1の21 クヴィエト市1

 乗合馬車の乗降口の踏み段に足を掛けて、ウェスリーは街路に降り立った。

 降りた瞬間、柔らかい風と共に甘い香りが鼻腔を満たした。どこか蜂蜜のようにも感じられる花の香り、菩提樹の花の香りである。

 行き交う人々で賑わう石畳の街路には、両脇に豊かな葉振りの菩提樹が並び植わっている。

 菩提樹はリパロヴィナの国樹であり、どこの街にも植えられている一般的な樹木だ。しかしそれでもここ、クヴィエト市の駅前通りの菩提樹の並木は中々の美観である。

 息を深く吸い込むウェスリーを、振り向いたスヴェンが笑う。

「君は匂いが気になる人なんだな。何だか生家で飼っていた犬を思い出す」

「犬……」

「可愛い奴だったよ。豚の鼻が好物でね」

 人を勝手に犬に重ねて勝手に豚の鼻などと言うスヴェンを、ウェスリーは恨みがましく見つめる。スヴェンは気付いていないのかにこにこと笑いながら前に向き直った。

「さ、はぐれないよう付いてくるんだよ。クヴィエトには余り来たことが無いんだろう」

「訓練学校の頃に引率外出で一度来たきりです」

「ふむ。今後は何かと来る用もあるだろう。大体の位置関係は覚えておくがいい」

「はい」

 今日は非番の日である。

 魔物相手でいつ何時戦闘があるか分からない昨今の軍隊事情、平時戦時という区分は無い。そのため全員がまとまって休日を取ることは無く、交代制でおよそ一週間に一度非番の日が設けられている。

 そして非番、休暇は何か事情が無い限り、パートナー同士が同じ日程にされる。

 ウェスリーは数日前スヴェンに私用外出への同行を求めた。目的は図書館であり、第七師団兵営から気軽に来ることのできる範囲で最も規模の大きい都市、ここクヴィエト市に二人やって来たのだ。

 クヴィエト市はオチ州の政庁所在地であり、商業の中心でもある。中央部への汽車が出ているのもここであるため、通過するだけならウェスリーも何度か通ってはいる。

 中央部へ通じる汽車を含め、幾つかの路線を有するクヴィエト駅は、乗合馬車の乗り場から通りを東に少し行ったところにある。だが今日はそちらには用は無い。駅の方角とは真逆、駅前通りを西へと進む。

 馬車や、数は少ないが自動車が走る広々とした大通り沿いには、石造りの大きな百貨店や赤色煉瓦からなる宿泊施設、種々の服飾店が建ち並んでいる。

 辺りに視線を向けながら付いて行くウェスリーにスヴェンが言う。

「帝都に比べると田舎だろう? これでもここ数年でぐっと都会めいたのさ」

「元々帝都でも繁華街には足が向かない人間でしたから……何とも言えません」

「へえ、勿体無いね」

 いつものように刈り整えられた顎髭を右手で撫でながら、スヴェンはゆったりとした足取りで前を歩いて行く。

 そんな彼の後ろを歩くウェスリーは落ち着かない気持ちである。

 二人は今、巡回時に着用する帯青茶褐色の戦闘服ではなく、にび色の勤務服と同色の軍帽を身に着けている。下士卒は公用外出時のみならず私用外出時も軍服着用が義務付けられているのだ。

 一見して軍人と分かる出で立ちである。見る者が見れば、所属や階級まで明瞭であろう。自分の属性を明示して歩くというのは、ウェスリーにとって居心地の悪いものと感じられる。

 勿論、それこそ下士卒にとり外出時軍服着用が義務とされている理由なのだろう。悪さはできない、ということだ。ウェスリーには悪さをする気など毛頭無いが。

 スヴェンののんびりした声が言う。

「先に飯でも食うかい。そろそろ昼時じゃないかな」

「まだ早いです」

 スヴェンの言葉を受け、腰の衣嚢いのうから懐中時計を取り出し確認してウェスリーは答えた。

 点呼後に朝食を摂った上ですぐに出て来て、兵営近くの乗り場から乗合馬車で二時間ほど揺られていた。それでもまだ一〇時にもなっていない。

「そんなものかい。では先に君の用事とやらを済ますかね」

「よろしいですか」

「よろしくありますよ」

 そうしてスヴェンの案内でウェスリーは図書館を目指した。

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