第2話 予兆
そうして時は過ぎ――
史歩の講義は、黒いコートが食卓へ倒れ込んだことで、唐突に終わりを迎えた。
「わわっ!?」
「いきなりなんだ、店主」
突拍子のない乱入に、ただただ目を丸くするしかない泉とは対照的に、、眉を顰めた史歩が、心臓を狙う動きで黒い背に鞘を叩き込む。鈍く響く一撃を頂戴した店主は「ひぐぇ」と鳴くと、泉の方を向き、何事もなかったようにへらりと赤く笑った。
「そろそろ昼飯にしない? 腹ペコなんだ、ボク」
「……普通に言えばいいじゃないですか」
「んー、真剣だったからさ、普通じゃ声、届かないかなと思って」
返事は聞かず、いそいそ店側へ向かう黒い背は、ふらふらと食べたい物を呪文のように呟いていく。
これをたっぷり見送った後で呼ぶ。
「史歩さん」
「なんだ?」
「ワーズさんて……史歩さんが従業員だった時も、あんな感じだったんですか?」
聞いたところで益になりそうなものは何もない問い。
けれどとても気になった。
史歩相手にああならば、三日だけだろうと、きっと毎日が暴力沙汰だったに違いない。
ただ、どちらかに同情しろと言われて、けろりとした被害者・ワーズを選べないのは何故だろう。
そんな泉に対し、史歩の答えは至極簡潔。
「いや」
「……そうですか」
他愛ない問いに継ぐべき言葉はなく、ワーズの乱入により散らばった紙とペンを集める。一纏めにしたそれらを腕に抱えた泉は、自室へ片付ける前に、一言ワーズへ断りを入れた。
「これ、置いて来ますけど、すぐ戻ってくるんで……絶対、作らないでくださいね?」
「……うん、分かってるよ?」
ちょっと開いた間が怖い。
人間好きを豪語する手前、人間との約束を反故にするとは考えにくいワーズだが、解釈違いはこれまでにも度々起こっている。完全に信じ切れない二階へ向かう足が、心持ち早くなってしまうのは仕方のないこと。
辿り着いた自室のテーブルへ、些か投げるように紙束とペンを置いた泉は、すぐさま階下を目指していく。
その際、不意に階段へ向かう進行方向正面、ぶち抜かれた壁奥が視界に入った。
スエ本来の住処であるそこは、元々芥屋のモノであったという話の通り、木目が続く天井と床、白い壁は泉が立つ廊下と同じ造り。
だが、破れた壁を境に光景は一変する。
窓がない代わりに昼夜問わず明るい芥屋の廊下に対して、暗い廊下。向かって左側には、こちらにはない窓がいくつも設置されているのだが、どれも昼間だというのに閉じたブラインドカーテンが掛けられている。そこから漏れる光で分かる廊下の様子と言えば、常に空気中に漂う埃と、壁沿いに置かれた大小様々な物体の輪郭のみ。
はっきり言って、あまり見続けていたい場所ではない。
そこから出てきたスエの、清潔とは程遠い状態のせいもあるにはあるが、何より気味が悪いのだ。芥屋からの明かりが届かない奥から、得体の知れない化け物が出てきそうで、純粋に怖かった。
一度だけ、一時的に塞ぐ案を出した泉。だが、スエから「帰る時に面倒ヨ」と素気なく却下されてしまっては、どうしようもない。ワーズを頼ったところで、大好きな人間二人の異なる意見に、板挟みになるのは明白。――いや、もしかすると彼ならば、そんな状態を喜ぶかもしれないが、どの道、泉にとっての解決策には繋がらない。
このため、泉はそれ以上訴えることも出来ず、スエの住処を視界に入れない努力を続けてきた。
それが今になって、視界に入ってしまったのは、そこに見慣れない光を認めたせい。
暗い廊下の向かって右側、部屋と思しき場所から明滅する、赤い光。
何かを警告するような赤だが、音は一切なく、それが余計に不安を掻き立ててくる。
階段に辿り着くまで光に見入っていた泉は、逃れるように視界を切った。そうして降りた先で材料選びをするワーズを認め、ほっと息をつく。
異常を見た後の日常――未だ慣れたつもりのない身の上で、そう感じるのもおかしな話だが、泉は変わらないワーズの姿に、確かに安堵を得ていた。
次いで、纏わりついた不安を拭うように、淡い青の服を払って伸ばす。
これにより増して落ち着きを取り戻したなら、何かに没頭し続けているスエへ近づき、聞こえないかもしれないと思いつつ声を掛けた。
「あの、スエさん。スエさんのところから、赤い光が――」
「うけええええええええええええええぇぇぇぇぇぇ!!」
「っ!」
突如、奇声を発するスエ。
慌てて耳を塞いでも、けたたましい音は鈍りもせず鼓膜をつんざき、
「っせぇ!」
「ぇぐふっ……」
怯まず近づいた史歩が、スエの脳天を容赦なく刀で叩き潰した。
抜き身は鞘に収まったままだが、威力はしばらくスエの動きを止め――なかった。
痛みに悶えると思われたスエは、がばっと起き上がるなり、充血した三白眼を史歩に向け、一直線に突進していったのだ。
「げっ」
尋常ならざる様子にさしもの史歩も怯み、大股で一歩退く。けれどもスエはそれすら目に入っていないようで、白衣を翻してはドタバタ階段を駆け上がっていった。
泉はと言えば、一連の奇行に動けず、すぐ傍を通りかかったスエの呟きを耳にする。ただしそれは、固有名詞と思しき単語を、舌を噛み切りそうな速さで繰り返したもの。聞き慣れはしないものの、聞いた覚えのあるそれに、泉はしばし記憶を探り、店側から聞こえた「ホットケーキも良いな」という呑気な声で、思い出したとある単語を口にする。
「……クイフン?」
スエが現われる直前に振る舞われたホットミルク。その中に混ぜられていた蜜の主。
あの蜜の味は、彼の汚れを持ってしても褪せることなく、呟いただけで舌の上に蘇る程。濃厚でありながら柔らかな口当たりと、余韻を残しつつもくどくない後味。ついでに好物だと、猫に唇を舐められた記憶まで蘇ったなら、史歩に思いっきり両肩を掴まれた。
「ひっ、ごめんなさい!」
反射で謝る泉。
「……は?」
「は……って、え……?」
対する史歩は、肩は掴んだまま戸惑いを浮べ、迎えた泉も似た顔をする。
ついつい見つめ合ったまま、双方動けずにいたなら、視界の端に現われる黒一色。
「んーと……昼飯、ラーメンが食べたいかなぁ、って思ったんだけど」
二人の少女から急に視線を向けられたワーズは、銃口でこめかみを掻きつつ、へらりと笑った。
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