第3話 みんな大好き
「ええと、ワーズさん?」
「んー?」
「史歩さん、どうしちゃったんですか?」
食事の後片付けを終えて食卓に戻れば、注がれるお茶。ふんわり漂う、甘く柔らかい香りに吐息を一つ、口内を潤してから、再度階段脇でうろうろする袴姿を見つめる。
つい先ほどまで泉の目の前でラーメンを啜っていた史歩だが、今は心ここに在らずといった様子で二階を睨んでいた。
泉の正面の席に座ったワーズは、不思議そうな顔へ、へらり笑いかける。
「さあ? 推測でいいなら多分、スエ博士が降りてくるのを待ってるんじゃないかな?」
「何のためにですか?」
普段の彼らの様子は決して良好ではない。どちらかと言えば悪いように思えた。
「スエ博士、
「はい。……いえ、たぶん」
聞き間違いかもしれないので、断言は避けておく。
味は覚えていようと聞き慣れていない、クイフンという響き。
それでも、充分とばかりに頷いたワーズは、銃を持つ手の甲で頬杖を付き、楽しそうに自身のカップの中身をくるくる回す。
「猫も好物、だけどね。史歩嬢も好物なんだよ、幽鬼。いや、違うか。奇人街に住んでる連中は全員が全員、好物だろうねぇ」
「はあ……ワーズさんも?」
いまいち要領の得ない発言に眉を寄せつつ尋ねると、少し考える素振りで茶を一口。
「んー、ワーズ・メイク・ワーズの大好物は猫だよ。ずっとね。でも、最近は特に食べたいねぇ。生でも良いし、煮ても焼いても、蒸しても漬けても、揚げても――」
「ああ、はいはい」
うっとりした声へ、おざなりな返事を被せる。
件の猫は昼食が出来たタイミングで現れ、食後、誰も座らないソファで無防備に眠っていた。これをワーズ越しに見る泉は、呆れた気分ごと茶をゴクンと飲み込む。
「それで、スエさんがクイフンって言ったら、どうして史歩さんがうろうろしなくちゃいけないんです?」
「うん? まあ、スエ博士は幽鬼の研究もしてるからね。気になって仕方ないんじゃないかな。ここしばらくは出現してなかったし」
「出現?」
「あれ、もしかして史歩嬢、幽鬼の説明してないんだ?」
若干嬉しそうな色が滲むのは、泉の無知や史歩の不手際が理由ではないだろう。十中八九、説明のお鉢が自分に回ってきて喜んでいるのだ、この人間好きの構いたがりは。
「幽鬼は夕方から朝方にかけてまで出現するんだけど、条件はあんまり決まってないんだ。毎日って時もあれば、すっごく間を置いたりするし。どんなものか表すなら、生白い鬼が妥当かな」
「んんっ?」
気づけばカラになる手前だったカップの中身に、飲み干そうと大きく煽ったところで変な単語が聞こえてきた。合わないタイミングに怪訝な音だけで聞き返せば、茶をひと啜り、へらりとワーズが笑う。
「結構強いんだ。そこら辺徘徊してる住人程度じゃ、まず敵わない。動きが速いってわけじゃないんだけど、知覚できても避けるのが難しくってね。スエ博士が言うには、幽鬼特有の匂いには、感覚を混乱させる働きがあるらしい。把握が難しいんだって。だから大振りの攻撃も当たっちゃう。少し掠めただけでも、肉が削がれたり、骨が砕けたり、それはもうグチャグチャになるんだよ」
「ん……く。ちょ、ちょっと待ってください。そんな矢継ぎ早で説明されたって、頭に入りません!」
呑み込み、手の平を向けて制止を望む。
ワーズの説明から、クイフンとやらは植物ではなく動物と知れたが、果たしてそれはあの蜜の持ち主であろうか。実はクイフンという響きは他にもあったりするのではないか。猫の好物と先に言われているため、同一の存在であることは間違いないのかもしれないが、蜜を持つ鬼と聞いてもピンと来ない。
(蜜入りの壺をいつも抱いているのかしら?)
