第21話 妥協

「動かないで」

 チープな脅し文句が耳をくすぐる。

 この期に及んで従いたくはなかったが、幽鬼の存在が抗うことを許さない。

 口を塞ぐ左手。両腕ごと身体を抱く、銃を持つ右手。

 黒いコートに後ろから抱きすくめられた泉は、自由な眼で目の前の幽鬼を見つめる。

 すぐ近くにいるというのに、動かない方が危険ではないか。

 そう思いながらも留まっていれば、生白い裸体がこちらを向いた。

 反射的に目だけを横へ逸らす。合えば追われると、これまでの経験から判断しての行動。

 だが、感じる視線は避けられず、身体が震えそうになる。

 それでもじっと耐えたのは、微動だにしない背後の気配を感じたため。

 しばらくこちらを見ていた視線が離れ、併せて泉の目が幽鬼に戻ったなら、ぬったりとした動きで左方向へと歩き出す。

 硬い地面を踏む裸足の音が遠ざかり、乗じて緩んでいく右腕の拘束。

 機を逃さず、なおも塞ぐ手を片手で下げ、思いきり噛みついた。

「痛いっ!?」

 怯む相手を振り払い、痛みに重い右腕を叱咤して、そのまま頭から走る。

 だが、左手があっさり取られてしまった。

 かといって中年のようにしつこく抱き締める真似はせず、向かい合わされた先。

 困惑したワーズの顔がそこにある。

「酷いよ、泉嬢。幽鬼から助けてあげたのに」

「離してください! 私は絶対シイちゃんを助けるんです!」

「君が? 猫を使うのに?」

 あげ足を取られ、詰まる泉。

 そういう行動をしているのだと理解していても、真正面で言い切られると怯んでしまう。

 追い打ちを受けそうなこちらの沈黙に、ワーズはため息をついて言う。

「確かに猫は君を好いてる。アイツは人間だからって手を緩める訳じゃないから、あれだけ懐くのは珍しいけど」

 芥屋を名に冠しながら店主のモノではないという猫。

 ワーズを飼い主と言った時の、猫のもの凄く嫌そうな鳴き声を思い出す。

(……でも、どうしてそんな話を?)

 てっきりこのまま芥屋へ連れて行かれると思っていたのだが。

 真意が読めず、伺うようにワーズの次の言葉を待つ。

 逃げ出さないと判断したのか、左手が解放された。

 途端に痺れと痛みが起こり、慣らすように服を擦る。

 思ったより強く掴まれていたらしい。それとも、振り解こうとした力が強過ぎたのか。

 そんな泉を気遣いながらワーズは続けた。

「そう。アイツは気まぐれが過ぎるんだ。だから史歩嬢は君に刃を向けた。ワーズ・メイク・ワーズだってなかなか食べれないし」

 ……話がかなり脱線する。

 胡乱気な顔を向ける泉に対し、ワーズは苦笑してみせた。

「だから、ね? たぶんだけど、君が望めば、猫は間違いなくシイを助けるよ」

 驚きに眼を開く。

「芥屋に連れて行くんじゃないんですか?」

 つまり?

「まあ本当は無理矢理にでも連れて帰りたいところだけど。ここまで来ちゃったし、帰ったら泉嬢、泣き続けちゃいそうだし?」

 へらり、赤い口をぱっくり開けて笑う。

 それだけで肩の力が抜けるのを感じた。

 自分でも呆れるほど安心する。

 しかしワーズはそこで複雑な表情を浮かべて笑い、

「ワーズ・メイク・ワーズはね、泉嬢。人間が好きだから助けるんだけど、死んだ者に興味はないんだ。自己犠牲とか、大っ嫌いなんだよ? なのにあれは君を助けた。ホント、死に縛られたヤツってのは、何考えてんだか」

 言い含めるように語られる、不思議な話。

 死人という種名はさておき、シイのあの明るさを浮かべて、死という単語は到底結びつかない気がする。疑問をそのまま口に出するべきか迷って首を傾げれば、黒いマニキュアの手が唐突にこちらへ伸びてきた。ぎょっとする泉へ断りなしに、血塗れのクセ毛が一房、ワーズの鼻先まで持ち上げられる。

 顔を顰め、一言。

「……変なニオイ」

「んなっ!」

 不覚にもちょっぴり胸を高鳴らせてしまった分だけ腹が立つ。

 幽鬼やら住人やらの返り血を浴びては、そう評されても仕方ないが、わざわざ目の前で言う必要などないではないか。

「んー……変態中年と年増鬼火がニオイの元かな? アレらに会ったの?」

「……分かるんですか?」

 ずばり的中した推測に、怒りより驚きが勝った。ただし、セクハラ・キフは訂正の必要がないくらい変態だとしても、クァンを年増と思ったわけではない、決して。

 さておき、ワーズは緊張感なくへらり笑って泉の髪を解放すると、こめかみに銃口を押し当て傾いだ。

「終わったら、髪、念入りに洗わなくちゃねぇ。服とかは洗濯機でどうにでもなるけどさ。そだ、なんだったらボクが」

「いえ、結構です!」

 嬉しそうな提案を腹に力を込めて拒絶する。

 途端に不満を浮べるワーズ。

 呆れつつも窘めようとすれば、通り過ぎたはずの生白い姿を視認し、泉は言葉を呑み込んだ。

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