ほえる
あなたは外を見つめてる。
この一面真っ白な部屋にある唯一の窓から。
大きなベッドの中から見つめている。
起き上がっているものの顔色は優れない。
目を細め夕焼けをただただ見つめている。
「僕はどうしてここにいるんだろうか、君は誰なんだろうか。」
滑り落ちる、全てが落ちてゆく。
分かっていた、知っていた、彼がこういった状態だというのは出会ったときから知らされていた。
有り体に言ってしまえば健忘症というもの。
ただ彼の病は特殊で一年周期で記憶を失うというもの。
これはただ一度の例外もなく、四月一日に全てがリセットされる。
知り合った時には嘘だと思っていた、他愛の無い冗談だと。
実際に失っているところを見るまでは不思議なことを言うとさえ。
「僕は何か病気なのだろうか、それとも怪我でもしたのだろうか?」
記憶がリセットされるのは幼い頃からそうだったようで、親の顔も忘れてしまうということだった。
ご両親は理解し悲しみ、そして諦めたのだという。
それからこの施設で生活することになった。
それを彼は悲しんではいない、自分に落ち度があると、そう生まれてしまった自分が悪いのだと。
親の愛を忘れ、産んでもらった恩を忘れ、こんな親不孝者は居ないと自嘲気味に言っていた。
たぶん、きっと、今はそのことすら忘れている。
忘れるということは悲しみも喜びも全て消し去るということ。
良い事でもある、と彼は言っていた。
一年間背負ってきたものを一瞬でも下ろせる、と。
そう言っていた彼は一年間の記憶を日記として残している。
同じ事をもう一度新鮮な気持ちで文章とはいえ体験できるというのもその一つだと言っていた。
だから忘れる前日にちゃんと日記を見るように書き残している。
彼は辺りを見始め書置きを見つけた。
「ああ、僕は日記を残していたのか。それなら教えてくれればいいのに。」
私は言葉を出せなかった。
出会って数年、何度も失う場面を見てきた。
最初は嘘だと思い、二度目は忘れさせない努力をし始め、三度目以降は徐々に慣れてきた。
最初に失ったときは不安だった。
また私を好いてくれるのか、今まで愛したことは意味があったのだろうか。
泣きじゃくっていた私に彼はこう言った。
「失ってごめん、でも不思議と君のことは好きなんだ。」
その言葉で一層大きな声で泣いたことを覚えている。
そんな私を見て彼は頭を撫で続けた。
失った彼のほうが悲しいはずなのに、困惑しているはずなのに、ただただ撫で続けてくれた。
そこから私は彼に忘れられないように必死でいろいろした。
自分の好物すら忘れてしまう彼のために毎日好きなものを作り、好きだと言っていた映画を見せ、そして毎日愛した。
そんな努力は徒労に終わる。
二度目のリセット。
私は泣きながら私を責めた。
努力が足らなかったのだ、愛が足らなかったのだ、と。
そんな私をまた黙って、静かに、頭を撫でてくれた彼。
「君と僕は恋人、いや夫婦だったんだね。」
窓の外には満月が昇っていた。
彼は日記を読み終え、私のほうを向いて微笑んだ。
いつもの笑顔、優しい笑顔。
私はまた泣きそうになるのを堪える。
この悲しみに慣れないといけない。
一生を愛すると決めたから、なんとなくでも記憶を失ったその日の彼が毎回言ってくれる一言でそれを決めたから。
「不思議と日記を読む前から君を見ると心が温かくなる。好きみたいなんだ、こんな僕だけど一緒に居てくれるだろうか?」
何度目のプロポーズだろう。
何もかもを忘れても身体が心が覚えてくれている。
記憶なんて物よりも彼自身が覚えてくれている。
それだけでいい、これだけで充分だと私は満ち足りている。
「はい、何度でも何度でも一緒に居ます。忘れても忘れてもずっと私だけを見ててくれるあなたを愛します。」
彼に駆け寄り抱きしめる。
すると耐え切れず泣いてしまった。
ほえるように大きな声で泣いた。
彼は頭を撫でてくれている。
そしてまた彼との一年が始まる。
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