1の30 下士官浴場

 蓮の実のようなシャワー口から噴き出される湯を浴びて、ウェスリーは項垂れた。

 髪の間を通り頭皮を伝う熱い湯の感触に今は安堵も覚えない。温水が首筋から背中へと流れるにつれてぬるくなっていくのが却って寒気を誘った。

 気付けばウェスリーの身体はぶるぶる震えている。

 怖かった。あの場所がただ怖かった。

 震えを抑えるように右手を横の仕切りに押し付け、身体の細かな揺れが収まるのを待ってからウェスリーは頭髪を洗い始める。念入りに汚れを落とす。全身に瘴気がまだ纏わりついているように感じて、普段よりも一層念入りにと指を動かす。

 ダンジョンから戻った者は皆、衛生兵から浄化魔法を掛けてもらい瘴気を払い落とす。そこで魔的な意味での浄化は済んでいる。だのに、ウェスリーは気持ち悪くて堪らなかった。皮膚の上にもう一枚薄く汚い膜が張っている、そんな気がするのだ。

 髪を洗い流す。石鹸の泡が足元を流れていくのを見つめていると、また吐きそうな心持ちになってきた。もう一度洗おうか。しかし一人当たりの入浴時間は決まっていて、時間がそんなにあるわけではない。身体を先に洗ってしまって、時間が許せばもう一回……。

「酷い痣になったね」

 ずうっと足元の一点を見つめて止まってしまっていたウェスリーの背中に、聞き慣れたスヴェンの声が掛かる。ウェスリーは頭に湯を浴び続けた状態で立ったまま、振り向かずに問い返す。

「……何です?」

「背中、酷く青痣ができているよ。かなり強く打ち付けられたものな」

 言って、スヴェンはウェスリーが使用しているシャワーの隣の仕切りへ入って行く。向こうからも湯の落ちる音が聞こえてきて、何故かウェスリーはようやくそこで少し落ち着いた。湯を止める。そして急に顔に血が昇るのを感じた。先程の戦闘で、随分情けない姿を晒したと思う。

 ずっと紙のように白かった顔を赤らめながら、ウェスリーは置いてあった海綿を手に取り石鹸を付け泡立てた。いつものよう耳の後ろから洗っていく。所々が痛む体に隈なく海綿を滑らせていると、仕切りの向こうからもう洗い終わったのかスヴェンが顔を覗かせた。

「飯が終わったら一度医務室に行っておくかね」

「そんなに酷いですか?」

「そのままにしておいたら、数日君の後ろ姿を見る度に罪悪感に駆られそうだ」

「罪悪感なんて」

 呟いてウェスリーは前を向く。再び身体を洗うことに専念し、今は膝の裏を海綿で擦っているが、その間もスヴェンが隣から視線を送ってきているので自然と動作が速くなる。もう一度髪と体を洗い直すことは諦めざるを得なさそうである。スヴェンがゆったりした調子で言う。

「やはり衛生兵の回復魔法でも一回くらいでは綺麗に治らないもんだね」

「どなたか掛けて下さってたんですか」

「覚えていないか、朦朧としてたものな。あの後衛生箒兵がやって来てね、掛けて行った。君ずっと譫言を言っていたよ、母さんって」

 ウェスリーは動きを止めた。浴場の別の場所で誰かが鼻歌を唄っているのがいやに耳に響く。足の裏の濡れたタイルの感触が気色悪い。思わず足の指をぎゅっと縮こめる。

 助けを求めるように目の前のシャワーの握りを捻って湯を出す。また頭から湯を被った。泡が全て流れていくのを待つ間、次にスヴェンが何を言うかと身構えた。

 だが彼はそれ以上特に何も言わずに湯槽ゆぶねの方へ歩いて行ったようだ。

 オチ州第七師団では、リパロヴィナ軍の兵営としては割と一般的だが、浴場に湯槽が備え付けられている。湛えられている湯は、兵営の西方面にあるストゥシブロ山地に湧く源泉を引いてきて沸かし直したものだ。薄い緑に濁った湯色で、泉質が傷に効くようなことも言われているが、何より有難がられる理由はこの湯の湧く山が神聖とされるからである。第七師団の将兵はこの湯に身体を浸けるのを日頃楽しみにしているのであった。

 例に漏れず湯槽での入浴を好んでいるスヴェンが湯に脚を差し入れているのを、肩越しに見た後ウェスリーは更に首を背中側に曲げてみる。痣を確認できるかと思ったのだが、どうもよく見えない。脱衣場の鏡で見るしかないな、とそれ以上は諦めた。

 使い終わった海綿の水気を切り、石鹸箱を手に取るとそろそろと自らも湯槽に入りに行く。なるべく湯面を騒がせないように静かに脚を下ろし、縁に用具を置いてから湯の中で腰を落ち着けた。やや熱めに焚かれた湯がじんじんと身体を温める。腿やら腰やらがずきずきと痛んだ。スヴェンに指摘された背中も、もし湯槽の縁に凭れ掛かったとしたら酷く痛むだろう。

 鼻から細く息を吐く。

 少し離れた隣では同じように座したスヴェンが、対面に浸かっている者と雑談をしている。夏季休暇をどうするか、田舎に戻っても農作業を手伝わされるだけだ、と話す相手ににこにこと相槌を打つスヴェンは、もう先程のウェスリーとの会話のことは気に留めていないように見える。ウェスリーは湯の中にゆらゆら滲んで見える自分の膝に視線を落とした。

 あの時の女性の声。

 あれはきっと母さんの声だ。母さんの、死ぬ前の。

 だが自分はあの悲痛な声を覚えていなかった、とウェスリーは改めて思い返す。唐突に頭の中に響いて、そこで初めて思い出したという感覚だった。忘れていた。母のことなのに。

 母は寂しいと感じて死んだのだ。死ぬことに恐怖と孤独を感じて、そのまま死んだのだ。そう思い知らされた気がした。

 母はウェスリーが幼い時に病で死んだ。このまま軍にいれば、遅かれ早かれ自分も若くして死ぬだろう。死ぬのは嫌だ。死にたくない。

 喉が詰まったように息がしにくい。

 無意識に顔を真下に俯けていたため、鼻先に湯の当たる水っぽい感覚で我に返る。同時にぐいと腕を横から掴み上げられた。ざばっと音を立てて湯が波立つ。

「ウェスリー!」

 驚いて、気付けば目の前にあったスヴェンの顔を見る。

「のぼせたか? それともどこか痛むか」

「いえ、その」

 浴場のあまり明るいとは言えない灯りの下、スヴェンの薄茶の細い目がウェスリーを見据えている。心配をしてくれているのだろうが、少し大袈裟な気がしてしまう。

「大丈夫です、あの、考え事をしていただけで」

「……もう上がろうか。医務室へも行かなければならないし、今日は兎も角体を休めた方がいい」

 掴んでいた腕を離しながらスヴェンが湯を滴らせて立ち上がる。はい、と返事を返してウェスリーも湯から上がった。

「飯の後で医務室まで付き添おう」

「すみません」

 置いてあった石鹸類を手に取り、先を歩くスヴェンに付いて行く。背後の湯槽から先程スヴェンと話していた下士官が声を上げる。ひでえ色だな、と言ったように聞こえて、ウェスリーはまた自分の背中が気になった。

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