2 ミヤガラス
「……貴方こそ、何をなさっているんです」
軍帽の庇の下から睨み付けるようにミハルを見つめて、ウェスリーは却って問い返した。
魔物型の庭石の、丁度頭の部分に腰を下ろしているミハルは立てた片膝を胸に引き寄せるようにして両腕で抱え込む。こて、とこめかみを自身の抱えた膝に落とすとウェスリーを横目に見て言う。
「遊んでた」
こいつらと、と続ける声は覇気が無い。本当にあの戦場で見たミハル・クシードル大隊長と同一人物なのか訝しく思ってしまう。
ミハルの態度と声色に鼻白むウェスリーは、彼の肩に留まった鳥がヤックヤックと鳴く声で、あることに気付く。
「ミヤガラス、ですか?」
薄暗くて詳しく観察できないが、先程からミハルの頭の周りをじゃれるように飛んでいる鳥二羽は、黒い羽毛をしたどうやら
「名前は知らん」
ウェスリーの問いにもどこ吹く風といった風情のミハルの返答。
「ただいっつも寄ってくるんだよな」
膝の上に頭を載せているミハルの首筋に、烏が額をこすり付ける。くすぐったそうに肩を竦めて、ミハルが喉の奥で笑う。相変わらず飛び回っていたもう一羽も今は反対側の肩に留まったようだ。ウェスリーはその様子を呆然と眺めることしかできない。
「……烏って人に懐くものなんですね」
「知らんけど」
「実際に懐いているじゃないですか」
「よく分からんのだけどなんでお前喧嘩腰なの」
「うく……っ」
ある意味で図星だったのでウェスリーは小さく呻いてしまう。この男の調子に引き摺られたくないあまりにどうしても語調が強くなってしまうのは自覚していた。そこを見透かされていたように感じて、羞恥から顔がかっと赤くなる。この顔のすぐ赤くなる癖も何とか改善したい、と顔を背けながら思うウェスリーである。
ミハルはそんなウェスリーに目もくれず、肩の烏に菓子の欠片なんかを与えている。視界の端に彼を覗き見ながら、そんなものどこから出してきたんだろうとウェスリーは思う。
せめてシャツの
渋面を作って改めてそっぽを向いているウェスリーにミハルが気の無い風に言う。
「で、お引っ越しは終わったのか」
「はい」
「広く使えていいだろ」
ミハルが膝から頭を上げると、二羽の烏はぱっと飛び立った。近くを飛びながらヤックヤックとまた鳴いている。
「……そうですね」
「敷物とか買ったか?」
「敷物?」
聞き返しつつ振り向いて吃驚する。いつの間にかミハルが髪が触れるくらい近くに来ていて、ウェスリーの顔を覗き込むようにしていたからだ。心臓が跳び出しそうに思うが、実際は代わりに変な声が出る。
「うぁ……」
揺れる長い前髪の間から覗く菫色の両眼と視線が合ってしまった。腰が引ける。息が掛かりそうな距離でミハルが続ける。
「床に何か敷いとかねえと冷たくて寝転べないだろ」
床に寝転ぶなんてしないから別に緊急に必要ではないと言ってやりたいがまずその前に。
「そ、それを言うためだけに顔をそんな近付けないでください!」
「なんで?」
「なんでって……!」
「またお前、ネラプシみてえな真っ赤っかな顔して」
ミハルは軍袴の左右の衣嚢に手を突っ込んでウェスリーから離れると、上体を軽く反らせて笑い始めた。ネラプシとは吸血系の魔物の一種で、確かに奴等の顔は真っ赤だがそれに喩えられるとは心外であるとウェスリーは憤慨した。
「言うに事欠いてネラプシはないでしょう! 元はと言えばあんたが馬鹿みたいに顔を近付けてくるから!」
「男に近付かれたからって何だって言うんだよ」
くふふ、とまるで芝居の悪役じみた含み笑いをしながらミハルは言い返してくる。ウェスリーもまだ収まらない。
「男だろうが女だろうが人として適度な距離ってものがあるだろう!」
「適度な距離か」
「そうだよ!」
「俺にとっての適度な距離はお前には分からねえだろう」
「あっあんな近いのがあんたの適度な距離だって言うのか」
勘弁してくれ。
段々と悲痛な表情になってきたウェスリーを面白そうに眺めてミハルはにやにやしている。衣嚢に手を突っ込んでゆらゆらと体を揺らし、続けて口を開く。
「ところで適度な距離くんよ。上官に対する適度な口の利き方ってやつは学ばなかったのかね」
「あ……」
ウェスリーは呆けたみたいに口を開け放す羽目になった。
お前のその無礼極まりない口の利き方を見逃す代わりに、ちょっと付き合え。と、笑いながらミハルは言った。
人質を取られたような気分で憮然として付いて行く。大隊本部の大隊長執務室に立ち寄って勤務服の上衣を引っ掴んだと思うと、すぐに本部の建物を出る。地面と足の裏との接している時間が人より短いんじゃないかとウェスリーが訝るような、不思議な浮遊感のある足取りでミハルは先導して歩く。
すっかり夜である。
時間的にはそろそろ入浴の順番が回って来るし、その後には夕食も控えているのだからなるべく早く解放してほしいと願うウェスリーである。が、しかしミハルはどうも営外へ出ようとしているようだ。
営門で歩哨に立つ上等兵に敬礼で見送られ、兵営の正面に伸びる道を東へ進み始めるミハルに、ウェスリーは堪え切れずに問い掛けた。
「どちらにいらっしゃるつもりですか」
肩に上衣を引っ掛けて先を歩くミハルは振り向きもせずに答える。
「兵隊店」
「え」
兵隊店とは、兵営の近隣に店を構える飲食店や商店の総称だ。大抵は、兵隊通りと呼ばれる今まさに二人が歩いている街道沿いにあって、主に軍人相手に商売をするのである。
「何をしに」
まさか夕食を取るのだろうか。先程本部付きの下士官に言われた注意事項を思い出して心許無い気持ちになる。食事を食堂以外で取る際は経理部へ一声掛けろと言われたのだが。
ミハルの気怠い声が言う。
「敷物を見るんだよ」
「えぇ……?」
彼の答えに思わず間抜けた声を発してしまう。
「別に今すぐに必要ではないって言ったじゃないですか」
「えっ言ってねえよお前そんなこと」
「えっ」
ふいっと肩越しに意外そうな表情を向けられ、ウェスリーもはたと気付く。そういえば言っていない。言ったつもりになっていたが言っていない。そのために今こんなことに。
「最悪だ……」
額に掌の付け根を押し当てて、顔を歪ませ苦々しく呟いたウェスリーを見て、ミハルは唇を尖らせた。
「何が最悪なんだよ」
「いえ何でも」
「何なのお前のその変わり身。こえぇわ」
すっと無表情になったウェスリーを睨み付けてミハルは前方に顔を戻した。そんな彼の斜め後ろを歩きながら、同じく睨むような視線を送り、しかしウェスリーは気付いてしまっている。
今傍らにいてくれる者がいることで、それがずっと嫌っていると思っていたこの男だとしても、どうしようもなく安堵している己がいる。今は一人になるのが怖くて仕方がない。
部屋を出て人気の無い場所を探して、どうするつもりだったのだろう。先程あの場にミハルがいて、声を掛けられて、自分はほっとしたのではないか。こんな内心でいることを知られたくはない。
街路灯の弱い光の下を妙にふわふわした足取りで歩むミハルに、ウェスリーは俯いて付いて行く。
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