1の33 混乱
リパロヴィナの短い夏が終わる頃、一度ミハルが任務より帰還してすぐのところに出くわしたことがある。
ウェスリーは午後の巡回を終えた後、体力練成のため練兵場に移動している途中であった。ふと見ると、練兵場近くに設置されている足洗い場で、一人の男が頭から水を被って汚れを洗い流している。頭を屈めて蛇口から大いに水を浴びているが、軍服の上衣も着たまま、肩まで濡れようがお構いなしといった風情だ。
ミハル大尉か、と顔は見えなかったがウェスリーにはすぐに分かった。
見たところ洗い流しているのは血だ。ざばざばと遠慮無く流しているところから鑑みるに自らの出血ではなく魔物の血であろう。大量に浴びたのだろう、流れる水の色はなかなか透明にならない。
ウェスリーは何となく立ち止まってしまう。
リパロヴィナ軍では将兵の中に刀を使う者が少なからずいる。ミハルもその一人である。
刀を始めとする近接武器を用いる者は、魔物に肉薄して攻撃するため魔法中心で攻撃する者より返り血を浴びることが多いのだ。
しかし、ここまで返り血を大量に浴びて帰ってくる者をウェスリーはまだ見たことがなかった。顔や上衣に多少飛び散っているのを見る程度である。
どんな戦い方をするんだろう。
若くして大隊長に取り立てられている理由を、魔法術の能力が高いためかと推量したこともあったが、その読みが全く外れていることはすぐに分かった。ミハルが刀を用いて戦うことは部隊内では周知の事実であった。彼が魔法をほとんど使わず剣術と体術でここまで昇進してきたことも。
今時、という思いがウェスリーにはある。
まだ魔法というものが一部の魔術師らの秘匿された知識であった頃、人間が魔物に対抗する術はそれこそ物理的な攻撃手段しかなかった。多くの魔物に体格や膂力で劣る人間は、魔法という力を得てようやく魔物と対等に渡り合えることができるようになったのだ。だからこそウェスリーのような非力な者でも軍属となり魔物を討伐することが可能になるのである。
人間が必死で手に入れた力を必要としない人間。
ミハルはそういう類の人間なのか。
自分でも気づかぬ内に彼の背を見る視線に力がこもっている。ミハルはというと、ようやくこびりついた血を全部洗い流すことができたのだろう、蛇口を捻って水を止めた。しとどになった髪をぎゅっと絞って簡単に水気を取ると、前髪を乱雑にかき上げる。
「なんだよ」
唐突に声を掛けられウェスリーはびくりと体を震わせる。ミハルが振り向きもせずに言ったその言葉は明らかにウェスリーに向けられたものだ。
背中に目でも付いているのか。さほど接近しているわけでもないし、音を立てたつもりもないのに。
ウェスリーが動揺して何も言えないでいると、ミハルが振り向く。濡れた黒髪が顔の横に一筋落ちる。少し驚いたような顔を見せると彼は更に言った。
「お前かよ。オットーかと思った」
どうやら背中に目が付いているわけではないらしい。
「なんか用? すげえ視線を感じたんだけど」
「し、失礼致しました。用があるわけではありませんのでこれで……」
「お前さ」
すぐさま立ち去ろうとしたのに言葉を続けられてしまう。ウェスリーは先程から逸らせないままの視線をミハルの両目に注ぐ。知らなかったがミハルの瞳は綺麗な紫色なのだ。
「な、なんでしょう」
「学者さんにでもなった方がよかったんじゃねえの」
「は」
「死んじゃったら元も子もないからな」
淡々とした調子でそう言うと、ミハルは傍らに置いてあった箒を手に取り歩み去っていった。ウェスリーは動けないでいる。
そんなやり取りを思い出して、ウェスリーは止まった思考回路が再び動き出すのを感じた。
そして自分の置かれた状況を思い出す。
膝をついて座り込んでいるのだ。戦場だというのに。前に伸ばした両の腕の中にはスヴェンの体。既にこと切れている。彼の右腕はどこだろう。
まだ靄がかかったようにはっきりしない頭を叱咤して、ウェスリーはスヴェンの上衣の襟に手を突っ込み、首に掛かった認識票を探り当てて引きちぎる。それを自らの上衣の
少し離れたところに置き去りにしてあった箒を取りに走る。四方から魔物の咆哮と将兵らの怒声。頭がおかしくなりそうだ。途中何度も地面の突起や転がった死骸に躓きつつ、ウェスリーは何とか自分の箒を掴んで跨ると箒術を発動させる。
勢い良く上空に飛び上がると、ある程度の高度まで上昇する。戦場を見渡す。
広い平野とその先に続く岩石地帯。その至る所で、無数の蟻のように将兵達と魔物が混戦状態になっている。低い位置を飛び交う箒兵の姿も多数確認できる。時折地上からの魔物による魔法攻撃を受け墜落していく兵士も見える。
経験不足のウェスリーには戦況は把握できない。同班の面々はどこにいるのだろう、無事なのだろうか。
戦闘開始からそれほどの時間が経たない内、戦闘による混乱のため班として動くどころではなくなり、スヴェン班始め殆どの班が散り散りになった。パートナーですらどこにいるか分からないような混沌とした状況に陥り、ウェスリーもまたスヴェンの姿を見失ったのである。次にスヴェンを見つけた時、彼は既に息絶えていた。
何故こんなことになったのだろう。
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