第3話 小さな違和感

 二階に上がった泉が、躊躇いなく駆け込んだのは、目覚めた部屋。

 味気ない食事の最中に、ワーズから好きに使って良いと言われたこの部屋は、奇人街に迷い込んでしまった人間のための空き部屋だという。わざわざ一室を空けておくほど、人間が迷い込んでしまう場所なのか、と驚いた思いは、すでに過去。

 とにもかくにも、家主の許諾を得た部屋へ入った泉は、まるで追われている者のように急いで後ろ手に扉を閉めると、これに背中を預けて息を整えた。

「と、とにかく……着替えよう」

 人前に出ようと思わない格好を、長い間人前に晒していた羞恥は、呼吸が落ち着いたところで頬の赤みを消すに至らない。解消するには着替えるしかないのだろう。

 そう考えて、下着入りの袋二つを壁際に置き、薄桃の服の上下を手に取る。

 さすがに一度は洗っておきたい下着は今すぐ替えないにしても、異性のいる一つ屋根の下、鍵のない部屋で着替えるのは、心もとなく落ち着かない。

(洗面所の方が良かったかしら?)

 そんな風に思ったものの、バスルーム手前の脱衣所兼洗面所には、鍵のないアコーディオンドアしかなかったことを思い出す。

(……もしかして私、無防備過ぎ?)

 昨日は疲れのあまり気にならなかったとはいえ、そうなるまで走り続けたそもそもの原因は、ワーズという不気味な男と、彼が話す得体の知れない世界から逃げるため。結果として、語られた世界は現実であり、彼自身は一応安全らしい、という判断で今に至る訳だが、もう少し警戒するべきかもしれない。

「お世話にはなっているけど、それはそれ、これはこれ、よね」

 半分は自分に言い聞かせるように小さな声で呟いた泉は、とりあえずの打開策として、扉を背にして着替えることにした。着替えを勧めてきた以上、ないとは思いたいが、いきなり開けられたとしても、これで対処できるはずだ。

 まずは手早くズボンを取り替え、続いて上着へ、と黒いシャツを脱いだところで掛けられる声。

「泉嬢?」

「はっ! はい!?」

 幸いにして開けられはしなかったものの、聞き取れなかった足音に心底驚き、脱いだばかりのシャツを胸にかき集めて扉に向かい合う。

「な、なんでしょうか!?」

「いや、そういえば干す場所のこと教えるの忘れてたと思って。奇人街は知っての通り空気が悪いからさ。室内干しが基本なんだよね。だから、部屋の柱の部分にフックがあって」

「フック?」

 言われて部屋を見渡せば、鈍い銀色のフックが見える部分が二カ所ある。

「で、それに紐を掛けて干すことになるんだ。。一応、他にも洗濯に必要だと思うものは、籠に入れて持ってきたんだけど……大丈夫そう? なんだったら、ボクが紐を掛けるし、干すのも――」

「け、結構です! お気持ちだけで!!」

「そ?」

 一瞬だけ、カチャッと動いて見えたノブ。

 これにシャツを捨て、慌てて両手で掴んだ泉に対し、扉越しのワーズは重ねて言う。

「ああ、そうだ。洗濯機の使い方は分かるかい? 洗剤は洗濯機上の収納棚にしまってあるけど、入れる場所とか教えた方が」

「だ、大丈夫ですから! 分からなかったら、その時にでも!」

 一言「お願いします」と口にしてしまったら最後、何の抵抗もなく開けられそうな扉の気配に、青か赤か判断のつかない顔色で「大丈夫」を繰り返す。

「そお? それじゃあ、下にいるから、分からなかったら声かけてね」

「は、はい!」

 ワーズには見えないだろうに首を上下に振った泉は、去っていく足音を聞き届けると、ようやくノブから手を離した。

(わ、悪気はないと思うけど……心臓に悪いです)

 逸る鼓動を落ち着けるために、深呼吸すること数回。

「……さむ」

 水着一枚の上半身も手伝って、早々に冷静さを取り戻した泉は、またワーズが来ない内に、と上着に袖を通していく。

(なんだか、民族衣装みたい)

 初めて着るタイプの服だったが、労せず着替え終わった泉は、シワを伸ばしながらそんな感想を抱いた。

 強調、とまでは行かないものの、それなりに身体の線が出る胴体部と長袖。袖の先は緩めに作られており、膝下まで伸びる裾もスカートのように広がっている。両側の腰下に入ったスリットのお陰で動きにくさはないものの、上半身には多少の羞恥がつきまとう。

「……ん?」

 泉はここでふと、違和感を抱く。

 試しにくるりと回ってみるが、ふわりと広がる裾と袖が普段着にしては可愛らしいくらいで、特別おかしなところは見当たらなかった。

 それでも、奇妙な感覚は拭えない。

「うーん?……うん、それよりも」

 どんなに考えても出てこない答えは後回しだ。

 片付けなければならないモノは他にある。

 泉は置き去りにしていた袋へ目を向けると、「よしっ」と小さく気合を入れた。

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