げ出したとも思えない。
どこからか攻撃してくる。
「お姉様!」
ヘル子さんが力強く叫んだ。
「何か秘策、あるの?」
「いえ! 地獄にいらっしゃったら、ちゃんともてなすから安心するです!」
「え……」
冗談にしては不謹慎な――と思ったけど。この子はきっと本気でいってる。
それだけ今の状況がまずいってことか。
「とりあえず、ヘル子がチルをひきつけるです。そこをお姉様のパシャパシャで、チルをやっちまってほしいのです。そんなので成功するとは思えないですが、このままじゃ花になるだけですし」
しのぶちゃんは首を振った。
「ダメだよ。私は、チルを消したくない。ヘル子さんだって死なせたくない。あなたたちがいなきゃ、ほのか様が満足はしない」
「でも、他に……」
ヘル子さんが「あっ」と言った。
「ほのか様に助けを求めるです。ヘル子がそうだったみたいに、チルを怒ってもらえば――」
「でも、それでもチルは止まらない。彼は、ほのか様に憎まれることは覚悟してる」
「でもでも、ほのか様が本気で命令すれば、魔物は従わざるをえないのです!」
魔物に対する絶対強制力。
――それは、いちばん使わせたくない。
「わかんないや」
しのぶちゃんは携帯を横に放り投げた。
携帯は孤を描き、ぽちゃんと音を立てて池に落ちる。
しのぶちゃんは一歩前に出て、公園中に響く声で叫んだ。
「私はあなたを傷つけない!」
ヘル子さんが慌てて追いすがった。
「無駄です、ドローミを引きちぎったチルは超本気モードです、説得なんか聞きません」
「でも、これしかない」
信じてもらうしかない。
結局、本当の勝利を得るためには、信じ合わせることしかないのだ。
チルにも。
そしてハネにも。
今、チルに信じてもらうためには、彼の顎の中に自分の身をさらけ出すしかないのだ。
「ほのか様も、傷つけない! 天界にも、それを約束させる。信じられないのなら、今すぐかみ殺してくれて構わない!」
ヘル子さんは涙目になっておろおろと辺りを見回す。
「ヘル子さん」
しのぶちゃんは小さく囁いた。
「ほのか様のところに行って」
「でも――」
「あなたがいたら、彼は警戒する。だから、早く」
ついにヘル子さんの目から涙がこぼれた。
「うぅ、お姉様……」
涙をぬぐって、ヘル子さんは駆け出した。
その姿が見えなくなると、途端に、しのぶちゃんの体に震えが走った。
ひとり。
狼の顎の中に身を捧げる。
空気にからみつくほどの粘つきを感じる。まるでこれが狼の唾液のように。
その瞬間――しのぶちゃんの視界の端に、岩色の何かが映った。
それに吹き飛ばされ、視界が反転し、暗転する。
水に何か大きなものが落ちる音を聞きながら、しのぶちゃんは意識を失った。
「――んげほっ」
咳き込み、覚醒する。
しばらく、しのぶちゃんは全身で震わせて咳をする。痛みで頭の中が痺れる。ようやく、今自分は肺の中につまった水を吐き出しているんだと気づいた。
吐きながら、自分がずぶ濡れで円山公園の池のほとりにいることに気づいた。
何かに吹き飛ばされ、意識を失った。どうやらそのまま池に落ちたらしい。溺れかけたが、今こうして咳き込んでいるということは、生きてるんだろう。痛みが生の証明とはよく聞くけど、なるほど、それを実感していた。
「……はあ、はあ、げほ」
数分咳き込みつづけ、あらかた吐き出した。が、まだ違和感が残る。
どれだけ気を失っていたんだろう。そんな長時間だったら自分は死んでいるので、長くて一分程度といったところか。
自分が先ほどまで立っていたところを見る。花の小山が散らばっていた。大量の花の中には、メイドのメイドカチューシャがささっている。
自分を吹き飛ばしたのは、ティラノサウルスの首だったのだ。チルが投げつけてきたのだ。
それで殺そうとしたのか、それともただの牽制だったのか。
「……ん?」
制服の襟元に小さな花がついていた。生地から生えている。花の下の生地には穴が開いてしまっていた。
――チルがくわえて、引き上げてくれた?
だとしたら、自分を信じてくれたということだろうか。
わからなかった。
が、空気の中にあった嫌な粘着質は消えている。もうチルはここにはいないのかもいしれない。
顔を上げた瞬間、思わず声が出た。
「――あ」
桜が咲いていた。
満開だ。円山公園中の桜が白桃色に彩られていた。
祇園枝垂桜も、細い枝にいくつもの花弁をほころばせていた。
ふいに、自分がもう死んでいるんじゃないか、とさえ思った。あるいは、気を失っている間に世界は滅んでしまったのか。
どんよりとした曇天の下に広がる満開の桜。
改めて見ると、桜とは奇妙な木だった。葉が一切つかずに、花のみが咲き乱れる。花の他に何も混じらない光景は息を呑むほど美しいが――どこか妖しい。
美しさとは、どこか、まがまがしいものなのかもしれない。
だけど人間は喜んでその下で春を祝う。きっとこれを見たら、みんな慌てて花見の準備をしだすだろう。なぜいきなり咲いたかなんて二の次で。
結局、いいものも悪いものも、紙一重。
そう思ったとき。
「あれ?」
しのぶちゃんの中で、いろんなものが繋がった。
「……そっか。ああ、そうだったんだ」
しのぶちゃんは立ち上がる。携帯を探してポケットを探るが、自分で池に捨ててしまったことに気づいた。
水面の下に目を凝らすが、よくわからなかった。もう濡れ鼠だ、池に入って探してもよかったが、時間がだったら直接言ったほうが早い気もした。
しのぶちゃんは走り出す。平安神宮目指して。
もう何度も往復した道のりだが、これほど晴れやかな気持ちで進んだことはなかったかもしれない。
この事態を打開する方法が、わかったのだ。
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