第16話 襲撃者

 "実験器具"を片付けては、当然のように食卓へ腰掛けるスエ。

 彼の名を知ったのは昨日のことだ。

 そして、あの子どもと再会したのも――。


 どたばた慌ただしく降りて来た男は、ぎょろりとした目をワーズへ向けるなり、こちらへ駆け寄ってきた。突然の物音に怯え、ワーズの影へ隠れていた泉は、風呂上りの自分を思いやって男へ場所を譲る。

 それほどまでに男の姿は汚れていた。唯一、白衣だけがまばゆいばかりの白を保っていたが、それが余計に男の汚れ具合を際立たせている。

「おや、スエ博士。お久しぶり」

 そんな小汚い身なりの男に縋られて、ワーズが楽しそうに笑った。

 対する男は、ワーズを盾にする格好で身をかがめながら、目をつり上げて叫ぶ。

「なにを呑気な! お前、アレをなんとかシロ!」

 自身の姿を顧みない横暴な指が階段を示せば、甲高い子どもの声が二階から駆け降りてきた。

「待ってください、スエのおいちゃん! シイは、シイはもう!」

 現れた姿に泉は目を剥いて息を呑む。

 この子どもを泉は知っていた。

 芥屋で目覚め、彷徨い歩いた最初の日。

 疲れと空腹で涙を目に溜めた泉へ、優しく声をかけては――血を要求した、子ども。

 しかし、目の前にいる姿は泉の知る子どもとは少々違って見えた。光を帯びた柔らかな髪は警戒するネコに似て逆立ち、人懐っこそうな夜色の瞳を際立たせる白目は赤く充血している。尖った耳は鋭さを増して見せ、剥いた牙はちらりと覗いた時の比ではないほど、鋭く大きく変容を遂げていた。

 飢えて溢れる涎。

 留まることを知らないそれは、スエと呼んだ男を捉えて喉を鳴らした。

 ビクッと生命力が乏しく見える男が震えれば、これを合図に子どもが彼へ飛びかかろうとする。

 しかし、突然の凶行は、ひらりと間に舞った猫の出現で止められた。

「ナウ」

「っ!!?」

 ただの一鳴き。

 威嚇でも警戒でもない、それだけのことで子どもは動揺し、逃げ道を得るべく店側へと跳躍する。

 これを見送る面々。ワーズは嘲笑混じりに嗤い顔を続け、原因であるスエは子どもの逃走にほっと息をつく。

 その中で、泉だけが複雑な思いを抱える。

 一瞬でも見出した、小さな救いの主。

 捕食者の面を持とうと、泉を勇気づけた人懐っこい笑顔。

 それが猫を前にして見せた、傷ついた、悲しそうな姿。

 胸を衝く子どもの悲痛な表情に、何故か泉の胸に罪悪感が生まれた。無意識に一歩踏み出しかけたものの、途端に倒れる小汚い白衣から、検討のつかない粉が舞い跳んでは、生理的な嫌悪感が先立ってしまった。

 かくして泉は夢に見るまでの間、印象深かったはずの子どものことを失念し――


 そして考え及ぶのは、目を背けておきたかった事実。

 あの時、泉を元気付けるような真似などしない方が、子どもにとって血を得るのに好都合だったはずだ。半ば自暴自棄に陥った泉へ、わざわざ声掛けしてから血を要求するなど、手間以外の何ものでもない。

 では、それをしなかったのは何故か?

 手間を掛けた理由は?

 応えは思いの外あっさり出で、すんなり納得させるもの。


 ただの親切、それだけ。


 ゆえに、考えたくなかった。

 だからこそ手は朝食を作りつつ、気持ちは落ち込む一方。

「……はあ」

 溜息ついたら幸せは逃げる、というが、溜息自体は深呼吸と大差ない。それ以前に、幸せじゃないから溜息をつくのだろうに、本末転倒だ。

 落ち込む時は、落ち込みたいだけ落ち込むに限る。あとは這い上がるだけだと、前を見据えられるまで。底につくまでは、鬱陶しいことこの上ないと自覚している。それでも、他の手が見つからないのだから仕方あるまい。

 あの子どもを追いかけても居場所は知らないし、奇人街の在り方は今もって恐ろしい。

 何より、見つけたところで昨日の様子である。根こそぎ血を啜られて終わり、などという結末は嫌だった。

 煩雑に沈みつつ、焼いた魚をおぼんへ乗せる。

 そうして振り返れば、暗鬱とした気分が一気に吹き飛んだ。

「え……と……なにを、してるんですか」

(――あんたら)

 粗雑な言い草をぐっと呑み込めば、来訪に気づかなかった袴姿の美人さんが、不敵な笑みを浮かべていた。

「よお、綾音。朝飯を頂きに来たんだが……久しい顔がいたもんでな。つい」

「……つ、つい?」

 昨日同様、またも土足で居間へ上がっていた史歩は、あらかた片付け席について食事を催促するスエの脳天へ、鞘を叩きつけていた。呻き声もなく食卓に突っ伏すスエからは、得体の知れない粉は出ない。

 あの後、強制的にバスルームへ連行され、奇声を発しながら綺麗な身となったためだ。

 昨夜一階で掃除をしていた泉の耳には、ワーズへの悪口とへらへら宥める声が届いていたが。

(まさか一緒に入ってる? いや、まさかまさか……洗って?)

 濃い野郎二人の入浴シーンを想像しかけた自分の頭を呪い、今に至っては思い出となったそれをかき消すように首を振る。

 ついで眼で捉えた史歩の暴力に対し、困ったような顔をして笑うワーズ。そんな泉に気づいた彼は、苦笑のていで自分のこめかみに銃口を突きつけた。

「史歩嬢はスエ博士と仲良いからねぇ」

 ……どうしてこの状況で言うのか。

 艶やかな微笑を浮かべ、額には青筋を携えて。スエへ打ち付けた鞘を返す勢いのまま、気合の声もなく、ワーズの顔面へ放たれる史歩の鋭い一撃。

 いっそ小気味良いくらい勢いよく、ガラス戸へ背中から倒れこんだワーズだが、盛大な音を立てた割に曇りガラスにはヒビ一つ入らない。

「あたたたた……」

 丈夫なガラス同様、あるいはそれ以上に頑丈なのか。あの一撃を食らって顔面に赤い線をつけただけのワーズは、緩慢な動きで起き上がるとコートを払い、「酷いなあ」とへらへらするのみ。

 一連の展開についていけない泉は、ただただ唖然とするしかない。

 それでも、史歩がなにも言わず席についたのを見て取り、食事の用意をそそくさと再開していく。

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