1の32 近衛と面会人2

 面会所に着き衛舎かかりの取次ぎで面会室へ入った。

 殺風景な隊舎とは異なり、菱形の寄木張りの床に上等な敷布がしてありその上に幾組かの応接机と椅子が置かれている。ウェスリーが視線を巡らせると、広く切り取られた格子窓の前に薄青の上下揃いの服を着た女性が見えた。同生地の帽子は揃えた手に楚々と握られ、少しくすんだ色の金髪が窓からの光に照らされている。

「ジェマ」

 呼び掛けるとジェマは嬉しそうな微笑で振り向いた。

「坊ちゃん、お手紙ありがとうございました。お読みしてる内にたまらなくなって、来てしまいました」

「すまない」

 衣擦れの音を立ててウェスリーへと近寄ってくるジェマの顔を見て、俯いて謝ってしまう。ジェマは微笑んでいた表情を曇らせた。

「……少しお顔色が冴えないですね。大事無いとはお書きになっていたけれど、お怪我などされたり」

「いや、大丈夫。そこに座ろうか、疲れたろ」

 かぶりを振って手で近くの椅子を指し示した。促されるままに椅子に腰掛けながらもジェマはずっとウェスリーを見つめていて、どうにも落ち着かない気分になる。

 ウェスリーも机を挟んで対面に座り、改めてジェマに向かい合う。

「良かったのか今日は」

「旦那様にお休みを頂いて。坊ちゃんに会いに行くと申しましたら、快く送り出して下さいました」

「そうか」

「旦那様からこれを坊ちゃんにって」

 そう言うとジェマは持っていた籐籠から一冊の本を取り出した。卓上に差し出されたその表紙に目を遣ると思わず声が出た。

「アルカイン・ルウェリンの新作じゃないか」

「坊ちゃんには買いに行く暇がないかもしれないから、と仰ってましたわ」

「最近は書店にも行けていない……」

 呟きながら流麗な濃紺の装丁の本を手に取り目を輝かせて眺めるウェスリーを、ジェマはまた嬉しそうな眼差しで見つめる。

「良かった。坊ちゃんらしいお顔を見られた気がします」

 その言葉でジェマの視線に気付いて、ウェスリーは欲しかった本を前にしてついはしゃいでしまったことを恥ずかしく感じ赤面した。目を伏せて新作の本は脇に寄せておいた。

「……ありがとう、届けてくれて。別に荷として送ってくれるのでも良かったのに」

「帰って来られないと仰るから、私が来たかっただけです」

「うん」

「中級魔術士試験って大変難しいの? 大層お勉強しないと坊ちゃんでも受からないような?」

「入隊時に受ける初級よりは勿論難しいけど、大学の試験よりは簡単だよ」

「あら」

 ジェマは変な声を上げて口を噤んで見せた。その咎めるような表情を見てウェスリーは自分が口を滑らせたことに気付く。

「あ。だけど念には念を入れて対策しておかないと……できれば満点で合格したいし実技もあるし」

「坊ちゃん、試験のお勉強で帰れないというのは嘘ですね?」

 ウェスリーは溜息を吐いた。

 その沈黙の合間に、先程この部屋に通してくれた衛舎掛の上等兵が冷たい茶を汲んで持ってくる。ジェマがにこやかに彼に応対しているのをウェスリーは諦めたような気持ちで眺めた。

 上等兵が去り、互いに一口茶を飲み茶器を置いたところでジェマが続ける。

「……旦那様のこと、気にしてらっしゃるの」

 膝の上に両拳を置いてウェスリーは返す。

「父さんが何を考えているか分からない間は、帰ったところでどう接していいか」

 ジェマもそっと小さく溜息を洩らしたようだった。

 彼女のいつも穏やかに開かれた薄茶色の双眸は、今は微かに憂いを帯びて翳っている。そうさせているのが自分だと思うとウェスリーは申し訳ない気持ちになる。全体、この心優しい女中頭はいつも業務であるという以上にポーター親子に尽くしてくれるので、ウェスリーには過分な心遣いである気がしてしまうのだ。彼女に対する後ろめたさが勝って、ウェスリーは意気込んで言う。

「ジェマ、次の休暇にはきっと帰るようにするから」

 その言葉に少し目を緩ませると、ジェマは肯定とも否定とも取りにくい曖昧な風に頷いた。そして再び脇に置いてある籐籠に手を伸ばし、小さな陶器の容れ物を取り出した。白地に薄い紫で細かい花の装飾が描かれている。ジェマが卓上で蓋を開けて見せる。

