第22話 幼い過去
名を呼ばれた時、シイは懐かしさに囚われてしまった。
「シイ」や「ガキ」と呼ばれ続け、もう随分と慣れてしまった乱暴さとは違う、「シイちゃん」という甘やかな響き。
いないと分かっているのに、違うと知っているのに、振り向いてしまう。
今振り向いたところで見えるのは、生白い化け物ばかりだが。
暗い路地裏、街灯下の通路。
疾風の如く駆け抜けるシイの足は、止まったはずの出血が痛みと共にぶり返していた。そんな足で無理に動いているせいだろう、度々バランスを崩した身体は壁や地面を滑り、所々に生傷を作っていた。
(このまま死んでしまえたら、シイは皆と会えるのでしょうか?)
呑んだ血以上に流れた血液で霞む視界の中、ぼんやり思った。
今より少しだけ小さかった頃。軒下で過ごすシイには家族がいた。
血の繋がった死人の家族。
付けられた種族の名とは裏腹に明るかった親兄弟に囲まれて、シイは幸せであった。
呼び声は、思い返せばいつも優しい。
幽鬼が襲うことはその当時ももちろんあったが、家族は隠れるのがうまかった。
だから、油断していた。
夕方から朝方にかけての夜の時間帯のみに現われ、去る幽鬼を絶対と信じてしまった。
深夜。
いつものようにざわめいていた奇人街が、唐突に静寂を纏った、その日。
胸騒ぎから家族を探すシイが物陰に見つけたのは、転々と倒れる姿。
慌てて駆け寄るシイを認めた近くの目は虚ろ。
それでも紡がれたシイの名と、「逃げて」の声。
訳も分からず近寄るシイの足を止めたのは、びくっと大きく揺れた身体に合わせ、開かれ涙に溺れる眼。
口からは死人の唯一の食料である鮮血が多量に溢れ出る。
異様な情景に呑まれながら、ゴクリと喉を鳴らしたシイは一歩後ずさる。
食い入るように一点を見つめたまま。
物陰から、嗚咽と呻きを上げる喉へ、そろそろ伸びる白い、触手に似た指。
響く、鈍い音。
愉しむように続いて現われた、肉のない歯を剥き出した顔。
こちらを見て、にぃと笑った。
――それから後のことをシイはあまり覚えていない。
走っていたような気がする。
こんな風に、逃げて逃げて逃げて…………。
幽鬼から?
否、その粟立つ匂いから。
幽鬼の血は死人の糧にならないが、惑わす香りは食欲を増進させてしまうらしい。これを嗅ぐ最中、更に運ばれる芳醇な血の匂いが合わされば、一時だが枯渇に等しい空腹感を覚える。
そしてその血の匂いには、いつだって家族の香りが含まれる。
幽鬼の行為自体は奇人街において決して珍しいことではない。
もっと残虐な方法を好んで使う輩も多く、シイとて昔から重々承知している。
実際、幾度かその場面に出くわしたこともあった。
それでも幽鬼が別格で恐ろしいのは、偏に飲み干しても飲み干しても、際限なく唾液が溢れてくるため。
血を、欲してしまうためだ。
血と花の匂いに紛れて届く、懐かしい匂い――味を。
同族の――家族の、血を。
シイは何より、自分が恐ろしかった。
奇人街の住人ですら忌避する共食いを、枯渇の陰で画策する自分が。
そうして倒れた先で、実験失敗により癇癪を起こしていたスエと出会い、気まぐれに拾われた。
家族の血を願うのが恐ろしくて、もう死にたいと望んだシイに、
「ワシが拾った命ネ。どう扱おうがワシの勝手ヨ」
と呑まされた味は、今でも忘れられないほど格別。
けれど、飢える度鼻孔をくすぐる家族の血の記憶に、いっそ狂えたらと思うほど理性は研ぎ澄まされていく。
軒下で泉と最初に会った時、シイは自分に似た匂いを彼女に感じた。
簡単に折れてしまう脆弱さを。
あれから泣けない自分とは対照的な、泣く彼女に。
だから幽鬼を前にして、死を直前にした家族同様「逃げて」と言う彼女にシイは怯えてしまう。
同時に夢想するのは、救い。
泉を助けることで、重ねた自分や家族を助けたつもりになりたかったのかもしれない。
込み上げる吸血衝動を押し殺して、舌に転がした彼女の血は、家族ともスエとも違う、奇人街にはない変な味だったけれど。
「でも、幾ら重ねたところでシイが死んじゃったら、本当に助けたことにはなりませんね」
自棄になりかけた頭を振る。
邪な枯渇症状は別としても、逃がされた身がどれだけ辛いかはよく知っていた。
あの呼び声に、自分の笑みに似た空虚な響きなど欲しくはない。
助かるため、前に見える袋小路を目指す。
この足でも上の通路に跳べるはずだ。
跳躍するべく、痛みを押して沈み、一気に地を離れる足。
だが、物陰から不意に現われた一体が、宙の足を無造作に掴んだ。
戦慄する間もなく振り回され、からかうが如く袋小路へ投げ捨てられる。
傷口が開く激痛に、シイは着いたとて、もう逃げられないことを悟った。
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