第15話 甘い蜜

 夜闇を下地に、明かりを受けて輪郭を描く街並み。幽鬼が徘徊しているせいか、逃げ惑ったあの日の煌びやかさは形を潜め、青白い光が寂れた雰囲気を醸し出している。

 ――その、上空。

「うっ」

「騒がないでくれる? 落っこちたいなら私は構わないけど」

 降りかかる冷ややかな声音に、泉は出しかけた叫びを丸呑みする。続いて視線を少しだけ上に向ければ、下からの明かりを受け、うっすら影として見える羽ばたき。足場がないことにぞっとしつつ、状況から想像するのは、背中を掴まれ飛行する自分の姿。

 思わず自分でも掴もうと女へ両腕を伸ばしかけ、右の激痛に襲われたなら、我に返って諦める。ヘタをすると掴んだ直後に煩わしいと払われ、真っ逆さまに落ちてしまいそうだった。

「…………な、何故に私は、飛んでいるのでしょうか?」

 夜の空は地上より冷たく、高さからくる恐怖も相まって、震える唇で辛うじて尋ねる。

 鳥人の女はこの努力を嘲笑うように鼻を鳴らし、

「決まってる。餌さ」

「餌?」

「……うん、あそこが良さげ」

「何の」

 心の準備を促す声掛けもなく、またも一気に旋回し降下する景色に、許されたのは一つ。 おおおおおおおお――……と続いた母音は、べしんっと壁へ打ち付けられて止まった。

「い、いたい」

 当たった鼻は赤く、下をたらりと垂れる感触に慌てて袖を当てる。鼻血と思ったものの、袖口に残るのは湿り気だけ。鼻水と知ったところで喜べるものでもなく、羽ばたきを耳にしては壁を背にして振り返る。

「な、何なんですか、あなた!」

 壁直前で手を離した鳥人の女へ、ちょっぴり涙目の指を向けた。

 震えているのは、恐怖を凌駕する混乱によるもの。

 流れる汗は、上空より温かな地上の空気に触れたための生理現象。

 へたり込み、立ち上がれない情けなさは……慣れ親しんだ地上の質感に、もう離れたくないと留まる足のなせる業。

 これら全てを一笑に伏し、鳥人の女はいつの間にか携えていた矛で軽く地を突いた。街灯を受けてぬらぬら濡れていることから、幽鬼を貫いた棒の正体はこれのようだ。

 明かされた女の得物に恐れをなし、勢いを失った指を回収する。

「へえ?」

 泉のそんな動作など、やはり気に留める素振りのない女は、何かに頷くと目を細めた。

「さっきは暗くて分からなかったけど、その服……。あんた、芥屋の従業員じゃない。ふぅん? 芥屋に届けてやれば、それなりの報酬は見込めそうだけど……」

 一考するように嘴の下へ指を押し当てる。

 だが、すぐさま首を振った女は、構えた矛を泉のみぞおちへと定めた。

「ひっ」

「やっぱ、止めた。こんな夜に人間なんて、使い道は一つしかないじゃない? 私の痕跡だって、幽鬼相手じゃ残らないでしょ?」

 問いかけるようでいて返答を必要としない呟き。

「な、何を……」

 泉は逃れられない殺傷の気配に青ざめながら、絞り出した声で問う。どうせ聞き流される、分かっていても言わずにいられなかった。しかし女はこの声に片眉を上げると、矛はそのままに首だけで辺りを見渡した。つられて見た泉は、広場に似た、少しだけ道幅の広い路にいると知る。

「あんたさぁ、よく分かってないみたいだから、教えといてあげるわ」

 言って、女の細められた目がこちらに戻る。

「人間なんてね、幽鬼のいる時に持ち運ぶのは危険過ぎる代物なの。それなのに、私はあんたをこんな見晴らしの良いとこまで運んだ。餌として」

「餌……」

「そう、餌」

 くつくつ喉を鳴らす女に、目を細めているのは笑っているからだと理解する。

「幽鬼はね、凡庸な奇人街の住人じゃ相手にならないほど強いの。とっても美味しいのにさ。もちろん、美味しいって分かってるってことは、狩るヤツがいるってことで、そして今、あんたの前にいる私がそれね」