 青みがかった紫色の小さな欠片が幾つも入っている。菫の花の砂糖漬けである。

「お好きだったでしょう紅茶に入れて飲まれるの」

 そう言うと蓋を閉めてウェスリーの方へ差し出す。

「春に作っておいたんです。本当はお帰りの際にお出ししようと思っていたのだけど、持って来ました」

「ありがとう……」

「坊ちゃんと旦那様は」

 力無く礼を言って容器を受け取るウェスリーにジェマが言う。

「お二人共よく似ていらっしゃる。お優しくてそして頑固です」

「う……」

「本当は、旦那様の言うなりに軍に入らないでも、お家を出てご自分でお役所勤めなり大学へお勤めになるなり、しようはあった筈でしょうに」

「……そうだな」

 常に無い強い調子で思うところを言ってのけるジェマ。ずっと思っていたがついに堪りかねたという風情である。それを聞いてしょげた様子でウェスリーが俯く姿に、彼女は困ったように笑って見せた。

「強情な坊ちゃん」

 その笑顔の隅にもの哀しさを見つけてしまい、ふっと息を吸ってウェスリーは顔を上げる。

「二年」

「え?」

「二年勤めれば希望して除隊できるんだ。それまでに給金を貯めて、自分で生活できるようになってから、改めて魔法学の道を取ろうと思う。それまで心配を掛けるが」

「坊ちゃん」

「坊ちゃんはやめてくれと言ったろ」

 一気に思いを言葉にして、ついでに呼称への苦情を付け加えたところでウェスリーの顔面は真っ赤になった。ジェマはほうっとした不思議そうな顔で彼を見ている。ウェスリーはどもりながら続ける。

「ちゃんと、あ、あなたに安心してもらえるようにする、から」

 だからもう心を痛めないでくれ、と続けたかったが口が回りそうになかったのでそこで黙り込んだ。膝に拳を置いて唇を引き結んで見ていると、机の向こう側のジェマは目を丸くして、そして口許に両手をやると相好を崩した。

「坊ちゃんのお顔……」

 呟くと、肩を震わせて笑っている。

 またウェスリーの苦情は無視されたようだ。だが兎に角ジェマが笑ってくれたならそれで良いと今はそういうことにしておく。笑いを含んだ声で、ジェマが穏やかに言う。

「ふふふ。私は坊ちゃんがどうなされようといつも坊ちゃんのジェマでいますわ」

 猛烈な照れ臭さから、口を真っ直ぐ横に引き結んだ表情をどうにも変えられず、珍妙な顔のままで座っているウェスリーである。大きくなっても姉に甘やかされるのがかなわんと言っていた大学の同期生を思い出す。彼も丁度こんな尻のこそばゆいような気持ちだったろうかと考える。いたたまれずにウェスリーは先程ジェマに手渡された白い陶製の容器を開けた。中に窮屈ではなく詰められた菫の花弁を一つ手に取り、口に運んだ。

 軽く噛むと、さりっとした砂糖の歯触りの後に微かに生々しい卵白の味、そして後から爽やかな春の花の香りが口いっぱいに広がる。

 鼻腔に抜けていく甘やかな香りを感じたところで、ウェスリーはふっとあることを想起して目を見開いた。

「どうなさったの」

 ジェマがウェスリーの表情の変化を目聡く察して問うてくる。

「いや、何でも」

 答えて口の中に残った柔い花弁を舌で触った。

 この香りだ、とウェスリーは思いも寄らぬ発見に少しく動悸を感じた。同時にその動悸を僅かな不快感と共に受け止める。

 ミハル大尉。

 あの粗雑な大隊長が纏っている香りが菫の花のそれだと、ウェスリーの中で嗅覚と記憶が結び付いて分かってしまった。彼のシャツを洗った時の洗濯所の水の匂いまで一緒に思い出す。

 鼻の根元に皺を寄せて、ウェスリーは砂糖漬けの入った陶器の蓋を閉めた。


 それから暫く他愛もない話をして、ジェマは汽車の時間がと言って帰って行った。

 更に数日して、休暇を終えたスヴェンが戻って来た。土産だよ、と渡されたのは動物の形を模した焼き菓子で、子供扱いを不満に思うも食べたら美味しかったので文句は言っていない。

「君に女性が訪ねてきたと聞いたんだが、本当かね」

 就寝前、隣の寝台に腰掛けて顎髭をさすりながら嬉しそうに問うスヴェンに対し、ウェスリーは顔をしかめて返す。

「そういうの、どこから聞いてくるんです」

「ふふふ。女性はここでは目立つから、女絡みの情報はあっという間に広まるぜ」

 で、どういう関係の女人かね、と続けて問い掛けるスヴェンを横目で睨んで、ウェスリーはシーツの中に潜り込んだ。

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