第14話 瓢箪から駒

 油断があったわけではない、はずだ。

 運が良いのか何なのか、自分でも驚くほど幽鬼を回避し続けていた泉は、その鬼火を見た瞬間、つい気を緩めてしまった。鬼火は面倒見が良いと教えられ、事実、鬼火であるクァンが泉に親切であったせいかもしれない。常に緊張を強いられていたことも手伝って、「大丈夫?」と掛けられた声に、助けを期待してしまった。

 だが、反して身体は動かなかった。

 その内に、状況を思い出した頭が鬼火の男に危険を知らせ、人間の自分が留まる方が得策ではないと足を退けば、今度はすんなり従う身体。

 これに戸惑ったなら、優しい男の顔が嫌な笑みを象っていく。

 街から逃れようともがいた最初の日、更なる絶望へ追い込んだ男たちにも似た……

 途端に心と一致した身体は、男の視線が外れた隙に逃走を図る。が、間に合わず、腕の痛みを取られて壁に押し付けられてしまう。

 それでも悲鳴を殺したのは、ひとえに幽鬼に勘付かれるのを恐れたため。

 状況はどちらにしても最悪であったのに。

 至近で吐かれた息は、血の臭い。

 咽ようとしても強い拘束が許さず、何事か囁く男の近づく目も逸らせず。

 死ぬのだと思った。

 浮かんだのは、シイへの謝罪。

 次いで現れたのは、血色の笑み。

 声なき声で、黒一色の彼へ、涙もない慟哭を。


 ゴメンナサイ。


 何に対して謝っているのか、自分でも判別できないのに、襲う胸の痛みは男の拘束よりも遥かに強い。

 抉られ、引き裂かれるような痛みに霞む視界。

 遠退く意識。

「ぇ」

「っだ!?」

 けれど唐突に、声ともつかない音を聞いて後、泉は地へと叩きつけられた。

 解放された後の衝撃で思い起こされた展開は、黒い影の虎。

 右腕の痛みも詰まった息も放り、手に絡みつく生温かな液体も認識せず、感謝に泣きそうな笑みを向け――――

 固まった。

 眼前、直立する男の頭には小さな角とは別に、生白い触手が生えていた。

 それが緩慢に握られては男の頭が消失する。

 繊維を千切る音や、嘔吐に似た水音が響いても、理解が追いつかない。

 噴出す液体が街灯の青白さと相まって、黒く映った。

 そこへ、きぃ……という音とともに、視界の端で戸が開く。

 惚けたまま自然と追えば、男が出てきた室内。窓から差し込む街灯しか光源がなくても、部屋に散らばるソレが何かは、嫌でも判別できた。標本や図鑑の絵でしか見たことのない、自身にも内包されている、白、あるいは茶に変色した、頭蓋骨、無数の骨。

 骨の在り方は、種によって違う、そんな話を思い出す。

 うまく働かない頭とて、男が人間を好んで喰うと察するに時間は必要なかった。

「っ!」

 おぞましさから、立ち上がるよりも先に地を掻き、人骨から身体を遠ざけようとする。

 この音を聞きつけてか、人骨の持ち主を壁に払い、現われる血塗れの裸体。

 縦の亀裂にはめ込まれた一つ目とかち合う。

 にぃ……と口を歪めた裸の足が、こちらへゆっくり向かってくる。

 合わせ、泉は座ったまま、幽鬼と目を合わせながら後退を継続した。

 右腕の激痛は絶えず襲おうとも、どこか遠い感覚として受け入れていた。

 恐怖に引きつる喉、表情とは裏腹に、感情は平坦。

 起伏の乏しさゆえ、息苦しさは続いても冷めた部分が語る。

 麻痺、しているのだと。

 後退するのは、生存本能の訴えであり、そこに泉の意思はない。

 止まれば確実に死が待つ状況は、背にした先の壁により終わりを告げた。

「っぃや……!」

 首を振ってそんな言葉を勝手に吐く。

 近づく幽鬼が弄るように立ち止まり、首を傾げる素振りをみせた後で、嗤いながら触手をこちらへ伸ばす。

 大きく震えるのは身体だけで、相変わらず心は動こうとせず。

 関節の多い、長い指を広げ、生白い手は泉の頭を掴もうとし――――

 地面が微かに揺れた。

「…………え?」

 零れた声は、麻痺が解かれた心からの困惑。

 直立不動を保った幽鬼は、伸ばしていた手をだらしなく床へ落し、項垂れた。

 さながら、糸の切れたマリオネットの様相。

 これをもたらしたのは、瞠目を続けたがために出所が知れた、幽鬼の背に生える長い棒。

 上からの、一撃。

 羽ばたきの音が耳朶を叩き、つい先ほどまで単調な動作に支配されていた身体が、仰け反るように空を見る。

 頭上には、星のない狭い夜空と瓦屋根の縁が続くのみ。

 ただその端で、ひらり、小さな影が舞った。

 見誤りそうなソレを目で追った泉は、街灯に象られた輪郭を呟く。

「……羽根?」

「人間?……へえ?」

 面白がる声。

 斑模様の羽根に意識を留めるのを許さず、顎の下を細い指が這う。

 そのまま声が発せられた方へ、半ば強引に向かい合わされた。

 視界に入ってきたのは、人狼でも鬼火でも、まして男ですらない――と思う。

「鳥人……女の、人?」

 外見では性別の知れない、斑模様の長い髪と嘴を持った鳥人は、泉のこの反応に目を細めてせせら笑った。

「おかしなことを言うわね? 鳥人には男しかいないとでも思ってたのかしら?」

「い、いえ……」

「ふーん?」

 否定が入り、再度聞いた声は確かに妙齢の女のもの。

 しかし、じろじろと無遠慮に眺める視線は、品定めに似て同性であってもおぞましい。

 逃げようと思っても、恐怖から一時解放を得た身体は言うことを聞かず、ささやかな抵抗すら舞い戻る腕の痛みが許さない。

「怪我してる、人間。……うん。…………うんうん、イイね」

 顎から手が離れ、唐突な解放に小さく咽た。

 終始楽しそうな鳥人へその意味を問う前に、身体が突然地を失った。

「へ? え? は?――――ふぎゅ!?」

 一度沈んだかと思えば、負荷が身体全体を襲ってくる。

 背中が涼しい。

 と、また唐突に負荷が取り払われ、今度は妙な息苦しさを感じた。

「………………空気が、薄い?」

「そりゃ、飛んでるからね」

「は? 飛んでって…………っ!?」

 上から降ってくる素っ気ない言葉。

 困惑に視線を落とした泉は、眼下に広がる夜景を認めるなり、喉を引きつらせた。

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