「…………」

「くくく……。よく分かってないって顔ね?」

 馬鹿にする物言いだが、至近で保たれた刃に立てられる腹などない。

「まあいいわ。でね、ただ狩るんじゃ効率悪いのよ、幽鬼ってのは。街に溢れるったって、奇人街自体が広大なんだもの。あんたも見たでしょう?」

 上下する刃先に促され、泉は顎を僅かに引いて頷く。

 望まぬ高見から眺めた奇人街は、地平の先まで街灯が続いていた。辛うじて確認できた芥屋から、デタラメな走りで脱出出来るような広さではない。人間好きを豪語するワーズでなければ、あの時の泉の行動は今もお笑い種になっていたことだろう。

「だからさ、一箇所に集めるための餌が必要なのよ。私の取り分を増やすために」

「つまり……私は、幽鬼を集めるための、餌…………」

「そう。ここだったら、あんた目当ての幽鬼、上からいくらでも殺れそうでしょ?」

 首を傾げる鳥人の女に合わせ、服越しに伝わる冷たさ。

 視線を落とせば身を貫く直前の矛があり、上げる声も後回しに壁へ身を寄せても、非情に距離を詰めてくる。

 今にも裂かれそうな腹に怯えれば、嬲るような女の目が更に細められた。

「くくっ。あんたね、おあつらえ向きに怪我してるけどさ、出血も結構してるみたいだけどさ、まだまだ、誘き出すには足りないでしょ? 餌に逃げ回られても面倒だから、腹、裂いちゃおうと思って」

 顔を上げた泉の目が大きく見開かれた。

 ようやく状況が呑み込めたの?、とでも言いたげに女は肩を震わせる。併せて矛が、服の繊維を削ぐ振動を伝えてきた。

 だが、泉の反応は女の言動が元ではない。

 そのことに気づかないまま、優位に立つ女は傲慢なほど周囲へ気を払わず嗤う。

「大丈夫大丈夫。出血多量ですぐ死ねるわ。人間だし、痛いってだけで終るかもしれない。内臓飛び出ちゃうから、綺麗な死に様じゃないかもしれないけど」

 最期には、きゃらきゃら嗤いながら背を逸らし、

「あ……? な、んで?…………いつ……間に?」

 四方から身体を貫かれ、惚けた顔で女が呟く。

 幽鬼のいる時に人間の近くは危険――自分で言っておきながら分からない様子の女は、察する暇も与えられず、思い思いに払われた触手によって霧散した。

 泉の目の前で血肉と羽が舞う中、甲高い音を上げて地面に転がる矛。殺傷力のあるその先端、泉の動きを止めていたソレを、生白い足が事もなげに踏みつけ、粉砕する。

 当然だ。

 顔を上げた泉と目が合った瞬間から、彼らが狙い定めていたのは、彼女だけ。

 それ以外、気に掛けるモノなど彼らにはない。

 泉とて、それは同じこと。

 近づく一つ目に思考の全てを奪われた身体は、矛の拘束を失っても地しか掻けず。

 泉を囲い、止まる歩み。

 見上げる格好になる泉を見下ろす同じ顔が、にぃ、と唇のない口を歪める。

 そうして、一様に腕を引き、一様に泉を捉え――


 一様に、頭が爆ぜた。


 一拍遅れて地面へと突き刺さったのは、鳥人の女が持っていた槍と同じタイプの棒。

 空からの攻撃。

 けれど、彼女の仲間と結びつける余裕はなかった。

 間近に迫った死から一時的に解放された泉だが、未だ目を逸らせぬモノがあったのだ。

 ぼたぼたと、失われた幽鬼の頭部から滴り落ちる甘い匂い、金色の蜜。

 遠い記憶の底で、赤い口がへらりと笑って告げる。


 ――幽鬼の蜜だよ。


 温かなミルク、仄かな甘味。

 あの時思い描いた、蜜入りの壷を常時抱いてる鬼の想像は、壷を頭に乗せて陽気に笑う鬼へと変化。仕舞いには、頭に蜜を入れた生白い姿へ。

「あの、蜜の正体って、クイフンの…………………………………………」

 脳?

「うぐっ」

 迫り来る不快に萎えた足が力を取り戻す。

 噎せかえる極上の甘い香りから無我夢中で逃げ出した。

 泉と目が合った幽鬼は幸いなことに空からの攻撃で悉く絶命し、襲われる心配がない。 それは、良いのだが。

「なんだって、頭を潰すのよ!!」

 歩を進める度、卵の殻を砕いたような軽い音が至るところで響き、ペンキをぶち撒けた異様な水音が続いて、濃厚な蜜の香りも増し――――


 ついでに混じる血の腐臭を嗅ぎ取っては、純粋に泣けてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る