浮かんだのは、虎模様の腰巻きを身に付けた鬼が、小脇に抱えた壷の蜜を嘗める、何とも滑稽な姿。これで鬼自体が草花っぽかったり、蜂に似た形をしているなら、ピンと来そうなものだが。
まだ見ぬ鬼の姿に悩める泉。と、そんな彼女を余所に、階上からまた、どたばた駆けてくる音が響いてきた。
降りて来たのは、先ほど同じようにどたばた駆け上がったスエであり、彼を待ち構えていた史歩はその足が一階の床を踏む直前、掻っ攫うようにして胸倉を掴んだ。
「ぐぇ」
喘ぐスエを前にして、史歩は陰惨な笑みで噛み付くように問う。
「いつだ? いつ、幽鬼が現われる!?」
最終的にがくがく揺さぶられて、二の句が告げられないスエに代わり、その身からぱらぱら埃がばら撒かれた。
「げっ、汚い!」
「うわ……」
呻いては遠慮なく突き飛ばす史歩。自分で締め上げといて散々な言い様だが、現在のスエは先ほどまでの小奇麗さが嘘のような埃まみれであり、遠くからでも咽てしまうカビた臭いをまとっていた。初めて会った時ほどではないにしろ、それなりにお近づきにはなりたくない姿である。誰よりもスエから遠い泉でさえ、思わず椅子ごと後ろに下がってしまう程だ。
解放を得たスエは、そんな少女二人の反応には目もくれず、唯一純白をキープする白衣を翻すと、誰に尋ねるでもなく、食卓に置かれたままのラーメンへ飛びついた。確かにこのラーメンはスエの分ではあったが、冷めた上にスープを吸っていて、完全に伸びきっている。
「ああ、ボクのおやつ」
「…………」
おやつ云々はともかく、伸びたラーメンは本人の立候補もあり、ワーズが食す筈だった。
尤も、スエが来たら改めて茹でようとしていた泉に対し、「来たら待たせることになるから、スエ博士の分も作っておこうよ」と言い、来なかったら来なかったで「もしかしたらこのまま来ないかもしれないし、責任持ってボクが食べるね」と、姑息な手順を踏んでの立候補ではあったが。
さておき、隣にいるワーズの言葉に一切耳を貸さないスエは、伸びきった麺をがむしゃらに、次から次へと掻き込んでいく。元々食事をゆっくり味わう性分ではなかったが、急ぎがてら爛々と輝きを増していく三白眼は気味が悪い。
最後に、少ししか残っていないスープを一口で飲み干したスエが丼を叩きつければ、埃やカビが周囲の宙を舞う。
これに泉が更に身を引き顔を顰めても我関せず、咀嚼物の若干残る口が開かれた。
「来るヨ来るヨ来るヨ!!」
物と一緒に唾が飛ぶ。
「ひっ」
泉が慌てて席を立とうとも、スエは血走った目で熱心に語り、いや、捲くし立てる。
「ワシの発明はいつだって完璧ネ! だからこそ、ワシはワシを護らねばならん。ワシの発明は命より大事だが、ワシの頭は発明を作り上げるに必要ヨ。手足も人を遣っては、細部まで立ち行かん。おお、こうしてはおれん! ワシはワシを――」
「落ち着け!」
先ほどまで落ち着きなくうろうろしていたとは思えぬほど、真っ直ぐに声を張る史歩。
自分は自分、他人は他人と割り切ったその姿は、いっそ清々しい。
けれどずかずか近寄り、スエではなく食卓へ手の平を打ちつけた目は、抑えきれない喜悦の狂気に歪んでいた。じゅるり、滴る涎を呑み込む美人の笑顔が怖い。
「幽鬼の話、詳しく聞かせて貰おうか?」
これを細めた目で迎えたスエは、鼻白むに似せて、面白そうな色を濃くする。
「ふむ。野獣娘がワシの発明に興味を持つなぞ、珍しいことネ。ふむ……ふむ。良いだろう。教えてしんぜよう」
微かな音を立て、スエの前にカップが置かれた。
視界には入っていたはずなのに、気づけなかったワーズの行動に驚く間もなく、スエが咳払いをして宣言する。
「幽鬼……あれは今日現れるヨ。ワシの発明した予報機の精度は確かネ。まあ、難を上げるなら、動かしてから初めての反応という点だけネ」
「いや、充分さ。お前自体は胡散臭いことこの上ないが、お前の発明の正確さは、初めてだろうと信用に値する」
褒めているのか貶しているのか分からない応えをし、史歩がくっと笑った。
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