第4章 2

 眠っている。

 しのぶちゃんは眠りながら、それを自覚していた。

 目は開かない。眠っているから当たり前だ。慣れ親しんだ肌触りと匂いでわかる。自分のベッドで寝ているのだ。

「ひとまずは、大丈夫かしらね」

 ほのか様の声だった。

「わたくし、魔界へと帰ることにいたしました。そこで、いくつか謝っておくことがございます」

 すっと、身をかがめる音がした。

「少しだけ、しのぶちゃんを見捨てることを考えてしまいました。ご存じかもしれませんが、わたくし、魔王にはなりたくなかったのです。わたくしが魔王として命じれば、魔物は絶対に従う。そんなものになりたくなんかありません。

 それに、どうやらわたくしが生まれたせいで、わたくしの親類縁者が滅亡してしまったようですし。会ったこともない方々なので愛着なんて湧きませんが、自分のせいだといわれたら、いい気はしませんわ。

 だから魔王の宿命から逃れえることができないかと、あれこれ口実をつけて今回、こちらにやってきたのです。わたくしの年になったら、みんな高校生となって新たな世界への門出となるらしいと聞き及んだので、もしかしたら、と思ったのです。

 けれど、どこまでも魔王の宿命はおいかけてくるのですわね。

 わたくしのせいで、しのぶちゃんにご迷惑をおかけしてしまいました。本当に、ごめんなさい」

 ほのか様が鼻をすする音が聞こえる。

 しばらくして、立ち上がる気配がした。

「最後にひとつだけ、わがままを聞いてはくださらないでしょうか」

 何かを枕もとに置いてきた。

「これを持っていてくださいませんでしょうか。そして、わたくしのことを覚えておいてほしいのです。迷惑なやつがいた、それだけでも構いません。ときどきでいい、思い出してほしいのです。

 遠くに、わたくしのことを覚えてくれている方がいる。

 それだけで、わたくしはがんばれる気がするのです。だから――」

 ドアが開く。

「さようなら、しのぶちゃん。大好きでした」


 しのぶちゃんは、飛び起きた。

「ほのか様!」

「うわっ!」

 真っ暗で何も見えない。と、いきなり明かりがついた。

「うっ」

 目がくらむ。ゆっくりと片目ずつ開くと、マコトが氷嚢を手にして立っていた。

「ねーちゃん、起きたんだ」

「今、ほのか様がそこに――うあ」

 めまいがした。

 マコトにスポーツドリンクを渡される。ぐいと飲む。冷気が体に染み渡る感覚が心地よかった。

「ほのか様なら結構前に出てったよ」

「うそ……」

 あれは夢だったのだろうか。そもそも、どこまでが夢だったのかも判然としない。

 しのぶちゃんは枕もとを見る。

 ほのか様の扇子が置いてあった。

 漆で塗られた表面には『鞍馬山』と金字で掘ってあった。前に拾い物だ、といっていた。やっぱり鞍馬寺で拾ったのか。

 ほのか様がこちらで拾った最初のもの。それを預けていった。

「あれは、本当だったんだ」

「ほのか様がねーちゃんに取り憑いた魔物を払ってくれたんだ」

 夢を思い出す。善意が悪意で塗りつぶされる、ひどい夢だった。けど、最後にほのか様が助けてくれた。

 魔物には命じない、という誓いを破ってまで。

「ほのか様は、今どこに?」

 マコトはうつむき加減に、目をそらした。

 それが答えだった。

 しのぶちゃんは起き上がる。

 が、足がもつれて、倒れそうになった。

「どこ行くつもりだよ」

 すんでのところでマコトが支えてくれた。

「ほのか様を連れ戻す」

「無駄だよ。もう決まっちまったんだ。それに、ねーちゃんフラフラだろ」

 ちゃんと床を踏んでいるという感覚さえしなかった。頭もぼんやりするし、正直、立っただけで吐き気が起きた。

「でも、ほのか様は私のために魔王になってしまった。そんなの、納得できない」

「しょうがなかったんだよ。ねーちゃんはよくやったよ」

「違う! もう少しで、もう少しで、全部うまくいくはずだったのに……」

 時計を見る。

 十一時ちょうど。

 まだ期限はきていない。

「終わってない。まだ、終わってない」

「ねーちゃん」

「あきらめるまでは、終わりじゃないの」

 マコトが手を離す。

 支えを失っただけでしのぶちゃんは床に崩れてしまった。

 威勢がいいのは言葉だけだった。自分でも笑えるほど弱っている。こんなんじゃどのみち――

「ほらよ」

 マコトがハンガーにかけていたコートをしのぶちゃんに投げ渡す。

「え?」

「春つってもまだ夜は冷えるからよ」

 目を白黒させるしのぶちゃんに、マコトはぶっきらぼうにいった。

「京都タワーだ。チャリで飛ばせば十数分」

「――マコト」

「期待すんなよ。ダメ元だからな。俺も、どうせあきらめるなら最後までやらないと気がすまないだけだ」

 しのぶちゃんはコートを羽織り、立ち上がる。

 さっきまで立てないほどだったのに、不思議と、力が湧いてきた。

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